11月17日、父が突然他界した。

9月末に母が脳卒中で倒れて入院してから、夫婦離ればなれとなり1人になった心労もあっただろうが、あまりにも急なことで言葉にならなかった。母はゆっくりと回復に向かい病院でリハビリを頑張っている。いつもは妹と一緒に母の見舞いに行っていた父だが、倒れる前には1人で面会に行っていたと聞き、最期に夫婦2人の時間を過ごすことができて本当に良かったと思った。腹痛を訴え救急で運ばれてすぐに緊急手術となり、手術は成功したが術後の容態が急変し、翌日あっけなく亡くなってしまった父。大腸癌だった。本人も知らぬ病気に、きっと驚いたことだろう。だが、病院が大嫌いな父のこと、長患いはしたくなかったに違いない。急に心臓が止まったそうだが、自分の意思で止めたのではないだろうかとさえ思ってしまった。その場に私はいなかったが、妹の話を聞くと、NOBUYAが逝った時のことがフラッシュバックした。くも膜下出血で突然倒れ、その後患うことなく、あっさりと旅立っていったあの時にも、彼の明らかな意思を感じたからだ。まるでそれが最期の優しさであるかのように…。NOBUYAの葬儀の時、私はインディアンフルートの演奏を彼に捧げたのだが、参列していた父が家に帰ってから「おい、あれは本当によかったぞ。いい式だった」と言葉をかけてきた。怒られるのかと思いきや、意外な感想にホッと胸を撫で下ろしたことを思い出し「そうだ。父にも捧げたらきっと喜んでくれるかもしれない」と思い、葬儀屋さんに相談して献奏することができたのだった。

それから2日後には静岡でのアートショーが控えていた。会場は浄土宗のお寺「新光明寺」。市の名所である参道の紅葉が最も美しい時期だった。夏にこの話が決まった時、12年間全国でアートショーをやってきて、今までも京都や奈良のお寺のすぐそばのギャラリーで開催したことはあったが、お寺の本堂でというのは初めてのことだったので「このタイミングでお寺というのは何か意味があるのだろう」と、その時漠然と感じたのだが「まさか、こういうことだったのか…」と改めて知ることになったのだった。しかもこれは仕事として自分自身に与えられた表現の場である。「このショーは全身全霊で亡き父に捧げよう、彼の魂に届くように」と臨んだ。しかも今回の演目がUNSEEN「目にみえないものの力」だったことも決して偶然ではないだろう。ご本尊である美しい阿弥陀如来像に見守られながら演じている最中、父の様々な顔が浮かんでは消えていった。そして最後にはやはり「感謝しかない」という思いが心の奥底から沸き上がってきたのだった…。静岡から戻ってまもなく、今度は上野原の隣町、藤野の「百笑の台所ギャラリー」で開催の個展が始まった。23日には藤野在住の音楽家「GAINE」さんとのアートショーがあり、その演目もやはりUNSEEN「目に見えないものの力」なのだ。NOBUYAの時もそうであったように、目に見えない存在となった父のことを、これからゆっくりとかみしめていきたいと思う。

父は私の養父である。本当の父は8才の時に両親が離婚しているので実のところ、どういう人だったのかは、はっきりとわからない。しかも離婚は私が8才から13才までの間、入院している最中の出来事だったのだ。ある時から実の父は面会には来なくなって今の父が現れるようになった。彼はリンゴ農家をしていて、リンゴの木に掛けたハシゴから落ちてアキレス腱を切ったとのことで、その時から面会に来る彼を「アキレス腱おじちゃん」と呼ぶようになり、最初の文字が取れて、しまいには「チャン」と呼ぶようになっていった。母の愛した人というのが一番先にくるが、高校卒業後、余市から東京に出る時に母を説得してくれたり、20才でNOBUYAと同棲する時には「お前が泣く目にあうかもしれないから、絶対やめた方がいい」と心配してくれたりと、私や妹のことを親身になって思ってくれた人なのだ。血は繋がっていなくても親子となった縁には深いものを感じずにはいられない。繊細で優しい根っこを持ちながらも、それを素直に表現することができない天の邪鬼な性格でもあったチャン。一度はぶつかって家を追い出されたこともあったが、あの経験も今では良かったと思える。これからは心の中でいつでも繋がることができるだろう。愛した母のことを見守っていって欲しいと切に願う。


チャン、ありがとうございました。心から愛と感謝をこめて。