2009

2009.12.31_>>>_満月

「now here.」2009年はいろいろあった年だった。まずは、年明け早々から我が家のオオカミ犬「nociw」のお婿さん探し。2月17日にお見合いして4月20日には6匹のベイビーが誕生した。悪戦苦闘の子育てに100%明け暮れた数ヶ月。子供達は2ヶ月過ぎから、高尾、秋田、北海道、ニューヨークと貰われていったが屋久島行きの「ドン」だけが先方の都合で7ヶ月まで家にいることになった。が、nociwとドンが揃って感染症の皮膚病にかかり、それからは暇を見ては温泉治療のため草津に通う日々が続いた。こんなに長く一緒にいたら情が移るのも当然で「えーっ。11月までこの状態が続くのーっ?」と最初は思っていた筈が、あと2ヶ月、あと1ヶ月とドンの旅立ちが近づくにつれ、だんだん寂しくなってきた。ドンの主人の「虫丸」さんは舞踏家で、2年ぶりの東京公演のため、屋久島から家族5人で軽のワンボックスで各地で公演をしながらやってきた。そして東京公演が終了後、ドンを連れて我が家から旅立って行ったのだった。別れの時は思わず泣いてしまった。その日はNOBUYAと二人、寂寥の念にかられていたが、でも「これでやっと、ドンも生涯をともに過ごす家族と一緒になることができてよかった!」という思いの方が勝り、本当に嬉しかった。だって出発の時、ドンが今までで一番いい顔をしていたから。翌日にはもう、藤野での個展の搬入が控えていた。だから、かえって気持ちをパッと切り替えられて逆によかったのかもしれない。今年は子犬の子育てに明け暮れることを覚悟していたから、3月に屋久島で個展をしたのが最後になるかなーと思っていたのだが、縁あって藤野のギャラリー・カフェレストラン「Shu」からお声がかかり、発表の場を与えられた。それは本当にありがたいことだった。お陰でその日からはもう、自分のことにとにかく集中しなければならなかったから。本来の自分の仕事に立ち返ることができたのだ。でも個展にはドンのエネルギーもいっぱい詰まっていた。しかも彼が旅立ったその日に新たな仕事が入り、それはドンからの贈り物としか思えなかった。nociwは寂しがるかなーと思いきや、またもとの状態の、自分が一番甘えられる立場になれたことが嬉しそうだった。確かに前よりちょっと甘えん坊になった気もする。でも、なんてったって一番頑張ったのはnociwだもんね。本当にお疲れさま。個展はとても楽しかった。気持ち的に楽だったからだ。私がギャラリー「nociw」でやっていた頃の個展に少し近かったからかもしれない。周りには自然があって、テラスもあって、そこで焚き火をすることもできて…と。自由性が多かったのも大きかった。そして何より最大のポイントは人のあたたかさ。オーナーの「シュウ」さん、「和子」さん、「ハカ」ちゃんをはじめ、スタッフのみんな誰もがとっても親切だった。そんな空気は訪れた人たちにも伝わっていたようだ。来てくれたお客さんは都会からの人が多かったが「こういう環境の中で、リラックスして∀KIKOの絵を見ると、さらに感じ入るものがあるよ!」という声をたくさんいただいた。みんな来た時と帰る時の顔が違っていたのがおもしろかった。そして誰もが口々に「ごはんがおいしい!」と言ってくれてたのは私もうれしかったな。ランチタイムはテラスから見渡せる畑から摘んだサラダの食べ放題。野菜がとにかくうまかったよね。そして近くにある温泉でもまたお客さんにあったりして…。裸のつきあいもけっこうあったね。とにかくこんな個展は初めてだった。生活の延長線上にある個展。アートワークがライフワークである私には、そのまんまな感じが実におもしろかったなぁ。個展の時に設置してあるメッセージノート。これは私の個展が終わったあとのお楽しみで、開催中は忙しくてゆっくりと見れないから、終了後に余韻を楽しみながらじっくり味わって見ているものだ。今回はNOBUYAが「声に出して読んでくれ」と言うのでリクエストに答えて朗読したんだけど、読みながら、何度も涙が出そうになった。みんなの言葉が心に響いて。個展の度に増えていくこのノートは私の生涯の宝物だ。シュウさんが「∀KIKOさんのファンてさ、とにかく素敵な人たちが多いよね!」と言ってくれていたけれど、私も実際そう思ってます。ファンのみんなからエネルギーをもらい、そのエネルギーを今は「誰かのための絵」を描くことに注いでいる最中。こうして私の中にはエネルギーが絶え間なく巡り、絵描きとしての人生を生かされているのだ。いま。ここで。そうそう、ドンに破壊された私の大切なインディアン・フルート。宮大工「ヒロ」と「ヤス」のお陰で見事に再生を遂げた。笛に乗った守り神がバッファローからオオカミへと見事に変身して!この宇宙へ。愛しています。
 
_ 2009.12.02_>>>_満月

「soul mate meeting」藤野町での個展「KANTO」が始まった。28日のオープニングイベントでは、テラスで焚き火を囲んで、みんな輪になってニコニコしていた映像が余韻となって今でも残っている。会場の「shu」ではDJが入るというのも初めての事だったようで「いったい、この日はどうなるのかしら?」とオーナーの「和子」さんも半分心配していたようだった。この日ライブの「奈良」ちゃんはノリノリで「やっぱり藤野はいい所だねぇー。ホント気持ちいいやぁー」と上機嫌。私たちは久々の再会を交わし固くハグをした。「今回は呼んでくれてありがとう。めちゃめちゃ嬉しいよ。オレもさ、今ではこうやってソロでもバンバン活動してるけど、その最初のきっかけをくれたのは∀KIKOさんなんだよね」そうだった。かつてギャラリー「nociw」をやっていた頃に、個展に彼を呼んでやってもらったのだ。私は誰かと一緒にやるのだとばかり思っていたら奈良ちゃんが「いいや。ここではオレ、あえて一人でやってみたい」と、そう言って初の奈良大介ライブが産声を上げたのだった。あの日、来ていた奈良ちゃんのファンは「こんな奈良さんは今までみたことがない。最高です!」と驚いていたっけ。「あれ以来、奈良ちゃんをソロで呼ぶのは二度目になるんだねー」「そうだよー。オレ嬉しいよ。ありがとーっ!」この日は、何時頃からライブが始まるという予定は全部とっぱらって、すべて奈良ちゃんのノリに任せることにした。「ほんと?好きなだけやっていい?」確かにいつもよりも更にテンションが高い奈良ちゃんだった。NOBUYAもそんな彼を見て最高に嬉しそうだった。自分が飲んだビールの数を数えていたら「11だった!」と得意げに言ってたな。じわじわとお客さんが集まってきて、テラスで「シュウ」さんが火をつけてくれた。スタッフの「ハカ」ちゃんも常に細やかに気をつかって動いてくれる。場の空気がとてもあたたかだった。夕暮れと火と音楽と絵。そこはまるで、ギャラリーnociw時代にやっていた個展会場さながらの雰囲気だった。どこか懐かしくて、この十年を走馬灯のように思い巡らせてくれた。突然、ジャンベが空間を引き裂いた。始まったのだ。どんどん太鼓の魔力に引き寄せられていくみんな。「奈良ちゃんの太鼓は祓いの力があると思う」そう「サヨコ」がかつて言っていたことがあった。圧倒的な清めの力。「うーん。本当にそうだな」と思って、全身耳のような感覚で音に浸っていると、実際にサヨコが目の前に現れた。アリワも一緒だ。まさかの驚きで、最高に嬉しかった。「今日ここに来る途中でさ、電車のホームでサヨちゃんに会ったの。なんかあるでしょ絶対!」奈良ちゃんは笑った。この日はマヤン・カレンダーではソウル・メイトが集う日だった。そのことを、たまたま3日前くらいに「ヤマシン」の家で知って「じゃあ、この日集まってきた人はみんなソウル・メイトなんだね。それぞれの場所で集まるべき魂が集うってわけだ。なんだかワクワクするね!」と盛り上がったのだった。太鼓が終わってインターバルがあって、再び今度はテラスでギターと歌のライブが始まった。NOBUYAがかける波の音と重なって、そこはまるでビーチのようだった。外には「シリパ」という、私とNOBUYAの故郷の象徴でもある聖なる山の絵があって、実際の場所は海でもあるので私たちは容易に、その日のみんなが私たちの故郷の浜辺に集っているかのように想像することができた。するとやっぱり、また胸の奥がキューっとなるような懐かしい感覚になるのだった。サヨコが飛び入りで歌ってくれた。思いもよらぬ天からのギフト。「私ね。もう、さんは付けないよ∀KIKO!」なんだか嬉しかった。この二人のミュージシャンはどうしてこんなにも愛をくれるんだろう?奈良ちゃんの音が止んでいる間、NOBUYAはあえてノンビートの音を流して耳心地をよくしてくれたり、メリハリをつけて飽きさせずに楽しませてくれた。地味だけどすっごく重要な音の仕事を見事にこなしてくれていた彼。この人が夫だということも、今でもとても不思議なことのひとつだ。「いろんなタイプの人たちがいて、とってもおもしろかったわ。そしてみんながみんな、すっごく素敵な人たちばかりだった」と和子さん。ご近所の方は「今日は違う惑星に来たようだった」と言っていたようだ。人数も多すぎず、少なすぎず、丁度いい塩梅で何もかもがスムーズに流れた。まるで神様がすべてお膳立てしてくれていたかのように。「もう、このお店は動かされているんだ」シュウさんは言った。さよならの時の、和子さんとシュウさんの強い強いハグは私に言葉以上のものを伝えてくれた。みなさん、出会ってくれてありがとう。
 
_ 2009.11.03_>>>_満月

「巡り」

長野で「ひだまりマーケット」に参加してきた。以前大鹿村へ初めて行った時、去年のチラシを見て「今年、参加したらおもしろそうだね」と飯田が実家の「美千代」と話していたのだ。NOBUYAもそこがすっかり気に入っていたので結局、犬達とみんなで一緒に行くことになった。「どうせなら1週間前から、また草津回りでキャンプしながら長野に入ろうぜ」とNOBUYAが言うので、犬達もいろんなシチュエーションがある方が楽しいだろうし、そうすることに決めた。出発の2日前、ひょんなことから近所に住む「ヤマシン+クミ」と「taba」に久々に会ったのでそのことを話すと、また物好きな奴らはのってきて、私たちが長野インした時に落ち合うことになった。場所は美千代のお父さんに教えてもらった美しい河原。前回夏に、そこでキャンプして私とNOBUYAは大好きになってしまったのだった。犬達もこの場所を覚えていたようで、すぐにゴロゴロした大きなまーるい石たちが広がる大きな河原へと降りていった。私たちはこの河原が春に訪れた屋久島で「佐藤家」に連れていってもらった「ヨッコ」に似ていたので「リトルヨッコ」と密かに名づけて呼んでいた。マーケットの前日、リトルヨッコに仲間たちは無事到着した。キャンプ場でも何でもないところがみんな気に入ってくれたようで、とてもはしゃいでいた。翌朝、美千代がここまで迎えにきてくれた。朝日に照らされた川面は美しく「うわーっ!」と歓声をあげる彼女。「なんか、いい日になりそうだなー」という予感でいっぱいのマーケットの幕開けだった。自分が「素敵だな」と感じる場で絵を発表できることは、本当に嬉しいことである。たいていそういう場所には素敵な人達が住んでるものである。会場に着くと美千代のお母さん「美鈴」さんと妹の「はづき」が来ていた。後でお父さんの「和行」さんと妹の「ちふみ」も登場するのだが…。美鈴さんは手作り味噌の豚汁(すっごく美味かった!)を作るといって張り切っていた。はづきは手描きの絵のポストカードを、美千代は手製の草木染めのふんどしや靴下、アクセサリーなどを並べていた。隣に出店していた子供連れの若夫婦はセドナ帰りで旅で仕入れてきたものや、古本(私の好きな本ばかりだった)なんかを出していた。斜め向かいには農家さんがヤギを連れてきて「乳搾り一回100円!」とやっていた。「なんかいいなー。この大地な感じが!」と私はひとりワクワクしていた。結局キャンプの仲間連中はみんな、まだリトルヨッコでまったりとやっていたのである。突然、準備をしている背後から「∀KIKOさんっ!」と呼ぶ声があった。振り返るとなんとそこには「のぶ」がいたのだった。candleJUNEと一緒にツアーに出た時、スタッフだったやつである。相当ぶりの再会だった。「のぶっ!どうしてこんなところに?」「それは私が聞きたいですよ!私は古着を出しにきただけなんで」お互い、嬉しくておかしくて超ウケた。お客さんはやはり大鹿村の人が多く、私の絵に興味を持ってくれる人たちが想像以上にいたのには嬉しい驚きだった。「君の絵はねぇー。もっともっと世界に出さんともったいないよ。もっともっと世界の人に見てもらわんとなー」このマーケットの主催者側の一人でもある「アキ」さん。美千代が最近お世話になってる人でもあり、のぶが今回のために泊まらせてもらってる家の主人でもあった。そして故「ナナオサカキ」氏とも親交が厚く、ともに多くの国内外を一緒に旅した仲でもあったようだ。そのナナオ氏が「Simple Side.」をとても気に入ってくれていたということは以前から聞いていたのだが、この大鹿村でアキさんと出会って、初めてナナオ氏とつながった気がした。そういえば美千代と「悠一郎」も世界中を旅しながらSimple sIde.の英語版を色んな国の人たちに見せてきたのだと言っていた。「本を見てる人の顔を見てると、あぁやっぱり伝わるものには国境がないんだなぁーと感動しました」と。私は二人が嬉々としながらその時の様子を、まるで目の前で起こっているかのように話してくれるのを聞いて「これってそのままSimple Side.の旅の映像詩になるなー」と想像したりしたのだった。「この本に反応した人達には次に∀KIKOさんの絵のポストカードを見せるんですよ。そうするともっと感動してくれて、それで、あまりにも感動してくれている人にだけ、そのカードをプレゼントするんです。いやぁーこの見せ方は色んな国でホント、何度もやりました。楽しかったですよー」二人の愛を感じて、言葉が出なかった。そういえば先日Simple Side.の改訂版にあとがきを寄せてくれている「ARATA」がデザインする洋服「ELNEST」の展示会に呼ばれて行ってきた。「∀KIKOさん。今年はSimple Side.展できませんでしたね」「うん。でも大丈夫。ぜったいできるよ」私たちが出会ったそもそものきっかけがこの本だったのと、今年で出会ってちょうど10年ということもあって何か一緒にできたらいいねと話していたのだった。「じゃあSimple Side.の展覧会をやってその中で一緒に詩のポエトリーリーディングをしよう。わぁーそれ最高!」というところまでは盛り上がったのだが、スペースが決まらず保留になっているのだった。でもきっとすべてがタイミングだから、一番ぴったりな時に、一番素晴らしい形でできるんだろうなーと私は信じている。展示会場ではなんと、10年前に出会って遊んでいた仲間たちとも久々の再会を交わした。結婚をして、子供ができて…、そんな自然なことを自分達が最も楽しいと思える仕事をしながら創造し続けている彼らを、あらためてカッコイイなと思った。ずっと変わらない私とNOBUYAから見て、みんなは色んな人間模様を私たちに見せて学ばせてくれる先生でもある。そして「人間って素敵だな」と思わせてくれるのだ。帰り道NOBUYAと、この10年で何だかひと巡りした気がするねと話しながら歩いた。結局あの時、あんなに熱く結びついた理由が、もしかしたら10年という時を昇華してこれから現れだすのかもしれない。私たちは空を見上げた。「まずは今月、お互いクリエイトできる機会が与えられることだし、感謝して楽しもうね」「おおっ!」そうなのだ。今を生きようっと。
 
_ 2009.10.04_>>>_満月

「魂をおくる旅」9月のござれ市だった日、身内の葬儀が重なり急遽、北海道へ帰省することとなった。妹の「フミ」の夫である「ヒロ」さんのお母さんが亡くなったのだ。2007年にガンと宣告されて以来、手術と入・退院を繰り返し闘病生活を送ってきたお義母さん。お会いするのは妹の結婚式以来となった。私やNOBUYAにヒロさんの故郷である「湧別へ来てほしい」と常日頃、話してくれていたそうで、駆けつけることができて本当によかった。亡くなったのが17日の朝で、知らせを受けてすぐに飛行機のチケットを取ろうとしたら、シルバーウイークが始まる直前で、全航空会社の全便が満席状態になっていた。空が駄目なら海だと、フェリーを問い合わせてみると、なんと新潟からのフェリーに個室の2名分だけが、かろうじて空いていたのだ。「これで来なさい」ということかと、私たちは「ホッ」と肩をなで下ろした。今、我が家にはオオカミ犬のnociwとdonがいるが、同じくdonの兄弟のramaがいる近くの「taba」の家にに2匹を託し、私たちは翌日、朝の4時に新潟に向けて出発した。新潟からフェリーに乗るのは久しぶりだった。しかも、いつもは2等の雑魚部屋しか取らないのでそれに比べると個室の和室は相当ゆっくり過ごすことができた。翌日の朝には北海道に着く。「なんだか嘘みたいだねー。今、ここにこうしているのが」「うん。まったく」今年は例年の、車で帰省ツアーに出かける直前に、犬たちが皮膚病になって取りやめになったが、こういう形でやはり北海道の地は踏むことになったのだなと思った。時間を持て余した私たちは船内の映画館へいってみた。すると上映されていたのは「おくりびと」だった。これから現実に営まれる風景と重ね合わせながら、私たちはつい真剣に見入ってしまった。目的地、北海道の湧別に到着したのは19日のお昼頃だった。お義母さんの亡骸は死の直前まで苦しみ抜いたとはとても思えないほど、安らかだった。「きれいなお顔ですね」NOBUYAがお義父さんに話しかけると、彼は生前の妻の働きぶりを一生懸命に話して聞かせてくれた。その様子から奥さんを、心から愛していたのが伺い知れた。美容師として花嫁さんを創ることに生き甲斐を感じていたというお義母さん。お義父さんは建設業を営みながら、そんな妻を応援し続け、誇りに思っていたようだった。ヒロさんとは実際、今は親族になったがフミが結婚する前からずっと、私たち四人はまるで家族のような付き合いをしてきた。でもヒロさんの生まれ育った場所に初めて来てみて、彼という人間が形成された理由が少しだけわかったような気がした。たくさんの愛情を注がれて育ったのだろうなということも。ヒロさんの家は神道だった。仏式であればこの日は通夜となるが、神式では前夜祭となるということも初めて知った。だから告別式はお祭りなのだった。ただ柏手の音は「忍び手」といって音を立てずに二度手のひらを合わせるのだった。フミとヒロさんの所にも、nociwの子供がいる。「shiva」だ。お義母さんの様態が急変してから、フミたちは現在住む札幌と湧別を行ったり来たりする生活になり、向こうに着いたら、たいていほっとかれることも分かってきたシバはだんだんと車に乗りたがらなくなってきたそうだ。それでも、ただじっと鳴きもせずに待っているということだった。「札幌では下痢なんかしたことないのに、こっちに来てから下痢が続いちゃって…」フミも相当シバを心配していたが、長男の嫁ということもあって力を振り絞って頑張っているといった感じだった。優しいシバはそんなことも察知して「いい子」を演じていたようだった。「シバ!」「わぁーっ。格好良くなっちゃって!」久しぶりのシバとの再会に私たちは喜んだ。シバもさっそくお腹を出して挨拶してくれた。彼は瞳の澄んだ美しい犬に成長していた。そしてなにより穏やかだった。飼い主たちのシャンティなバイブレーションに包まれているように。「シバ!お前偉いなーっ」感極まってハグするNOBUYA。「時間までシバの散歩、私たちがしようか?」「それはすごく助かる!最近あんまりできてなかったからさ」私たちにとっても願ってもないことだった。フミは車を貸してくれ、私たち3人は彼女のおすすめのサロマ湖のそばにある森の中へと入っていった。結局これは、遠くから来た私たちへのヒロさんからの計らいだった。「せっかくここまで来たんだから、楽しんでいってもらって」と。湧別は美しいところだった。サロマ湖も、最初の森も、そして次の日にまたシバと散歩したトドマツの森やその先のオホーツク海も。「アトリエから犬たちと一緒に、森を歩いて抜けるとそこは海なんて。こんな生活素敵だなー」「やっぱりオレたちは道産子だね。こういう景色にどうしようもなく惹かれるんだから」浜辺を歩くとロシア語が書かれたウォッカの瓶が流れ着いていた。海に洗われてものすごく透明なのだ。いつまでも眺めていたくなるほどに…。シバは久しぶりにのびのびできたからか、リスを追いかけ回したりしてとってもはしゃいでいた。私たちはここにも、愛されて育っているnociwの子を見ることができて本当に嬉しかった。御霊を送るお祭りは淡々と、そして美しく終わった。確かに今まで参加したことのある葬儀とはまったく違う感覚になる経験だった。どこか明るく、どこか晴れ晴れとしていて涙の空間の中にも潔さみたいなものが漂っていた。肉体から解放された魂を祝い送り出す。こうした神道の世界観は、自分にはとてもしっくりときた。荼毘に付されたお義母さんは「○○ノミコト」という神様になって家に帰ってくる。そうして家にまたひとつ神様が迎え入れられるのだ。なんだか素敵だなと思った。いろんな意味で今回突然に訪れた魂をおくるための旅、それは私たちにとっても、とても大事なことに気づかせてくれるための神様の大きな計らいだったような気がする。お義母さんが湧別に連れて行ってくれたこと、本当に感謝しています。ありがとうございました。また会いに行きますね。
 
_ 2009.09.04_>>>_満月

「破壊と再生」我が家のオオカミ犬nociwとdonを連れて再びキャンプの旅に出た。まずは、2匹の湯治のため草津へ。とは言いながら、私たちもすっかりあの湯の虜になってしまっていたのだった。しかもただ湯というものに、ありがたくて感謝の念でいっぱいだった。大地から自然に沸き上がる温泉の力は、生命に新陳代謝の活性を促す。その恩恵には計り知れないものがあった。今回、犬たちの皮膚疾患によっていろんなことを学ばせてもらった。地球ってほんとに凄い。私たちは4日ほど草津にいて、次は長野へ向かった。現在、旅人中の友「美千代」が一旦、長野の実家に帰っているというので初めて訪れてみたのである。美千代は「悠一郎」の彼女で二人はつき合う前に、それぞれにギャラリー「nociw」のお客さんでもあった。どういう訳か遠くから、私やNOBUYAのことをいつも応援してくれていて、ことあるごとに励ましのメールなんかをくれていたのである。それがきっかけで二人がカナダに滞在中に、私たちのためにアートショウを開いてくれることになって、あの時はずいぶんと楽しませてもらった。彼らはこの7月に帰国したが、再び年内に出国するまでのつかの間、たびたび一緒に過ごしたいねと話していたのだ。美千代の実家にはおじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さんが揃っていた。美千代が実家に帰るのは旅に出る前以来の3年ぶりだったそうだ。「まるで家では浦島太郎ですよ私」と言う彼女の言葉に「そんな状態で俺たちが行って本当に大丈夫なのか?」とNOBUYAは心配していたが、とにかくみんなで待っていてくれてるとのことだったので、私たちは車を走らせた。そこは中央アルプスと南アルプスを臨める羨ましい場所にあった。「こんばんはー。はじめまして。美千代の友達の∀KIKOとNOBUYAです」「あーどーもどーも、美千代がお世話になっております」その日は私たちがやってくるというので庭でBBQの用意がされていた。野菜は向かいの畑でおじいちゃんが丹精込めて作ったもの。釣り好きのお父さんが秘境で釣ってきた貴重な川魚はそれはそれは絶品だった。なんだか初めて会う、しかも友達の家族だというのに、みんなとてもあったかくて私たちはリラックスしっぱなしだった。土地の歴史に詳しいおじいちゃんの話は本当におもしろかった。お父さんも地域の有志と一緒に、その土地の文化や史跡を保護する活動を積極的に行っていて、焼けた肌に透き通るような目をした本当に素敵な人だった。そして印象的だったのは、二人とも奥さんをとにかく褒めること。家庭円満の秘訣はどうやらそこにあると私は思った。悠一郎と美千代は3年間の旅で世界を見てきて、すっかり農業への関心が高まったようで、自分たちが日本で腰を据える時には半農半Xとして、自分たちが食べる野菜は自分たちで作りながら、クリエイティブなことがらに携わっていきたいと思っているようだった。NOBUYAは美千代に熱く語っていた。「お父さんは凄いよ。悠一郎たちがやりたいと思っていることをもう実践しちゃってる人だからね。灯台下暗しさ」美千代も自分の家族がどれほど素晴らしいかを、日本を出てみて初めて気づいたと言っていた。「次の世代に残すために、自分にできることをやっていきたい。集まりがあれば弁当の手配は自分がする。縁の下の力持ちが必要だからね」そんなお父さんにすっかり惚れ込んでしまったNOBUYAはお酒の勢いもあって、翌日テニスの審査員として朝早く出なければならない彼を引き止めて、延々と話し込んでいた。それをまたお父さんも眠かっただろうに嬉しそうに聞いてくれていたのだった。とてもつき合いきれなかった私は先に寝たが、翌朝NOBUYAが話してくれた。「夕べ最後にお父さん、なんて言ってたと思う?結局すべては愛だからね。ってそう言ったんだ。オレ泣いたよ」と。その日は美千代の家にも関係が深いという神社や、古墳や城跡なんかに行って一旦家に戻ってから、今度は美千代のお母さんを連れ立って、大鹿村まで行き、分杭峠で磁場0を体感し、おいしいご飯を食べて温泉に一緒に入った。あのお父さんにこのお母さんありき、というような魂のきれいな人だった。そのあとはキャンプ好きだというお父さんに教えてもらった絶景の場所でキャンプをして、真っ暗な空に満天の星のギフトをもらった。実はその朝、車にいたdonが今まで同じ場所にあっても絶対に手をつけなかった私のインディアン・フルートを食べていたのだ。私のもとにNOBUYAが「泣くかもな」と言って差し出したそれは、吹き口がメチャメチャになり、守り神のホワイト・バッファローがズタズタになった変わり果てた姿のフルートだった。息を吹き込んでももう音はしなかった。自分でも信じられないくらい涙が流れた。それはギャラリーnociw時代に、初めてやってきたフルート吹きの方に「この笛は君のもとにくるために作られたものだよ」と言って渡された、彼の友人のナバホ・インディアンが作ったものだった。その日以来、その笛は私の宝物となり風のスピリットを運ぶ道具となっていた。突然、吹きたいという衝動に駆られては、いつでもその瞬間の音を奏でてくれた。自然の中にいる時はかかせない存在だった。それが想像もしなかった姿になって目の前に差し出されたのだ。でもdonは決して悪くない。誰のせいでもないのだ。「無執着」そのことを自分は本気で学ばなければならないのだなと思った。「オレだったら半殺しだけどなーなんてね」私の気持ちを一番理解してくれているNOBUYAは何と言っていいのかわからないようだった。とにかく私にとっては強烈なメッセージだったのである。そして落ち込むのではなく前に進まなければと真剣に思わせてくれた出来事だった。ところが、旅から戻り、フルートを眺めていた私にNOBUYAが言った。「ひょっとして、ヒロなら直せるかもよ宮大工だし」「そうだった。近くに腕のいい職人がいたのだ」いきなり光が差してきた私は、さっそくすぐそばの工房へ行ってみた。事情といきさつを一通り話し終わった私にヒロは言った「たぶんできるでしょう!」この時の喜びといったらなかった。また生き還るのだ。いや新しく生まれ変わるのだ。守り神のホワイト・バッファローはこの機会にオオカミに変えてもらうことにした。絶対に縁があるとしか思えないからである。というか、きっとそういうことだったのだろう。神様の計らいは本当に巧妙である。そのすぐあとに、今度は高尾の隣町の藤野町にあるギャラリー&カフェ「Shu」から個展のお誘いがあり、11月に開催することが決まった。何かが終わり、何かが始まる。これから起こることに今は、とてもワクワクしている。
 
_ 2009.08.20_>>>_新月

「火」夜のはじまりの時
私は静かに火を起こす火の神に酒をそそぎ 私は祈るこの火で夜をお守りください
この火で闇をお守りください炎はゆるやかに踊りだし
やがてゆっくりと語りはじめるどれくらい 時間がたっただろういつのまにか 私は火になっている体が自然にゆらぎ
心が喜びの唄をうたっているオレンジ色の炎は色を変え 形を変えながら
ふたたび ゆっくりと語りはじめる懐かしい人たちの声がする
これから出会う人たちの声がするオレンジ色の炎の中で過去と未来が踊っている生と死が唱っている
 
_ 2009.08.06_>>>_満月

「お試し」我が家のオオカミ犬「ドン」の引き渡しが11月に延びてしまった。彼が貰われていくことになっている屋久島のファミリー、その大黒柱である父親の「虫丸」さんは山海塾とも関わりの深い舞踏家であるが、その彼が8月から韓国に招かれ3か月間、公演を行うことになったそうだ。妻の博美さんは上は5才、下は1才にも満たない3人の子供の子育てと、日々の畑仕事に追われ、ドンのことがおろそかになってしまうかもしれないから、もう少しこっちで預かってほしいということだった。本当は今月、屋久島までドンを届けにいくはずだったが、そういう事情ならばあまりにも博美さんの負担が大きくなってしまうし、ドンのことを思っても、やはりその方が賢明だろうと私達も納得した。11月には東京公演があるそうで、その時、家族でこっちにやってくるので帰りにドンを一緒に連れて帰たいとのことだった。さて、ドンだが、兄弟がみんな先に旅立ってしまってから急に甘えん坊になり、それまでの外での生活では、ギャンギャン鳴いてお隣さんからも苦情がきたので、それから中に入れていたのだが、11月までとなるとまた事情が変わってくる。屋久島では完全に外飼いになるということでその頃には彼も7か月になってしまっているので、それからいきなり外に出されても状況に慣れずに、かえって博美さん達が困ってしまうのが目に見える。ましてや虫丸家のお隣さんはかなりうるさい人とのことだ。そこで私達は心を鬼にして、外飼いに今から慣れさせるために訓練を始めた。外にゲージを置いてリードをつないで、そこで生活できるように努力している最中だ。でも、家には彼の母親のnociwがいて彼女は完全な中飼いなので非常に難しい。ドンからは文句の連発だ。そりゃそうだ。かといってnociwを外に一緒につないでおくと今度は彼女からのブーイング。頭が痛い。(笑)そんな出来事に輪をかけたように、今度は2匹が犬カイセンになってしまった。どこから貰ってきたのかはもうどうでもいいが、この一連の出来事は私達にとってとても重要なメッセージだと受け止めている。本当に命を育てるということは、予期せぬ事態の連続である。とても重いものなのだということを改めて思い知らされた。カイセンには硫黄が効くと聞いて早速私達は草津に温泉治療に行った。本当は毎年恒例の北海道帰省の旅に出る予定だったのだが、その日程をすべて犬たちの湯治にあてたのだった。1箇所しかないキャンプ場をねぐらにして毎朝、氏神様への参拝に始まり、1日数回2匹を源泉の川に連れていき体を洗い、浄める。約2週間の間そのサイクルを繰り返し、東京に戻ってきた時にはほとんど良くなっていた。それから一応病院に連れていってみたが「温泉がかなり効いてますね。もう治るでしょう」とのことだった。ひとまずホッとするが、ここで気を抜くわけにはいかない。ハードなスケジュールと心労が重なって今度はNOBUYAの体調が崩れてしまったのだ。ここで私までもが倒れるわけにはいかないので瞑想することにする。もう頭がいっぱいという事態にしか見えなくても、そこには必ず1本の道が通っているはずだから…。こんな時だからこそ、しばし心を落ち着けようと努める、今日この頃です。
 
_ 2009.07.22_>>>_新月

「巣立ち」我が家のオオカミ犬nociwの子犬もあと、「ドン」を残すのみとなった。「ブッダ」「シバ」に続いて巣立ったのは「カーリー」と「ニマ」。カーリーは秋田のブリーダー「シリアス・ストーリー」の「ヒロ」さんの元へ行った。ここには子犬たちの父親「Q太郎」がいる。先日、ヒロさんから受け渡し場所に指定されたヒロさんの友達の訓練士さんがいる埼玉の訓練場へ行って、Q太郎と久々の再会をした。nociwもすぐに彼の元へと飛んでいき、嬉しそうだったが、速攻後ろに乗っかられそうになって少々困惑していた。(笑)子犬達には自分の子だとわかるのか、とても優しく接していたQ太郎。子犬達も嬉しそうに自分から父親にすり寄っていった。カーリーは6匹の中で一番最後に生まれてきた子だ。しかも羊膜を突き破って出て来た時にガッツポーズをしていたのだった。その姿を見て、てっきりオスだと思っていたがメスだった。それから目が開くのも、立ち上がるのも何でも一番で、お乳を飲む時も兄弟を押しのけて、我れ先にとむしゃぶりついていたので一番丸々とした赤ん坊だった。ところが、離乳食が始まってみると、一人だけお腹を壊すことが度々あって、皆に先を越され一番痩せっぽちになってしまった。どうもオオカミの気質を強く持って生まれてきたようだった。とても繊細なのである。そのくせ好奇心は一番強く恐いもの知らずな性格なので、危険な部分もある。だからヒロさんのところへ貰われていくのはぴったりだったのだ。ヒロさんが子犬を初めて見に来たのは「ござれ市」があった夜だった。その時に一目惚れをしてしまったのだが、翌日名前を決めようとしていた時に彼女は「どうも、頭の周りでカーリー、カーリーというビジョンが見えるのでカーリーにします」と言ったのだ。私はその名を聞いてドキリとした。なぜなら、昨日ござれ市に初めて来たお客さんに「あなたはカーリー神を信仰しているのですか?どうもそのエネルギーを強く感じるのですが…」と言われたからだった。一番最後に貰い手が決まったニマはずっとクマと言われていた。母屋のすぐ近くに越して来た「メグ」の元へと行ったので、今でもしょっちゅう会うことができて嬉しい。ニマはチベット語で「太陽」という意味だそうだ。彼女にはとてもぴったりの名だ。ニマの18番は窓の外の運動場からジャンプして窓枠にぶら下がり、そのままトラバースして開いてるところまで腕の力だけで窓枠をつたい、みごとに中へ入ってくるという芸当だった。これができるのは彼女だけだった。その遊びを発見してからというもの、常にその運動を繰り返すので腕の筋肉は超ムキムキになっていった。しかもどんどん中に入ってくるまでの早さが短くなってくるのだ。どうやったら一番合理的に辿り着けるか、手を置く位置などを日々研究していたようだった。(笑)他の連中もニマの真似をしてしてみるが、あとちょっとのところでズズズーッと壁づたいに落ちていく。そんな彼等をちらっと横目で見ながら、ニマはとても得意げな顔をしていたっけ。一人残されたドンは、その夜激しく鳴いていた。やっぱり寂しかったのだ。生まれてからずっと、兄弟たちとじゃれ合いながら育ってきて安心感があったんだな。それが突然、一人ぽつねんと残されて急に不安になってしまったのだろう。いくらなだめても泣き止まない声に、とうとうお隣さんのご主人がピンポーンとやってきた。「もう、わかっていると思いますが…」「す、す、すみませーん!」お隣さんの奥さんはいつも、運動場を覗き込んで愛おしげに子犬達を見守ってくれていた。この3か月余り、ご主人が「ちょっと、言って来る!」という気になったのを、奥さんが何度もなだめてくれていたのかもしれない。苦情も無理もないことだ。でも、お二人ともとてもいい人なので、そんな人達がお隣さんだったことには心から感謝している。「あとこの子が行くまでの間、どうか、どうかよろしくお願いします!」それからドンは家の中で暮らしている。でも、ドンは外飼いになるのだ。そうなった時、また試練があるかもしれないがそれも彼のさだめなのだろう。そのドンはいずれ屋久島へと旅立つ。それまでの間、いやそれからもずっと、彼が健やかであるように祈るのみである。nociwは全ての事情を察していて、一番甘えん坊で気の小さいドンを、懸命に教育してくれている。彼女には本当に頭が下がるばかりだ。まだまだ気が抜けない子育ての日々。がんばるぞぉー。
 
_ 2009.07.07_>>>_満月

「ファミリー」我が家のオオカミ犬「nociw」の子犬達もあと3匹を残すところとなった。「ラマ」に続いて巣立っていったのは「ブッダ」と「シバ」だ。ブッダはニューヨークに、シバは北海道に、それぞれ飛行機に乗って飛んでいった。ブッダはニューヨークへ発つ前に、飼い主の「バスコ」の日本の家にひとまず連れて行くことにした。いきなり海外に行くよりも、バスコに慣れてから、彼と一緒に出発した方がいいだろうということになったからだ。バスコは友達のミュージシャン「デーナ」の一人息子で、8才の時、家族で日本にやってきたが「高校はやっぱり生まれ育ったニューヨークで通いたい」という彼の希望で、父親の「ジョージ」とバスコだけがニューヨークの家に戻ることになったのだった。そんなバスコの小さい時からの夢が「犬を飼うこと」だった。デーナは過去に3度、犬と暮らした経験があったが、でもそれはバスコがまだ生まれる前のことで、バスコと日本に来る時「ニューヨークに戻ったら犬を飼ってもいいわよ」と約束してきたのだという。そして日本で私と出会って、nociwと出会って、バスコがnociwのことを大好きになって「ねぇ、nociwが子供を生んだらさ、ボク絶対欲しいよ!」と言っていたのだった。デーナはあと1年くらいはまだ、日本に残ることになっているそうで、当分ジョージとバスコとブッダの男三人衆だけでの暮らしになる。ジョージはエンジニアの仕事が忙しくて、あまり家にはいないと聞いて「果たしてバスコだけでブッダの面倒が見れるんだろうか?」と結構考えもしたが、バスコには強い覚悟があったようで、ニューヨークでのブッダとの暮らしをシュミレーションして、毎朝早起きの練習をし、ブッダの散歩の時間を少しでも多く取るために頑張っていた。そんな、けなげなバスコに私達は感動して「大丈夫。彼ならきっと、ブッタのいいパートナーになるだろう」と確信したのだった。ブッタをバスコん家に届けに行った時、彼はすぐに喜んで家の中へ駆けていった。「ブッタこれからよろしくね。ボクが君の面倒を一生見るからね。ボクのところにきてくれて本当に本当にありがとう!」バスコが何度も何度もそうブッタに話しかけていた。シバは私の妹「フミ」が札幌から引き取りにきた。妹のダンナ「ヒロ」さんとともに、新しい家族を迎え入れることになったのだ。そもそもnociwに子供を生ませたのも、フミがいつも「犬を飼いたい」と言っていたからだった。「ねぇ、nociwの子供はまだなの?」と。そんな彼女の願いが届いて、想像通りの運びとなったのだ。1年振りに会った彼女はとても興奮していた。「とうとうこの日がきたね。」はやる気持ちを胸にシバと対面した彼女。じっと見つめ合う二人。私もそんな彼らを見て「本当にこれでよかったんだなー」と心から思った。フミは「やっぱりシバが一番かわいい。全員の中から自分で選んでと言われてたとしても、絶対シバを選んでいたと思う」と言った。バスコも同じことを言っていた「やっぱりブッタが、どう見ても一番かわいい!」と。そうでなくちゃね。自分のとこの子が「なんてったって一番!」その気持ちこそが、犬たちを幸せにする秘訣なのだ。どの子がどの飼い主のもとへ行くかは、NOBUYAと二人で犬達を観察して、ほとんど直感で決めた。「なんとなんくこの子はあの人だよね?」と。でも、それがすべてドンピシャなのだから驚く。というより「やはり行くべきところは最初から決まっていたのだなー」としか思えないのである。私達がnociwを授かったように。次は「カーリー」が行く。ブッタだのシバだのカーリーだの、それぞれ飼い主に決めてもらった名が神様続きなのもおもしろいしね。またファミリーがふえたなぁ…。
 
_ 2009.06.22_>>>_新月

「流れ」我が家のオオカミ犬nociwの子供たちにも、いよいよ旅立ちの日が近づいて来た。夏至の日に、一番最初に巣立ったのは「ラマ」だ。でも彼女は近くに住む友達のtabaの元へ行ったのであまり寂しくはなかった。ラマは6匹の中で一番おとなしい性格の子だ。みんなが揃って鳴いていても、一人だけ黙って何かを噛むことにひたすら集中している、そんなマイペースなやつだった。tabaが連れて帰った夜も「キャンキャン」と2回鳴いただけで、すぐに眠りについたのだそうだ。翌日、tabaの車の助手席を覗いたら、何やらフカフカの敷物の上に優雅に寝そべって、とても気持ちよそさそうな顔をしていたので笑ってしまった。「ラマらしいな」と思った。家の中では手に負えなくなったやつらは今、窓の外に作った運動場で兄弟仲良く寝起きを共にしている。すぐ下は川なので、いつも水の音が聴こえるせいか、中で寝ていた時よりもぐっすりと寝るようになった。晴れの日も雨の日も、元気に走り回り、プロレスをし、体を寄せ合って眠りにつく。そんな毎日を繰り返す彼らだが、日に日に顔が変わっていくことには驚く。本当に成長って、命ってすごいなと思う。それで先日、水道のタンクのモーターが壊れてしまった。子犬たちがコンセントを抜く遊びを覚えてしまったからだ。その度に家の水が止まり「またかっ!」となる。どんなにコンセントの周りを守っても、どんな障害物をも乗り越えて、ただ前へ向って突進していく彼ら。なんとも愛おしい限りだが、モーターがとうとう壊れてしまった日には、家の全ての水が止まり、水の大切さを、まざまざと思い知った。「水が使えないということは、こんなにも不自由なものなのか」と。我が家の水は、ありがたくも地下水である。隣人の「たけお+ゆうこ」の家は違うし、その先の大家さんの家もまた違うというのに。大家さんいわく「この下だけがなぜか、コンコンと水がわき出しているんじゃ。しかも凄い勢いで湧いておる。ちょっとやそっとじゃ枯れんだろう」とのこと。継続中のトンネル工事の影響で水が枯れ、水道水になってしまった家も出てきていると聞いていた。私達もそのことをとても心配していたのである。でも、モーターが故障したお陰で、大家さんからいい話が聞けて元気が出た。「私達はお風呂もトイレも、生活のすべてをこの地下水からいただいているんだ。もっと大切に、もっと感謝して使わなきゃ」と今回のことで心底思った。そのことに気づかせてくれた子犬たちに感謝だ。水道モーターが30年ぶりくらいに新しくなったからか、水の勢いが以前よりもぐんと増した。NOBUYAと二人で「流れたね!」と喜びあった。そういえば先日、nociwの散歩で森を歩いていたら、いつも水を飲んでいる湧き水のところに、以前「RED DATA ANIMALS」の個展の時にオオカミの絵の原画を購入してくれた「きんちゃん」がいたのでビックリした。地元の人だと聞いていたので別に会っても不思議じゃないのだが、初めてその場所で出会ったことが、私の中では何かのサインのように感じた。そこは私達にとっても、とても大切な場所だったからだ。彼女は一人、川に向って笑っていた。そしてひとこと。「流しにきたんだ!」とだけ言った。そうだ。流れが変わったのだ。
 
_ 2009.06.07_>>>_満月

「6.6」我が家のオオカミ犬nociwの6匹の子犬達、全員の行き先が決まった。1匹だけ決まっていなかった仮称「クマ」。彼女にもついにパートナーが現れたのだ。それは6月6日。実は屋久島の友達「なーや」が「もう1匹くらい島で犬を欲しい人がいそうだけどなー」と彼の友達関係を当たってくれていた。すでに1匹は屋久島へ行くことになっていたので「結局、屋久島には2匹ということだったのか?」と私達は思った。「環境的には申し分ないし、兄弟同士、たまには会うこともできるかもしれないから彼等にとってもいいのかもね」と。「欲しい!」と名乗り出てくれたカップルが現れて、クマの写真を送り、ケイタイの番号を教えて、あとは直接電話がかかってくるのを待つばかりだった。それが6月5日のことで、翌日の6日の朝、なーやに「まだ電話こないけど?」と問い合わせると「検討中みたいだよ」との答え。私達は「逆にじっくり検討してくれるのはとてもありがたいね」と思った。本当にそうなのだ。ただ「可愛い」だけではとても勤まるものじゃない。ましてやオオカミ犬なので、すごくセンシティブなところもあって、まるでもう一人、人間がそこにいるかのような感覚にさせられるのだから。「とりあえず、待ってみることにしよう」NOBUYAは言った。「もし、向こうが欲しいとなっても直接話してみて、少しでも不安要素を感じたら、すすめられないしね」確かに。あとの5匹はみんな直接出会い、自分達の直感で「この人なら」と思える人達の申し出を受け入れてきていた。なーやの友達だからというだけで信頼はするけど、実際会っていない人達ということにはかわりない。私達にひっかかるのはそこだけだった。犬と人との相性というのもあるからだ。人間とまったく一緒である。6日の夜、近所に3月に越してきた「メグ」が突然やってきた。そしておもむろに「クマの行き先ってもう決まった?もしまだだったら私にお譲り願いたいのですが…」と言ってきたのだ。私達は驚いたが、それよりも「そうか!」という思いの方が強かった。そしてそう思うと同時に「どうぞ!」と言ってしまっていたのである。メグは母屋に一番近いこともあり、nociwの妊娠中も一緒に過ごすことも多かった。子犬達が生まれてまもなくから様子をしょっちゅう見に来ていて、ダッコをしたりあやしたりして「あー癒されるー」とか言って家に帰った。でも、そればかりじゃなくて子犬達のオーナー達が我が家に来た時も一緒にいたので、オオカミ犬の大変さや素晴らしさを大真面目で話すNOBUYAの話も、耳に入っている筈だった。そして、実は生まれたてのクマを「なんか、コイツ。かわいいなー」とひいき目にあやしていたのはメグだったのだ。私の中ではそんな映像とともに「そういうことだったのかー!」という感動がわき上がっていた。「実はさ。ずーっと考えてたんだ。ひとつの命と出会って、これも何かの縁なんじゃないか?って。そりゃぁ不安もあるけど、それよりも、もしかしたら私、この子と一緒に成長していけるんじゃないか?って思ってさ。しかもよりによって、クマだけが残ってたじゃん?ホント真剣に悩んだよー」メグの住む家はペット禁止の借家だったが、大家さんと不動産家に掛け合い、面倒だった手続きも無事済ませ、犬を飼う許可ももらえたのだと彼女は言った。そこまでして考えてくれたメグがありがたかった。私達は顔を見合わせ「そうだ。屋久島に断りの連絡を入れなきゃ!」となったのだ。幸い、屋久島の方も「見つかってよかったね。こっちは何の問題もないよ」となって、すべてが丸くおさまったのだった。その時、クマを呼んで「メグがおまえのパートナーになりたいって。クマ本当によかったね。おめでとうー」と伝えた。「クマ、よろしくね!」とメグ。クマはきょとんとしていたが、やがてペロペロとメグの顔を舐めた。私にはその時、彼女が事の次第を理解したように感じた。最後に自分だけが残った時から、クマは急に甘え出し、いつもキャンキャンと一番声を張り上げて鳴くようになっていたのだが、なんとこの時からその鳴き方は一切しなくなった。安心したのだろう。私達も安心した。これでやっと、あとはそれぞれのパートナーの元に渡っていくまでの間、nociwとともに、どこへ行っても愛されるような子たちになるよう育てることだけだ。クマの本名は現在考え中とのこと。ドキドキしながらクマも待っていることだろう。そして「結局母屋から一番近いところにもらわれていくクマと私達も、そうとう縁が強かったんだな」と、ふと、そう思った。「ありがとう!」メグ。クマ。nociw。NOBUYA…。つながる命の輪に。
 
_ 2009.05.24_>>>_新月

「6」nociwの子犬たちが生まれて1か月が過ぎた。そろそろ乳離れをさせるために、離乳食も始め怒濤の日々を送っている。お腹が空いて泣きわめき、ご飯を与えた後は興奮して騒ぎまくり、おしっことうんちを垂れ流し、だんだんスピードが落ちて寝る。というパターンを4時間おきに、ほぼ正確なリズムで繰り返す彼ら。もちろん夜中でも関係ないので熟睡はできない。「そのうち天使が悪魔になりますよ!」と子犬たちのお父さん「Q太郎」を飼うブリーダーのHEROさんが言っていたことは事実だった。最近やっと、このリズムについていけるようになった私達。でも、体はいつでも眠いので、なんだかずーっと長い長い夢を見ているような感覚になってきた。2か月までは母親の元にいさせたいので、あともうひと月はそんな生活も続くことになるのだが、みんながやがて旅立って行くことを思うと、やっぱり一日一日がとても大事だなとますます感じている。本当に毎日育っているのが目に見えてわかるのが驚きだ。6匹生まれた子犬のうち5匹の行き先がすでに決まった。最近、秋田からHEROさんがQ太郎の子供を見に来た時、ひとめ惚れしてしまった1匹が決まったので、残るはあと1匹になったのだった。彼女のことを今は仮称で「クマ」と呼んでいる。他のみんなは仮称から飼い主さんたちが命名した本名をもらった。クマはあとは自分だけだと決まった日、一人ではしっこの方に行って何かぶつぶつぶつぶつとひとりごとを言っていた。見ると哀愁の眼差しをしているではないか。「だいじょーぶよ。クマ。あんたは絶対、素敵な飼い主さんのところに行くことに神様がちゃんと決めてくださってるんだから!」目を輝かせるクマ。本当に彼女は表情がおもしろく、ひょうきんで甘えん坊で、でも姿は月の輪グマみたいにカッコよくてとってもビューティフルなのだ。(親バカだね)ここんとこnociwの子たちを見に、あちこちからひっきりなしに人間がやってくるので、我が家は今、お正月みたいだ。大の大人も子犬を抱く姿は小学生のように純粋で可愛らしい。そして例外なくみな、ほにゃーっとした溶けた顔になって、なんともいえないシャンティなバイブを放ちながら満足気に帰っていくのだった。nociwはそんな人間たちをいつも、優しいまなざしでそっと見ていてくれる。「nociw。あんたホントに大仕事をしたね。こんなにもみんなを幸せな気持ちにしてくれてありがとう。美しい子犬たちを産んでくれてありがとう。」毎日nociwにそうやって感謝の言葉を伝える。そして子犬たちにも一人一人に「生まれてきてくれてありがとう!」と毎日伝える。そうすると、みんなちゃんと私達の心をキャッチしてくれて、目で声で語りかけてきてくれるのだ。こんな貴重な経験はそんなにないなと思う。母屋にキャンパスを持ち込んでいざ、彼等を描こうとしても、中断されることの方が多いが、そんな時は絵筆を潔く置いて、自分の中に彼等の記憶を刻みこむようにしている。すべてはエネルギーだから。今、この瞬間を感じることに集中してみると、人と動物が同じ言葉を話していた頃の記憶へと彼等が誘ってくれるような気がするのだ。只今、6つの命に夢中です。
 
_ 2009.05.09_>>>_満月

「命の時間」我が家のオオカミ犬nociwにベイビーが誕生した。4.20の早朝に。6匹だった。4月のござれ市が終わって、家に帰ると、nociwの様子がすでに変だった。「ひょっとして、もうすぐくるかもね」とNOBUYAと2人でドキドキしながら、今か今かと時を待った。結局、夜になって布団を引いて横になってはみるが、寝れるわけがない。家の中に、この日のために用意したゲージを段ボールで覆って暗くして、実際にオオカミが木のウロで生む巣穴状態を擬似的に作ってはみたが、nociwには当然、違和感があったらしく出たり入ったりを繰り返していた。母屋の外には大家さんの納屋があって、床は土だし涼しい。どうやら彼女はそこでこっそり生む気だったらしく、いつの間にか自分がすっぽりと入るくらいの穴をみごとに彫り上げていたのには驚いた。「そっかぁ、ここが一番快適なんだね」そうは思ってもそこは大家さんの持ち物。私達の家だったら断然そこで生ませるのだが、彼女にはあきらめてもらうしかなかった。なんとかそのことを言い聞かせて、しぶしぶゲージに入ってもらう。夜中の3時頃、急に外に出たいというので出すと、夜に食べたご飯を全部吐いてしまった。もうお腹が圧迫されて消化ができなかったのだ。それからちょっと楽になったみたいで、膝に頭をのせて甘えてきた。「よしよし」と体を撫でていると、突然ブルブルと体が痙攣してきたので「やばい!」と思い産屋へ誘う。すると時々「オオォーッ」という何とも辛そうな声を張り上げていきみだした。「nociw頑張れっ!」ただ見守るしかできない私達だったが、前日もほとんど寝ていなかったのでフラフラだった。でもnociwの興奮が私達にも伝染して、どうにも気が静まらない。「とりあえず、祈りながら瞑想していよう」ということになった。しばらくすると、とても静かになった。そして「チューチュー」という虫のようなとてもか細い声が聞こえてきたのだ。あわてて中を覗きこむと、すでに2匹がもう、お乳を飲んでいた。「うわーっ。生まれてるよー」nociwがお母さんになっていた。そして驚いたことに、その状態で3匹目が顔を出していた。凄い光景だった。生まれることと生きること。その2つが同時進行しているのだ。「これが本能なのだ」私達はただただ感動していた。3匹目が出てくるのに少し時間がかかったが、一番大変だったのは4匹目の子だった。ちょうどその時、NOBUYAは神棚に添えるために榊の枝をもらいに森へ入っていた。4番目の子だけが途中まで、体の半分くらいまでは出ているのにそこから先がなかなか出なかったのだ。痛さに耐えかねたnociwは、いきなり産屋から凄い勢いで飛び出してきて、その状態のまま歩き回り喘いでいた。私は一人、必死に考えた。「このまま見守るか、それとも子供を引っぱり出したほうがいいのか?あーなんでよりによってこんな時に私一人なの?」赤ちゃんも胴体半分出た状態で、苦しいのかピーピーと泣き叫んでいる。迷った末に私は結論を出した。「nociw、あなたは自分で産める。そして赤ちゃん、あなたも自分の力で出てこれるよ。二人とも頑張って!」私はまず、神棚に蝋燭を灯し、お祈りをしてから、インディアンフルートを吹き、そしてメディスンドラムを叩いた。叩きながら、いつものように即興で口から勝手にでてくる唄を、無事に生まれるソングを唄い続けた。どれぐらい唄っていたかもわからない。ただ気づいた時には生まれていた。でも、うんともすんとも泣かず、ぐったりしていたので、あわてて抱きかかえ、おっぱいの方に持っていくと少しづつ吸い出したのだ。「ほーっ。よかったぁ。ほんとによかったぁ」そのあとに何も知らないNOBUYAが笑顔で帰ってきた。5匹目と6匹目はそして何事もなかったかのようにするっとでてきたのだった。それにしてもnociwはいいお母さんっぷりだ。3日間は自分のおしっこもうんこも我慢して、ひたすら子供のそばにいると聞いていたが、それは本当だった。やっと出てくるようになってからも、子供の鳴き声を聞くと飛んでかえって傍らにいる。子供達のおしっこもうんこもきれいになめて、赤ちゃんはいつでもピカピカだ。彼女の生まれて間もない頃も知る私達にとっては「nociwもこんな赤ちゃんだったのに、今はすっかり優しいお母さんになっているなんてねー」と感慨深いものがある。人間よりもはるかに早いスピードで成長するかれらには、見習うべきところがたくさんある。いずれは私達の年齢をも追い越して先輩となっていく存在。そんなnociwがとても愛おしい。母となってさらに美しくなった彼女が私達には愛おしくてたまらないのだ。子供達も日一日と大きくなっている。そろそろ目も開いてきた。これから、それぞれの個性も現れてくるだろう。おっぱいが終わって離乳食になったら、そこからが私達の出番。散歩に食事と7匹分のエネルギーが必要になってくる。でも、愛する誰かのために、日々の生活をガラリと変えられてしまうというのも、悪くない。そこからきっと、多くの気づきが得られることになるだろうから。やがては旅だっていく子犬たちと、かけがえのない貴重な時間を過ごしていこうと思う。これは私達に与えられた、大切な命の時間だから。
 
_ 2009.04.09_>>>_満月

「シンクロ・ハーモニー」旅から帰ってきた。屋久島からニューヨークへとつながる心の旅から。

屋久島では春分の日に行われた祈りのイベント「RAINBOW PRAYERS」への参加と、カレー屋さん「リラクシン」での個展があった。イベントの前日に会場になった森の鎮守である神社へ行き、「なーや」とともにこのイベントを企画した「けんた」の祝詞奏上、なーやのクリスタルボウルの奉納が行われ、集まったみんなで参拝し、翌日の実りを祈った。そのあとはみんなが森でゴミ拾い。NOBUYAをその場に残して私はリラクシンへと向った。この日が個展の初日だったのだ。着いてみると、店のマスターの「ターボー」が今朝入院したと、彼の元へ、このタイミングで種子島から遊びに来たという女性が言った。確かに前日、作品のセッティングをしていた時にやたらと咳こんでいたターボー。喘息だった。「まぁ、これも何かの縁だろうから、私もいるようにするけど、もし一人になっても、好き勝手にやってくれとターボーが言ってたよ」彼女が言った。「夕べ初めて会ったというのに…」私は彼の目の悲しいくらい優しい光を思い出していた。

前日の昼間、セッティングをやる前に私達はなーやの仕事であるガイドについて行き、4名の観光客の方たちと一緒に「白谷雲水峡」へ行った。年配のご夫婦と交際中のかわいいカップル。みんな、はるばる森に入るために来てるだけあって、心がきれいな人達だった。その2組ともが、それぞれ個展にやってきてくれたのだ。嬉しかった。そして温泉やスーパーでチラシを見たという人たちがポツリポツリとやってきてくれた。正直、なーやも果たしてどれくらいの人が来てくれるのか、さっぱり予想がつかないと言っていたのだ。それでもリラクシンによく来てるお客さんたちは「この店にこんなに人がいるのを初めてみた」と驚いていた。「まったく別世界になっている…」と

RAINBOW PRAYERSでは屋久島に住む3人の絵描きと一緒に絵を描いた。当初、なーやから電話で「3人がそれぞれに絵を描くけど∀KIKOさんはどうする?」と聞かれた時「4人いるならせっかくだからみんなで一枚の絵を描けばいいじゃん!」と提案したのだ。そのアイデアを3人もすぐに了承してくれたようだった。その時、私の中に浮かんだビジョンは円形の杉材をキャンパスに4つの方向から描いていくというものだった。中心には赤い丸が見えた。屋久島に着いた翌日、なーやとNOBUYAがさっそくそのキャンパスを作ってくれた。そして赤丸を入れておいた。当日、3人の絵描き一人一人に座りたい場所を決めてもらい、残った方位は北、それが私の場所になった。会場の森も島の真北に位置していた。「うわーっ。このキャンパスいいーっ」「あーなんか、この中心に向っていきたくなるねー」「これは梅干しだわー。私、今日ちょうど梅干しの種を首から下げてきたの」みんな気に入ってくれたようだった。四隅に屋久杉の香が焚かれ私達は手をつなぎ、祈り、そして描き始めた。

火はすでに焚かれていた。NOBUYAが火の神様に酒を捧げ、ホラ貝がセレモニーの開始を告げた。向こうでけんたのドリームキャッチャーのワークショップが始まっている。クリスタルボウル、たくさんのリン、太鼓、サックス、カリンバ…。音楽の始まりとともに、けんたの妻「なお」がすでに踊りまくっている。子供達も踊っている。そこに舞踏家の「虫丸」さんが登場。一瞬異様な気配を感じ、思わず顔を上げ食い入るように見入ってしまった。「まさかこんな本物に、こんな所でお目にかれるとは…」島に来た日、なーやの家に着く前に虫丸さんの家に連れていかれた。その日はちょうど奥さんの「ひろみ」さんの誕生日で一緒に祝いの席によばれ遅くまでお邪魔したのだった。「おもしろいオヤジだな」とは思ったが想像通りだった。「ヒロポン」のファイヤーダンスになった。「カッコイイじゃん!」前日、個展に現れた時の彼はもう既に酔っぱらっていて別人だったけど、それでも初めて会う私に似合いそうと、桃の花をコップに生けてプレゼントしてくれたのだった。「どいつも、こいつも芸人だね。いったいこの島はどうなっちゃってるんだ!」必死に映像で記録を撮っているNOBUYAが叫んだ。最後はみんなで祈りの輪を作り、思い思いの祈りを捧げた。大人も子供も犬も一緒に手をつないだ。このイベントのお陰で、そこに居合わせた島のみんながより深い絆で結ばれたようだった。

二次会はなーやの家に集まった。私達夫婦は、二人して中庭に出る勝手口の屋根に頭をぶつけ私は血を流した。なーやの妻「たかえ」を一瞬パニックにさせてしまったが、たいした傷ではなくその後は笑い話となり、満天の星空のもとで私達は長いこと話し合った。それから島を出る日まで、なんだかんだいってはみんなと集まってとにかく一緒に楽しんだ。個展の最終日に来てくれた虫丸さんが「帰る前に、もう一度家にも寄ってってよ」と言ってくれた言葉に甘えて、私達は帰る前日、晩御飯をごちそうになりにいった。話の流れで次はニューヨークへ行くことを話した。そうなのだ。屋久島行きが決まってから間もなく、なぜかニューヨークへと呼ばれることになったのだ。昨年、表参道でコラボレーションしたミュージシャンのデーナがひと月ほどニューヨークの家に帰るから「絶対に来て欲しい」と言ってきたのだ。今までにも何度も誘われていたが、その都度あまりノリ気にならず断っていた。でもなぜか今回は、ハードになることも分かっていながら「行こう」と素直に思ったのである。

「ニューヨークに行くんだったら彼に会うといい」虫丸さんから友達のアドレスをもらった。もう10年近く会ってないが、いい奴だからと。「彫刻家と絵描きは仲良くなれるだろう…」そんなことを彼はつぶやいていた。夜中に虫丸さんの家をおいとまして、けんたやなおも一緒になーやの家に泊まり、翌日みんなでフェリー乗り場まで見送りに来てくれた。一緒に絵を描いた「ひろこ」も駆け付けてくれた。「本当にありがとう。あの時間は最高に楽しかった」満面の笑みの彼女。乗船してもなお帰ろうとしないみんな。姿が見えなくなるまでずっと手を振り続けてくれていた。「いってらっしゃーい」の声に送られて私達はちょっぴり泣きそうになった。

二日後にはニューヨークにいた。「Simple Side.」の出版元nicoの「taba」が一緒だった。彼女はSimple Side.を一箱、手荷物で持ってきていた。デーナも自分の仲間たちに作品を紹介したいと言ってくれていたのだ。彼女はいつかニューヨークでも私と「kokoro show」をやってみたいと思っているようである。でも着いた私には最初に行くべき場所があった。「グランドゼロ」。屋久島で行った「RAINBOW PRAYERS」の祈りの灰をみんなから託されてきたのだ。意図したことではなかったが、自然にそんな流れになっていったのである。まだ何か重いエネルギーが残る跡地に「NEW」と銘打って以前と同じようなビルが再建されつつある情景を見た時、何ともいえない感覚に襲われた。私達は、そこからすぐのハドソン川へ行き灰をまいた。その行為じたいは、ある人から見れば意味のないものなのかもしれない。でも、その瞬間私は、ずっと屋久島の仲間達を感じていた。

ニューヨークではなぜか、自然を満喫する日々を送った。デーナの住むアパートがマンハッタンの一番高い所にあって、その裏がニューヨークで唯一残る太古の森だったのである。「ニューヨークは平地から白人や富裕層が住んでいって、黒人は一番最後だから一番高い所に家があるのよ」デーナが言った。でも私から見れば、そこは一番贅沢な場所だった。「まさかニューヨークに来てまで森を歩けるなんて!」散歩するだけでもかなりの広さのあるその森の木々は一本一本がとても個性的だった。でもちょっと元気がないことに気づいた。「最近、心無い人々によって木々が森から盗まれているの」とデーナ。いったい何故なのかはまだわかってないという。

しばらく歩くと、大きな岩がごろごろとかたまって存在する不思議な感じのする場所に辿り着いた。思わずそこで手を合わせ祈っていた。瞑想すると力が湧いてくるようだった。「ありがとう」デーナが言った。この岩の隙間にできた洞窟で太古の人々は暮らしていたのだった。ふと見ると、石を丸く囲んで火を焚いた跡がある。それは屋久島の森でRAINBOW PRAYERSのためにみんなが作った火の場とそっくりなほどよく似ていた。イベントではその火の後ろに、絵のフラッグを飾るのにちょうどいい木があって、バッチリだったのだが、ここも、まったくそのようになっていて私は一人で鳥肌が立っていた。屋久島ではイベントのあとみんなに「∀KIKOはこれから森林ギャラリーアーティストとして世界中の森で絵を展示していくような気がする!」なんて言われたが「ニューヨークだったらここだろうな」とその時ハッキリ思えたのである。

虫丸さんから紹介された「ケン」さんの所へは最終日に会いに行くことになった。「何?虫丸からの紹介だって?だったら家で一泊してそのまま空港へ向えばいいよ」私が何者なのかもわからないというのに、ケンさんは会う前からとても優しかった。レンタカーを借りて郊外にあるケンさんの家へと向う途中、何度も鹿を見た。美しい自然。風景までもが屋久島とシンクロしていて「いったいここはどこなのだろう?」と思ったほどだ。何の目印もない道をひたすら住所のナンバーを頼りに走る。突然雷が鳴り響き辺りは大雨となった。「はじめまして。ケンです。まずは何も持たずに、さあ入って、入って」私達は自己紹介をした。彼の奥さんのグロリアはダンサーで仕事で今日は帰らないという。ケンさんは石の彫刻家だった。「僕の作品を見せるね。それが一番早いと思うから」「私の作品はこれです」私は画集を差し出した。「こ、これは。僕らはたぶん同じ星から来たか、1.500年くらい前に一緒に仕事していたかもしれないなー。いやー驚いたよまったく」ケンさんが言った。私も本当に驚いた。彼の石の彫刻は私の絵がそのまま彫刻になっているかのように、互いの作品が深く共鳴していたのである。「この出会いはきっと始まりだよ。おーい。虫丸ありがとなー」ケンさんは天に向ってそう叫んだ。

彼の家の外には広いスタジオがあって、何体もの彫刻が並んでいた。広大な敷地にもちゃんと計算されて作品がレイアウトされていて、そこはひとつの宇宙だった。小川が流れ水が湧き、薪ストーブがある。規模は全然違うけどライフスタイルが似ていた。「昔このスタジオで虫丸が踊ったんだ。∀KIKOちゃんもここで絵を描けばいいよ。デーナちゃんも歌えばいいよ。みんなでクリエイトして楽しもうぜ!」どこまでも明るく清らかでユニークな芸術家。そして抜群のセンスの持ち主。私達はその空間と人柄に完全にぶっ飛ばされてしまった。
彼の部屋のドアの上に手書きで書かれた英文字は「ノーストレス」。「みんないい?ここにはストレスは存在しないから。わかったかな?」屋久島からニューヨークへ旅して頂いた神様からの最も大切なメッセージ。それは「遊び心」だったのだ。なーやの2009年の書き初めの言葉が「シンクロ」と「ハーモニー」だった。それで屋久島ではシンクロが起こる度にみんなで「シンクロ・ハーモニー」と言ってハモって遊んでいたのだ。この旅はまだまだ続くだろう。何故ならもうすぐ生まれるnociwの子が屋久島とニューヨークへと、旅立つことになったから。ありがとう。みんな。ありがとう。ART SPIRIT。
 
_ 2009.03.11_>>>_満月

「屋久島」

今、はじめての屋久島に旅立つ準備をしている。

イベントへの参加と個展のためだ。最初は単なる遊びのためだったのだが(笑)。現地で「なーや」が場を整えてくれている。彼はもとギャラリーnociwのお客さん。ちょうど「屋久島へ移住するんですよ」という時に出会った。その後もHPを見てくれていて、いつも励ましの暖かいメールを送ってきてくれた。年賀状もきた。彼も北海道出身だったせいか、いつの間にか親戚みたいな感覚になって、久々の再会を果たした去年くらいから急に親しくなって、こっちに来た時は家に滞在するようになった。そんな流れで私達も「とうとう行くべき時がきたね」と心が動き、あまり人のいなそうな時期を狙って行くことを彼に告げたのだ。そうしたらすぐに、せっかく来るならと「その期間中にイベントとか開けたらいいですよねぇ」となーやが言い出して、それが実現することになり、そのイベントを挟んで個展ができる場所までもを用意してくれたのだった。

「ありがとう。なーや」「あ、いやいや、せっかくですからねぇー。でも、遊ぶ暇がなくなっちゃいそうですよね。はははは」確かに(笑)。でも、これはとってもありがたいことである。表現者としては。しかも森の中で絵を解放することは前から夢みていたことだった。「きっと、気持ちがいいだろうなー。絵が喜ぶだろうなー」と。それが実現するだけでもたまらないのである。しかもこんなに深い森で。それだけでもすごく楽しみなのに、インド料理店で行うことになるというミニ個展ではどんな反応が起こるんだろう。「島に住む普通の人達に見てもらえるなんて嬉しいな」私はそう思った。これから起こるであろう出会いを想像すると、とてもわくわくする。

そういえば、ちょうどこの話を進めていた時、彼は実家の札幌にいて帰省の旅を楽しんでいた。そして、発見があったのだと言った。彼の母方の先祖は余市の人だったと。余市というのは私とNOBUYAの故郷で、なーやがここまで私達に縁を感じるのも、これで納得がいくと思った部分も彼なりにあったようだ。そして今回の帰省の旅で出会った人物が、かつて余市でネイティブを招いて行われたスエット・ロッジの関係者だったそうで、なーやは彼にも深い縁を感じたようだ。そういえば、ギャラリーnociw時代にこの儀式に、ネイティブを招く役割をしていた女性が儀式後、札幌から東京へ飛んで、たまたまnociwへやって来て、私が余市の出身だと聞いてビックリ仰天していたことを思い出した。その儀式にはアイヌも招かれていたようで、私はそんなことが私達の故郷で行われていたことに衝撃を受けたのだった。なぜそこだったのかは、土地に眠るエネルギーとの関係だとその女性が言っていた。私とNOBUYAは生まれた地を離れて初めてわかった。故郷で感じていた、このエネルギーというものを共有できるのだと。

とにかく、なーやは今でこそ「あーだ。こーだ」と後付けができるけど、最初から直感で潜在的に何かを感じとっていたんだろうな。今でこそ、私もそう思えるのだ。やっぱり出会いって不思議でおもしろい。屋久島よ。呼んでくれてありがとう。

つながりのすべてに感謝します。


_ 2009.02.25_>>>_新月

「シリアス・ストーリー」

我が家のオオカミ犬「nociw」の秋田へのロストバージンの旅が無事終わった。

連日、春のような陽気に包まれた東京の山奥から向った先は真っ白な世界だった。「今年は秋田も雪が全然降らなくて…」と聞いていたのだが、私達が向った日に限って秋田道に入ったとたん猛吹雪になり、高速を降りてから犬舎に向う田舎道では「ホワイトアウト」にあってしまい、何度も雪にタイヤを取られながら必死の思いで到着したのだった。到着予定時間を大幅にオーバーしていたので、かなり心配されていた。「はじめましてー。いやーお疲れさまです。こんな吹雪は秋田でも1年に一度あるかないかの日ですよ。壮絶なお出迎えでしたね」犬舎の「HERO」さんが言った。私達はとにかく無事に着けたことを喜び合った。「あんなホワイトアウトに遭遇したのは北海道で経験した以来でしたよー」NOBUYAが笑った。本当である。まるで冗談みたいな、映画みたいなシーンだった。

「まぁ、お茶でも飲みながら話でもしましょう」初めて会うHEROさんは、電話で話した印象とはずいぶん違っていた。もっと、バリバリのブリーダーっぽい人なのかと思っていた。(うまく言えないけど)でも、どこか自分達の田舎にいそうな、違和感の感じない気さくな人だった。「いやー。ホントに今回のことは不思議な縁でしたよねぇー」私達はあまりにもスムーズに事が進んで、ここまできてしまったことに驚きつつ、その出会いを喜びあった。「今日の天気もねぇ。これは偶然じゃあないですよね」HEROさんはポツリとつぶやいた。彼女自身、約1年前から急に意識が変わり始めて、同じ物事をいままでとは違った感覚で捉えるようになってから、周りの現実が変わり始めたのだと言っていた。「そういう自分になったから、お二人やnociwと出会うことになったんでしょうねぇ」彼女が変わる最初のきっかけとなったのが、今は亡きオオカミ犬の雌「ロック」との出会いだったそうだ。初めて飼うことになったオオカミ犬、ロックに本当の意味でのスピリチュアルな世界を教えてもらったという。生活を共にしていくにつれ、彼女の中に眠る野生の感覚から多くのインスピレーションを得ることになったようである。そのロックが5才の時に事故によってある日突然逝ってしまった。奇しくもその日はHEROさんの誕生日だった。そのロックが残した子供の一人がnociwのお相手「Q太郎」だったのである。人にもそれぞれ人生のストーリーがあるが、犬にもまた、それぞれにドラマがあるのだなーと思いながら眠りについた。

あくる日。天気予報では一日中雪だったはずが、信じられないぐらい晴れた。「ホント、神様の演出はにくいよねぇ」私達は笑い合った。昨日の吹雪から一転、この晴れ渡る日への展開は何かがリセットしたような気分になった。しかも暦は大安吉日。ハレの日に申し分ない最高の日和となったのである。朝、初めてnociwとQ太郎を会わせたNOBUYAが言っていた。「二人ともお互いを見たまま、しばらく微動だにしなかったんだ。ただジーッと互いに見つめ合っていたよ」相性もバッチリだったようである。いざ、二人を近づけてみた。するとnociwが自ら嬉々としてQ太郎に向っていくではないか!それをQ太郎が待ってましたとばかり後ろを狙う。求愛ダンスが始まったのである。信じられなかった。目の前の光景が。「nociwも求めてたんだなー」ということを改めて知る。NOBUYAをちらりと見やると何ともいえないという顔をしてじっと見守っていた。本当に不思議な気分だった。獣達のこういう光景を目の当たりしたことが初めてだったせいかもしれない。それはただ、本能のおもむくままの自然な行為だった。野生の血の沸き立つ瞬間だった。真っ白な雪の中で営まれる黒い犬たちのダンスを見て、私はただ「なんて美しいんだろう」と思っていた。初めてのnociwはさすがにとても痛がって、あと一歩が踏み出せないでいた。それでもQ太郎はとても優しくて、粘り強くひたすら時を待ってくれた。気の荒い雄犬だったら、雌の首元に噛み付いて動けなくしてから強引に我がものにする輩もいるという。でもQ太郎は決してそうはしなかった。性格までもがnociwにとても似ている気がした。「二人も疲れただろうから、ちょっとブレイクを入れて午後またトライしてみましょう」HEROさんが言った。「ふーっ」興奮しているnociwをなだめて休ませる。私達は昼食を取って、第2部が始まった。今度は外でしばらく様子を見てからQ太郎の犬舎で二人にしてみようということになった。すると間もなくして合体が成功したのである。15分くらいは繋がったままの二人を見てると、こっちにまでエネルギーが伝わってきて体が熱くなった。nociwは叫びを上げながらも目の奥で満足していると語っていた。私もNOBUYAも感無量の瞬間だった。(笑)

HEROさんの犬舎の名前は「シリアス・ストーリー」といった。「ブリーダーとして本当のことだけを、伝えていきたいと思ったから」実際では本当に正直なブリーダーの方が、少ないといわれる業界らしい。命を扱う仕事という重大性よりも、ビジネスとして儲かるからという理由でこの仕事をする人間達がたくさんいるのだという。長いブリーダー生活の中でHEROさんは、そういった様々な疑問にブチあたりながら、自分なりの答えを見つけだしていったようだ。Q太郎は「命の教室」というボランティァ活動で、たくさんの子供達と触れ合い、命の大切さを共有するという機会を持っているという。そういう活動もHEROさんにとっては、自分を大きく成長させてくれるものなのだという。犬達の存在の可能性に真摯に向き合う姿には感動するものがあった。彼女はずっと、犬達に変わらぬ愛情を注ぎ続けてきたのだ。nociwにはしっかりQ太郎の種が付いた印が見受けられる。きっと2か月後には元気な子犬たちが生まれてくるだろう。この地球に。

もうひとつのシリアス・ストーリーを紡ぐために。


_ 2009.02.09_>>>_満月

「nociwのお見合い」

我が家のオオカミ犬「nociw」に、とうとうお見合いの話がまとまった。

3月で4才になる彼女はもうお年頃、いつの日か子供は産ませるつもりでいたが、まさかこんなに早くその日が来るとは正直思ってはいなかった。でも、毎年3人で北海道へ帰省するたび、大の犬好きの妹から「お姉ちゃん、nociwの子供が早く欲しいなー。」と言われ続けていて「そろそろまじめに考えてみようか?」とNOBUYAと話し合うようになっていたのだった。でも、辺りを見回してみてもパートナーになれそうなオス犬はいなかった。一度「ひょっとして恋人が見つかるかも?」とドッグ・ランという所へ連れて行ったこともあったが、小さい時から慣れているわけではないので、いきなりたくさんの犬が囲いの中にいる状態を見て「いったい何なんじゃここはぁーっ?」とnociwをビビらせてしまった。そのうち少しづつ慣れてはきたのだが、みんなが一斉に走り出してnociwも走ると、走ることだけはいつも森を駆け回っているから得意なのだが、あまりにも足が早すぎて逆にみんなが引いてしまったのだった。どうもテンポが合わないのだ。無理もない。「ご、ごめん。父ちゃんと母ちゃんが悪かった…。」私達は安直すぎた考えを反省した(笑)。

それ以来、そんな出来事も忘れかけていた頃「あぁー。もうすぐnociwの生理が始まるなー。」と思っていた矢先、NOBUYAから「ちょっと相談なんだけど…」と、パソコンの画面を見せられた。「彼どう思う?」そこに写っていたのはnociwにそっくりの、でもとっても凛々しい顔をしたオオカミ犬だった。「えっ。彼は誰?」なんでも秋田のブリーダーが飼うオオカミ犬のオスだという。NOBUYAなりに色々とネットで探した結果、最終的に「彼しかいない。」と判断した結果だというのだ。名はなんとQ太郎といった。「キュッ。Q太郎!」確かに目の周りの毛だけが明るい色で、まあるくフチどられていた。「さ、最高ーっ!」「だろ?」勝手に盛り上がった私達だったが、果たしてブリーダーに種だけを頂くといったことができるのだろうか?あまりにも高額な値段をふっかけられたら、私達には手も足も出ない。そういう世界を全く知らない私達はとりあえず先方に恐る恐るメールで相談をしてみることにした。すると返ってきた答は、なんと「実はそちらのサイトには、たまにお邪魔しておりました。」というものだった。nociwのことも勿論知っていたし、彼女の両親のウルフィーやラフカイ、彼等の飼い主の「かつ+ちえ」の生活ぶりにもとても興味を持っていて、最近ちえが偕成社から出した本「ウィ・ラ・モラ オオカミ犬ウルフィーとの旅路」をアマゾンで取り寄せ中とのことだった。「す、すごい!」私達は驚いた。そして向こうも「このお話にはとても縁を感じています。是非!」と快く受け入れてくれたのである。しかもとっても良心的な条件で。「ブリーダーの世界では最近、ビジネスばかりが先行して、とてもついて行けない」とも言っていた。

20年近くブリーダーをやってきて、ここ最近、オオカミ犬と出会うようになってから、自分達の意識も急速に変わり始めたという彼等。「オオカミ犬はとてもスピリチュアルな存在。自分達が目指す世界はこっちかもしれない!」そう思い始めた矢先の私達からの突然のメールだったようである。向っている方向が正しい時にはすべての出来事がスムーズに流れていく。だから今回も、双方にとって、ちょうどいいタイミングで出会うことになったのかもしれない。それにしても、ネットを見ただけで「ここだ!」と断定できてしまうNOBUYAの直感にも改めて驚かされた。寸分の狂いもなかったのだから…。さて、いよいよ今月の「ござれ市」が終わった翌日からnociwのロストバージンの旅へと出発する。ここまで考えて行動する私達は単なる親バカかもしれない(笑)。あとは本人同士が決めることだ。我々人間どもは蚊帳の外で暖かく見守っていることにしよう。

nociw、愛してるぜ。


_ 2009.01.26_>>>_新月

「aiとakari」

大切なファンに「ai」と「akari」という2人の女の子がいる。

彼女達は今、23才。今年、年女になるという丑年の2人だ。初めて出会ったのはaiが高校3年生の時、当時、私がやっていたギャラリー「nociw」にふらりとやって来たaiは、ただただnociwの世界を感じとっている様子で、そのまま時間が止まっているかのような状態になっていった。言葉はいらなくて、ハグをすると、サーッと涙をとめどもなく流していたai…。私の存在を知ったのは、彼女が通う代々木上原の美容室「MO」で。壁に飾られていた絵を見た瞬間、心が動かされてしまったからだとのことだった。その時、nociwではちょうど個展中で、営業時間が終わったあと、中庭で焚火をしながら仲間達が集まってワイワイとお酒や音楽などをやっていた。初対面のaiは臆する風もなく、自然に焚火の前に腰掛けジーッと火のゆらめきを見つめていた。誰かが赤ワインをすすめたのを、これも平静な顔で受け取っていたので誰も高校生だとは思わなかったほどだ。

それから度々、aiはnociwを訪れるようになった。そうして高校を卒業して間もなくした頃、aiはakariを連れてきた。初めて会う筈の私達なのに、なぜだかとても親近感があった。「はじめましてー。akariです。∀KIKOさんのことはaiからいつも聞いてました。」そうなのだ。私もakariのことをいつもaiから聞いていたのだった。2人は高校1年生からの親友でソウルメイトなのだとaiはいつも言っていた。「私の魂にとって、とても大事な存在だから絶対に∀KIKOさんに会わせたいんだ…。」本当に性格は全然違うのに、2人はまるで1つの魂が2つになったかのようにエネルギーがぴったりと寄り添いあっていた。いくら仲良し女友達といっても、ここまでの関係はそうはないだろう。彼女達を見てると、愛が溢れてくる。そんな2人だった。

nociwがクローズしたあとは「ござれ市」や個展に2人はちょくちょく顔を出してくれるようになった。そしてある時、aiに宣言されたのだ。「私達、ずーっと∀KIKOさんの原画がいつか欲しいね。って話してて、やっとその時が来たと思うので自分達へのプレゼントに絵を選びに行ってもいいですか?」と。「可愛い奴らだなー。」と感激し、ついにその日がきた。2人はアトリエへ絵を買いに行くという行為を、ひとつの大事な旅のようにとらえていたようで、前の晩に近くの宿に泊まって心身をリラックスさせてからやってきた。「じゃあー。絵を見る?」ひと息ついて私が言うと、2人はもじもじしながら言葉を発した。「あのー。それがね、夕べ、ずーっと2人で話してたんだけど、もし、もしも、できたら私達2人をテーマに∀KIKOさんに絵を描いてもらうことなんてできるのかなーって。そんなことができたらどんなに素敵だろうって…。」「いいよ。じゃあその絵は2枚続きの絵にしよう。出来上がった時、どっちを持つかは2人で決めるってのはどう?」「うわーっ!いいーっ!」その時点でaiは泣いていた。それを見てakariが笑っていた。2人は出会った時からずっとakariのカメラでセルフタイマーにして写真を撮り続けているとのことだった。「じゃあひとつだけ私からお願い。今まで撮った写真で1枚だけ選ぶとしたらコレっていうのを送ってもらっていい?」「うん。わかった。」

送られてきた1枚の写真は、放課後の校庭だった。遠くで制服姿の2人が笑いあっている。1本の大きなイチョウの樹が印象的だった。その写真からは、まるでタイムスリップしていくかのように、当時の2人の姿が、ありありと見えた気がした。そして、aiとakariの笑い声。光…。封筒には2人からの手紙が入っていて「あれ以来ずっと興奮しています。」「こんなに何かが楽しみな気持ちって幸せです。」と喜びの気持ちが添えられていた。2人のそんな思いをビシビシと感じながら、私もまた2人だけに焦点を合わせて、2人のためだけに絵を描くという作業は幸せこの上ない時間だった。自分が喜びをもってする仕事を、喜んでくれる人がいる。こんなシンプルな幸せこそが私の源だ。思い合っていると通じるもので、時折2人からの通信のようなものがイメージで伝えられてきたりした。それをまた絵にしたりして作業は続いていく。結局描いているのは私だけれど、これはコラボレーションだと思った。でもどうしてここまでできるんだろう?と、ふと思ったりしたが、akariが手紙に書いていた「∀KIKOさんはどうしても他人とは思えない。私達のお姉さんみたい…。」という一節に「そうかもね!」と思えたりもするのだった。作品が完成したことを伝えてから取りに来るまでの時間もまた、2人をどこか違う次元へ誘っていたようである。「自分達のイメージの中だけで始まったことが、現実として形となって目の前に現れる。それって本当にすごい!」2人は興奮した面持ちで言った。

「はい。目を開けてーっ。」「……!!」しばらくしてakariが今までで見た中で一番のとびっきりの笑顔でこっちを見た。aiは?泣き崩れてる…!私にはどんな映画にもまさる最高のシーンだ。私はこうやってみんなから本当の感動をもらっている。だから私はいつも胸がいっぱいなのだ。「どんな絵が出来上がるかなんて、想像できるはずもなかったけど、どうして∀KIKOさん、こんなに知ってるの?」akariが言った。「絵を放せば放すほど、宇宙が広がる…。」aiが言った。「今はわりと近くに住んでるけど、いつかもっと離れる時も来る気がする。そんな時も、この絵を見てつながっているんだね。」2人は、今日はお互いこっちの絵を持って帰るけれど、時々絵を交換して持つこともあるだろうと予言した。たまには絵を持って集まり、その時は絵を一つにつなげてその前でパーティーをしよう!などと次から次へとインスピレーションが湧いてきたようだ。新鮮な感性とピュアでスイートな魂を持って生まれてきた2人。

ai、akari、ありがとう。


_ 2009.01.11_>>>_満月

「父」

1月11日は父の命日だ。1月1日に生まれて11日に逝った1の人だった…。

私が父と生活をともにしたのは生まれてからの8年間だけだった。8歳から13歳まで私が腎臓病で入院中に、両親は別れ父はすぐに再婚をし、子をもうけ別の家庭での父親行に忙しそうだった。新しい奥さんが、父が私や妹と会うことを拒んでいるとかで、それ以来めったに会う機会はなかった。退院して地元の中学に通うようになって、たまに道路を車で通り過ぎるのを見たりしたが、お互い何かぎこちなく、特に会話を交わすこともなかった。高校に通う頃になるとなおさらだった。そのまま私は卒業後、東京へ来たので父への思いのようなものを自分で封印してしまっていたのかもしれない。母は私が高校3年の時に再婚をし、私達姉妹の名字も変わったのだが、新しい父と生活したのも1年間だったので、自分の中での父親像というものは、どこかぼやけたままだった。

東京に出てきて何年後ぐらいだっただろうか?実家に帰省していた時にたまたま鳴った電話に出ると、父からだった。誰にも内緒で会いたいと言う。とっさの事で「わかった。」としか言えなかった。「なんでこんなコソコソした真似をして会わなきゃならないんだろう?」と、ちょっと腹も立ったが、私も少しは成長していたので「きっと、大人の言い分というやつがあるんだろう。」と思い、意を決して指定されたお寿司屋さんへと向った。店に入ると父はもう来ていた。面と向い会うのは十何年ぶり?いやもしかしたら生まれて初めてだったかもしれない。目の前にいる人は子供の頃に記憶していた父とはまるで別人のように、疲れ果て老いていた。「母さんにそっくりになったな。」「…。元気だった?」「あぁ….。お父さんは疲れちゃった。今は幸せとは言えないんだ…。」何も言えなかった。久しぶりに会う親からそんなことを聞いて、いったいどんな言葉をかけろというのか?「自分で選んできた人生の結果が今なのだ。」私はなぜかとても冷静になってその人を見つめていた。「お父さんっ!」という衝動的な感情は沸き上がらなかった。でも「この人の存在がなければ、今の私はここにはいないのだ。」という縁がある。この親子の縁というものは実に不思議だなとは思うのだ。私達はお互いを深く知ることのない浅い縁だったのかもしれない。が、この人はまぎれもなく私に命を与えてくれた人なのだ。私は東京の住所と電話番号を教え「頑張って。体に気をつけてね。」とだけ言って店をあとにした。

それから毎年、暮れには決まって父からのお歳暮が届くようになった。そして4度目くらいの年明けに、妹から突然電話がかかってきたのだ。「今日、車の中でお父さんが心臓発作で死んだって。お父さんのお兄さんから電話がかかってきたの…。」実は私にはその日、とても不思議なことが起こっていた。朝、目が覚めた時、その頃住んでいた家のそばにあった高幡不動尊になぜだかどうしてもお参りに行かなきゃという気が起きて、都心へ出かける用事があったがその前に寄っていこうと決め家を出た。途中田んぼを通るのだが、そこに立っているいつも話かける木の下に白鷺とカラスが向き合い回っているのである。私のイメージに即座に浮かんだのは陰と陽のマークだった。そして死と再生という言葉。「やっぱり、何か変だな。」と確信し、不動尊へ急いだ。そして本堂の前で祈っている時、強烈に父のビジョンがやってきたのである。そんなことは初めてだった。私はわけもわからず、ただ「お父さん。ありがとう。」と心の中で繰り返し祈っていたのだ。そして夕方家に帰ると妹からの電話が鳴ったのである。死亡時刻は、まさに私が不動尊で祈っていたその時だった….。

それからちょうど1年後の命日に、父は初めて私の夢に現れた。そして言ったのである。「お前がやっていることを、お父さんはすべてわかっているよ。そして、いつも応援している。今までのことはすまなかった。でもお前達のことを思わなかった日はなかったよ。」と。私の心が父の愛で満たされた瞬間だった。離れていることは昔と変わらないが、今の方がより近くに感じることができる。毎朝、たった1枚だけ持っている父の写真に手を合わせ、今日も生きていることに感謝して私の1日は始まるのだ。

お父さん、私は幸せです。ありがとう。