2008

_ 2008.12.14_>>>_満月

「ふんどし」

ついに、夫婦でふんどしデビューを果たしてしまった。

最近、にわかに身のまわりでふんどし愛用者が増えていたのだ。「さぞかし、いいんだろうなー。」と思ってはいたのだが、なかなか着用するまでにはいたらなかった私達。ところが今年、ミュージシャンの「奈良大介」が我が家に遊びに来た時、ふんどしがいかに素晴らしいものかを力説していって、私達は奈良ちゃんが笑顔で放った「一度つけたら、もう元には戻れないよ。」という言葉に心を鷲づかみにされた。それからしばらくして、今度はシンガーの「サヨコ」が娘の「アリワ」と遊びに来て「∀KIKO、ふんどしはホント絶対だから!」と太鼓判を押され、私達の心はますますふんどし色に染まっていった。それからしばらくぶりに、今度は山梨にいるnociwの両親とその飼い主で炭の力を活かした商品を手作りで制作するピースリングの「かつ+ちえ」に会いに行ったら、なんと2人もふんどし派になっていたのだった。「こりゃぁ、もう、ふんどしにせよ!っていう天からのメッセージだよねぇー。」なんて笑っていたら、隣人の「猛男」が「こんにちはー。」とやってきた。腰を見ると、前にペロッとなにかが下がっているではないか。「あれぇーっ、タケオ。ふんどししてんの?」「あ、はい。買っちゃいました….。」となって私達は「ついに、ここまで来たか。」と装着べきタイミングを察知したのである。

年末の29日に、カフェ・スローで行われるサヨコオトナラの望年祭に夫婦で呼ばれたので、新しく生まれ変わったというカフェ・スローの下見にNOBUYAと行ってきた。駅からずいぶんと近くなってアクセスがとても便利になっていた。そして、スローのスピリットはそのままに、さらに広く雰囲気もよくなって活気に満ちていた。「こんにちわー。」店に入ると、店長の「マミー」が笑顔で迎えてくれた。「∀KIKOさーん。NOBUYAさーん。会えて嬉しいです!」喜びの再会のビッグハグ。マミーは相変わらず、いい奴なのだった。スタッフの中には前の店から一緒の人達もいて私達を歓迎してくれ、とても嬉しかった。野菜がいっぱいの、おいしいランチを食べて、店をウロウロしてみたら、物販のコーナーにあるではないか、ふんどしが!「よし、今日がオレたちのふんどしデビューの日だ。」NOBUYAの目が輝いた。「いいらしいですよねー。ボクはまだ未経験なんですが…」マミーがはにかみながら言った。とりあえず一着づつ買って、さっそく試してみることにした。

「うわぁーっ。何コレ?はいてないみたーい。」「すっげぇーっ開放感。」「気持ちいいーっ。」NOBUYAはパンツよりずっと似合っている!まさに「百聞は一見に如かず」で私達は、たちどころにふんどしのファンになってしまった。そして先日、浅草のウンコのオブジェのアサヒビールで行われた「麻ひらき」というイベントに遊びに行って、さらに新しいふんどしを2着買ってきたのだった。ひとつはサヨコもお勧めしていた千葉を拠点に活動し、夫婦で草木染めをして衣類を創作する「kitta」の「モッコ型ふんどし」。これはふんどしというよりは、ヒモパンに近いふんどしで女性に合っていてデザインもとってもキュート。もうひとつはオーソドックスなふんどしで麻を茜で染めた赤いふんどし。これは何かエネルギー高まりそうな感じがして、NOBUYAも買っていた。この「赤ふん」を作っていたのが「縄文エネルギー研究所」。ここの設立者で民族精神博士の「中山」さんの話はほんとうにおもしろかった。自分がパンツからふんどしに変身していった経緯を楽しく聞かせてくれ、会場がドッと笑った。古来の日本人はみなふんどしかノーパンだった。一人一人に神が宿ると考えられるこの私達の体が、いってみれば神社のようなもの。その中でも腰は命を創る大切な場所。その神聖な腰を魔を払いエネルギーをスムーズに流すという体に優しい繊維、麻によって作ったふんどしで守ってきたのだという。実に興味深い内容だった。そして中山さんはある日、公衆浴場で着替えをしている時に彼のふんどし姿をじーっと見つめながらパンツをはいていたオジさんが、バランスを崩し転んだのを見て閃いたそうだ。「そうか!ふんどしは足を大地から離さずに装着できる。パンツのままでは不安定なのだ。」と。(笑)まぁとにかく、彼の「脱パンツ」宣言におおいに乗っかって、私達もふんどしライフを楽しんでいこうと思う。

そう、本当のおしゃれは「マタモト」からね!


_ 2008.11.28_>>>_新月

「OBK」

奈良から3日間、元隣人の「えいじ」がやってきた。

それは「PIRIKA」の3周年記念パーティーがあったからだった。「ピリカ」というのは代々木にある美容室で、もともとはNOBUYAが10年前に「PIRIKA」としてオープンしたのが始まりだった。そのお店のスタッフとして働いていた「ヤマシン」に3年前、NOBUYAは全てを譲り渡したのだが、ヤマシンのお店になっても「ピリカ」という名前はそのまま受け継がれ、現在ではマンションの1Fの美容室だけではなく、4Fにマッサージとネイルのサロンも設けられ、スタッフも増え盛り上がりをみせている。そのスタッフの1人、マッサージ師として働いているのが「チュック」といって、えいじの大親友の1人で、今回のパーティでベリーダンサーのバンドとしてライブをやったのが「マヤ」といってプロのミュージシャンであり、えいじの大親友のもう1人だった。つまり、大親友の3人組が久々に集まる一大イベントだったのである。この3人のことを通称「OBK」という。これは自分達で名づけた名前で「オレタチバカ」の略だそう。そしてこのOBKでも、時たまステージに立ったりしているのだ。チュックはバイオリン、えいじはタブラやお琴やなんでも、マヤもタブラやキーボードやなんでもを、即興で演奏しながらとにかく自分達が一番楽しむジャムバンドとして遊んでいる。

パーティーはNOBUYAのDJもあったし、なんとnociwの出入りまでもが特別に許可されて私は嬉しかった。ビルの9階から西日に照らされる富士山が見えたり、都会の街の灯をはるかに見下ろしながらの世界は、それはそれで普段味わうことのできない景色で不思議な感覚になった。たまにはお山を出て、こういった場所で伸び伸びダンスをするというのもいいもんだなーと思ったりした。1階はアフガニスタン料理。ここで腹ごしらえをしたのだが、すっごくおいしかった。これも普段はめったに外食はしない私にとっての楽しみのひとつである。やはり都会は旨いのだ。そろそろパーキングで待っているnociwを軽く散歩させてから上に登ろうと思って店を出ようとしたら、えいじがやってきてハグをした。奈良での個展以来だった。「はーい。∀KIKO!久しぶり。君にお土産あるよ。」渡されたのは、奈良でえいじがパートナーのまりこと営んでいるパン屋「ANANADA」のショップカードだった。そうだった。まりこに依頼されてショップカードのための絵を描いたのだ。「おぉーっ。いいじゃん。」「でしょ?えへへ。」今回えいじはまりこから、このショップカードを東京でお世話になった人達へ渡すというミッションもまかされていた。奈良で頑張っている2人を誰もが心から応援しているので、きっとみんなも喜んでくれただろう。

初めてエレベーターに乗るというのにnociwはいたってクールだった。私達の方がビルの9階のバーにnociwがたたずんでいることがおもしろくて、ついちよっかいをかけたくなる。DJをしているNOBUYAの足下にちょこんと座って都会の夜景を見下ろすnociw。NOBUYAはもちろん、ご機嫌だった。ピリカのスタッフとお客さんが仕事を離れて和気あいあいに盛り上がっている。こういうコミュニケーションって素敵だなと思った。こうして一緒に遊ぶことで、普段サロンでは気づかないお客さんの魅力を発見できたりして、それを今度は仕事に生かすこともできるだろう。パーティーも佳境に入りライブが始まった。マヤのプレイとなると決まって真剣な顔で耳を澄ませるえいじ。「彼は私の音楽の師匠。」それが口ぐせだった。チュックはあたたかくそんな2人をいつも見守っている。一見、どーしよーもない人間の3人だけど音楽に対する愛は本物で3人の友情もまた本物なのだった。

今年のパーティも無事終わり、最後のお客さんを見送ってから片づけを終え家路に着いた。といってもみな帰る場所が一緒なのだった。ヤマシンも結局、近くに越してきたからだ。NOBUYAとは今はもう仕事上でのつながりはないが、そんなこととは関係なく、人間としてつながっていたいとヤマシンは思っていてくれているようだった。現在のピリカのスタッフまでもが私達にとっても優しいのである。
同じ場所からバラバラに同じ場所へ集まり、またバラバラに帰って同じ場所で会うことにして、私達はパーティ会場を後にした。1時間半後、身内が今度は我が家に集合していた。OBKがバッチリ揃っている。結局その夜は3人とも我が家に泊まり朝を迎えた。森へみんなでnociwの散歩へ行って、一緒にジャムったりした。何かひとつ音を投げかければ、ポンポンと次から次にリアクションが返ってくるOBKは本当に申し分ない。音の絶好の遊び仲間である。このあとはみんなで近くの温泉に行き飯を食い、あとは家でまたひたすらバカをやって笑って寝た。結局えいじは3泊、マヤは2泊、チュックは家に2泊、ヤマシン家に1泊と、ほとんど3日間、OBKと生活を共にした怒濤の日々だった。この3日間でわかったことは、やつらは本当にバカだということ。そして、そんな私達も相当のバカだったということ。まるで一足早いお正月が来たような、疲れたけど最高に楽しかった瞬間だった。ありがとう。みんな。

愛してるぜ!ONE LOVE。


_ 2008.11.14_>>>_満月

「心の山」

山に登った。久々に朝日が顔を出した気持ちのいい日に。

山のふもとに暮らす私たちだが、時にはちょっと遠出をして初めての山を登りたくなる。ここにいてもnociwの散歩コースはいくつかあるが、彼女も初めての場所となると本当に嬉しそうなのだ。そんなnociwの喜ぶ顔が見たくて私たちはつい、いそいそと出かけていくのである。今回は山梨にある標高1.200メートルちょっとの山。「高尾山の約2倍くらいだったら、どうってことないだろう。」と思っていた私たちだったが、実際は甘かった。紅葉シーズンにもかかわらず登山者に一人も会わなかった理由がわかったのだ。最初は、なだらかな道が続いていたのだが、だんだんと急勾配になってきて、ラストスパートはかなりの急斜面。ハァハァ言いながらやっとの思いでたどり着いた。おまけに「やったぁー。頂上だぁー。」と思ってしばらく休憩していたら、まだ先があることに気づいて「どひゃーっ!」という思いをしたのが2度もあり、3度目の正直で本当の頂上へとたどり着いたのである。が、そこは素晴らしい見晴しだった。真正面に雪を頂いた富士山が浮かび上がっていたのだ。そう、本当に宙に浮いているようだった。まるでラピュタのように。真っ青な空と真っ白な富士。その下にキントン雲のような雲が一直線にポンポンポンと浮かんでいた。私たちは言葉を忘れ、その桃源郷のような風景のあまりの美しさにただただ見とれていた。富士山がとても近くにあるようだった。そしてやっぱり「この山は特別な存在なのだ。」と感じさせる何かがあった。「確かに富士は眺める山なのかもしれないなぁ。」NOBUYAがポツリと言った。

今までに2度、富士山には登った。初めての時は、夜に登り始めて頂上でご来光を拝むはずだった。だが8合目あたりで急に雨が降り出し、風が強くなってきた。それでもカッパを羽織って強引に前へ進もうとしたが、そのうち上からドーッと水が流れてきて登山者が降りてきた。「これ以上登るのは危険だよ。立っているのがやっとだから。早く降りた方がいい。」仕方なく8合目の山小屋まで引き返し、そこで暖をとりながら朝を迎えたのだった。2度目もやはり夜に出発した。が、この時は満月だったのでヘッドライトをつけなくても、月灯りがあたりを照らしてとても幻想的だった。「よし。今回は順調だぞ。」そう思いながら夜明け前、頂上へ着いたとたん、今度は高山病になってしまったのである。「やったぁー!」という思いもつかの間、頭痛と吐き気に襲われやむなく下山せざるおえなかった。トホ。結局下りながらご来光を拝んだのだが、それでもやはり地上で見るのとは大違いで、相当にダイナミックで美しかった。もし、3度目に登る時があったら、今度はちゃんとあらかじめ山小屋を予約して、高度に体をならしてから登り始めようと肝に命じたのだった。

あれから10年も経とうとしてるが、登らなくても富士山はいつも自分の心にあった。そしてあちこちと出かける度に、そこからちらっとでも富士山が見える度に手を合わせ拝んでいる自分がいた。理屈ではなく感覚的に自然にそうさせてしまう富士はやはり別格だと思う。昔からさかんに行われてきた冨士講や日本全国にある富士見という場所。この山が古来から日本人の心にどれだけ浸透してきたのかが伺い知れる。そして現代という時代に生きる私は思うのだ。「日本に富士山があってよかった。」と。そう、なぜだか強く思うのである。私の中の心の山。

ありがとう。また、会いにいきますね。


_ 2008.10.29_>>>_新月

「オオカミ一族」

久しぶりに、山梨に棲む我が家のオオカミ犬「nociw」の親姉妹に会ってきた。

nociwは7人兄弟だが、その1人の「ウルル」が子供を産んだのだ。兄弟では一番最初。子供は8匹もいるという。nociwの両親は「ウルフィー」と「ラフカイ」というオオカミの血を引く犬。その飼い主は「かつ+ちえ」という夫婦で、みんなでウルルの飼い主である山の上に建つ自作の一軒家「かつ+みほ」邸へお邪魔した。びっくりしたのは、ウルルがお母さんになって、すっかり落ち着いていたことだ。それまでのウルルは、本当にせわしなくてパンチがきいてて、体育会系で「やんちゃ」という言葉がぴったりのお転婆娘だった。彼女に会うのは1年ぶり。昨年、私とNOBUYAがART SHOWでカナダへ行っている時にnociwをしばらく預けて、引き取りに行って以来だった。あの日、久しぶりに会うnociwが喜び勇んで走ってきたので抱きとめようとすると、ウルルが横から突進してきたので「おーウルル。世話になったねー。ありがとねー。」と言っていたらnociwが焼きもちを焼いて、目の前で大ゲンカが始まってしまった。実は私たちがいない間も1度ケンカして2人とも傷を負い病院へ行っていたのだ。その傷がやっと治りかけてきた矢先の出来事で、私たち4人はショックだった。NOBUYAとかっちゃんは止めようとして2人とも手を噛まれてしまい病院へ行った。ケンカに夢中になっている2人にはやむ終えなかったのだ。ウルルとnociwはこの時は病院へ行かなかったが、2人ともお互いボコボコになって血を流していた。nociwの顔もボクサーみたいに膨れ上がってそれはそれは壮絶な再会となってしまった。「仲がいい時は金魚の糞みたいに、どこに行くにもくっついて行動していたのに…。」みほちゃんが呆然としながら言った。人間の兄弟と一緒である。ただ彼女等の場合は獣同士なので容赦ないだけなのだ。nociwもそんなケンカは先にも後にもその時限りだった。そんな事があったので、ひとまずnociwは車の中において子犬たちを見に行った。「か、かわいいーっ!」団子のようになってくっついている8匹の子犬たち。nociwやウルルの赤ちゃんの時とそっくりだった。生まれ落ちた時からすでに1人1人個性を持っている。命の輝きがそこにはあった。

「ねぇ。お相手は誰なの?」と聞くとみほちゃんが答えた。「それがさ。家の下の方に棲んでいる甲斐犬で野良なんだ。あたしたちはチンピラって呼んでるんだけど、いつももう1匹の野良とつるんで行動してるうちの1匹でね。ある時、ウルルの生理中にフッと気ずくとそのチンピラがいて、後ろ向きになってつながっちゃってるじゃない。あーもう事が終わった後だと知ってあきらめたよ。そしたら案の定だもんねぇ。どうやらウルルはその連中が好きみたいで、合体した次の日も、もう1人の方のチンピラと田んぼを散歩しているのを村の人に発見されてるんだ。(笑)」「さすがウルル!」一同爆笑した。「まーでもとにかく、みんなできれば知り合いのつながりの中でいい所に貰われていくといいなーと思っててね。」「うん。そうだよね!」それはみな同意見だった。nociwの兄弟も「かつ+ちえ」のお陰でみんなそれぞれ元気に暮らしているということを今でも知ることができる。そして犬達を通して出会った飼い主同士が本当に、友達以上の親戚同士の感覚で付き合っているのだ。会おうと思えば親や兄弟に会いに行くことができるというのは、犬達にとってもとても幸せなことだと思う。だからこの縁には心から感謝している。

ウルルの飼い主の「かつ+みほ」は「kuri」というユニット名で音楽活動や創作活動をするミュージシャンで先日、待望の6年振りのニューアルバム「蜃気楼の市場」をリリースしたばかり。活動は日本各地のみならず、フィリピンやヨーロッパなどにも及び、独自の表現を続ける愛すべき2人である。そしてウルフィー+ラフカイの飼い主である「かつ+ちえ」は「peace ring」という名で古来から日本で重要視されてきた炭の力を生かしたオリジナルアクセサリーの制作や炭埋めなどの表現を行う、やはり愛すべき人達である。そしてちえちゃんは来年早々、本が出版されることになった。全国の本屋さんに並ぶ本である。その内容はカナダでの旅路。美しい自然の写真が満載の素敵な本である。この旅で彼女はまだ小さかったウルフィーと出会い、共に生活を送ることになるのだが、この出会いがなければウルフィーが日本に来ることもなかったしnociwも生まれていなかった。そう思うとすべてのつながりが不思議でならない。でも、これは必然だったのだ。日本にやってきたカナダのオオカミの血。その血脈の中で結ばれる人間たち。

我等がオオカミ一族が目指す希望と光を、自らの表現を通して伝えていきたいと思う。


_ 2008.10.15_>>>_満月

「火と月と風と」

大好きな秋が訪れて、山も日一日と紅葉してきた。nociwとの散歩が愛しい毎日。

最近、高尾の仲間達となんだかんだと言っては母屋の前の中庭で火を焚いて集まっている。この間は「さんまパーティー」。今が旬のさんまは絶品。それを焼き物番長のNOBUYAがとても上手に焚火の世話をしながら、遠赤外線にして網の上でじっくり丁寧に焼き上げる。やがて香ばしい匂いが辺りに立ちこめて、みんなは待ちきれなくて固唾を飲む。大根おろしをたくさんすって、かぼすをジューッと絞って、お醤油をちょっとかけていただく。「う、うっまーいっ!しあわせーっ!」と叫びたくなってしまう。そんな味。

空を見上げると月がとてもきれいだった。満月。あまりにもきれいなので、みんなでずっと見つめていた。雲がどんどんどんどん集まってきて、色んな形を描いていった。流氷。鳥。魚。象。陰と陽。顔。目。月の瞳は黄色くなったり、白くなったり、もやがかかったり、クリアになったり。その表情を千差万別に変化させながら華麗なるショーを見せてくれた。その周りには美しい虹色の輪が輝いていた。

音が自然に始まる。バイオリン、ギター、太鼓、インディアン・フルート。火を囲んで、みんなで輪になって。あたたかかった。とっても。見上げると月。まあるい月。そして音に合わせてダンスする雲たち。火を見つめていると唄が自然に湧いてきた。その音は炎に身を任せて揺れながらまるで遊んでいるようだった。「ファンタジーだね。」誰かがそんな言葉を放った。

風の話をした。風に乗って運ばれてくるスピリットの話を。その夜は気持ちのいい風が吹いていた。

「不思議なことがたくさんおこっている。これからは、もっとおこるだろう。今はその意味がわからなくても、あとできっとわかるよ。」映画「ポニョ」の中で私がキャッチしたメッセージ。本当は誰もがみんな魔法使い。小さな奇跡が身の周りから起こり始めている。それだけでも大きな出来事。私はといえば、自分がまだ何も知らなかったということをやっと知ったばかりの、ホヤホヤの人間。

毎日が楽しい。ただそれだけで、こんなにも幸せな気持ちになれることに「ありがとう。」と言って今日も眠りにつく。


_ 2008.09.28_>>>_新月

「再会」

しばらく「ひとりごと」をみなさんにお届けできなくてごめんなさい。奈良の個展に行っている間に東京の高尾では大雨と落雷が続いていて久々にアトリエに戻ってみると、なんとパソコンとモデムが壊れてしまっていて、メールもネットも見れないし、サーバーは容量をオーバーしてパンク状態になっていて、もろもろを整えるのにずいぶんと時間がかかってしまいました。何より私は大の機械音痴(ちなみに大の方向音痴でもある!)なので友達の助けを借りなければ、このハイテクな現代社会ではとうてい生きてはいけない人間なのであります。(笑)

この間に私には2つの展覧会があった。ひとつは奈良の大宇陀という町のケーキとパンのお店「ANANDA」での個展。ここは前にひとりごとにも書いた元隣人の「えいじ+まりこ」夫婦が高尾から奈良に移り住んで始めた場所。まだ1年も経っていないというのに、2人はすっかり町の人々に溶け込んでいて、ANANDAのパンは近くの道の駅にも置かれて大評判になっていた。2人の顔を見れば今がどれ程充実しているかが手に取るように分かった。だって2人ともまるで別人のように大きくなって光り輝いていたのだ。私は嬉しくて嬉しくて涙が出そうになった。そんな2人が「ここを拠点に西にも∀KIKOを広めていくでー」と自分達の店を使って個展を開いてくれたのである。「パンと絵」この異色の組み合わせに、いつものようにパンを買いにきたお客さんが「ぎょえーっ。今日はいったいどうしはりましたん?ここはギャラリーかと思いましたわ!」と驚きの声を上げていた。初めて来た観光客の人達は「こんな素敵なギャラリーのようなパン屋さんがあったなんて感動です。」と言ってくれた。西で作品を発表するのは初めてだった私は内心ドキドキものだったが、興味を示してくれた人達の中にはすぐに熱烈なファンになってくれた方も現れて、西のパワーを逆に感じてしまった。まりこはコックコートにハットを被って嬉しそうにその様子を眺めていた。最初は1週間の筈だった個展を「もう少し延ばしてほしい。」と言ってきたのもまりこだった。言葉には出さないまりこの想いが伝わってきて私は承諾した。そして結局は2週間以上の展示になった。まりこがパンを焼くことに専念できるよう、えいじは一切の家事を担当し、時には生地をこねたりという作業も手伝ってまりこを全力で助けていた。でも一番大好きなのは音楽であるえいじ。私が時折中庭でインディアンフルートを吹いていると、いてもたってもいられなくなり工房から飛び出してきて、タブラやお琴をつま弾き出すのだった。「まりこがジャムってきていいよって言ってくれたんだ。」この時一度、えいじが「今のは魂のジャムだった!」と叫んだ最高のセッションもできた。

お昼時になると、えいじの御飯を食べに近所の仲間が集まってくることもあった。早期退職をして地元大宇陀に戻り野菜を育てている「島田」さん。ある時ANANDAに島田さんが育てたトマトをどっさり持って現れて「これ、あげるよ」と言って置いていったという。そのトマトを食べたえいじとまりこがあまりの美味しさに驚き島田さんの野菜の虜になってしまったんだそうだ。島田さんの野菜は大宇陀の道の駅にも置かれているが、道の駅のスタッフがまっ先に買ってしまいすぐなくなるのだとか。そして、何ヶ月か前まではANANDAの並びでうどんカフェ「まっちゃま」をやっていたという「みのる」さん。彼は色んなミュージシャン達との交流も深く以前、大宇陀にサヨコオトナラを呼んだという話を聞いてビックリ!実は私が奈良に来る前にサヨコオトナラの奈良ちゃんと会って、彼が「あぁ、大宇陀。あそこはいいところだよ。」と言った時「えーっ。知ってるの?」と思ったのだがそういうことだったのである。何処へ行っても旅はつながる。結局は行くべき所に行っているだけなのだなと気ずく。まりこが一緒にお店をやっているケーキを焼いてる聖子ちゃんもとっても可愛らしくて心のきれいな子だったし、その他、天才木彫り師「ダーヨシ」。子供の心のままのヒーラー「コウ」ちゃん。物凄く美味いインド菜食料理人「みほ」ちゃん。バウルの尺八奏者「シャブドウ」さん。などなど、奈良は本当に悟りマニアが多く、つやつやに輝いているディープな輩も多くて「まるでここは日本のインドだなー」。と思ってしまった。正直言って肌に合う。とても楽なのだ。そして「来年もまた来てくださいね!」と言ってくれたお客さん達にえいじとまりこは「しめしめ…」というような表情を浮かべほくそ笑んでいた。

そして2つめは先日25日に表参道で行った「心」ショー。これも前にひとりごとに書いたが私が以前やっていたギャラリー「nociw」にふらっと現れてファンになってくれたニューヨークからやってきたミュージシャン「デーナ ハンチャード」とのコラボレーションだった。デーナとはこの話を貰うまではアーティストとファンという関係だったが、この仕事をきっかけにアーティスト対アーティストという関係になり、打ち合わせで会うごとにお互い裸になっていった。デーナは初めて私と出会った日のことを話してくれた。「やっとマイホームに帰ってきた。ファミリーに会えた。という気持ちで嬉しくて嬉しくてギャラリーからの帰り道、涙が止まらなかったの。」実は私も初めて彼女に出会う数年前に、夢の中ですでに彼女に出会っていた。その夢はこんな感じだ。

ある山の頂上にベンチがぽつんとあって私はそこに座っていた。見上げると空には満天の星が輝いている。と、突然UFOが一機空から降りてきた。と思った次の瞬間には隣にデーナが座っていて、こちらに向かって笑顔で話しかけてきた。「アルケミストって本当にいい本よね。」

夢は唐突にそこで終わったのである。「アルケミスト」は私のお気に入りの本。今までに何度も読んだ。私はこの夢の印象がとても強烈だったのでずっと覚えていたのだ。この得体の知れない爽やかな笑顔の黒人女性のことも。でも初めて出会った時、なぜかそのことは話さなかった。そして先月デーナがアトリエにやってきた何度目かのミーティングの時、初めてこの夢の話をしたのだ。すると彼女は目を丸くして言った。「∀KIKO覚えてない?去年初めて私がアトリエに来たとき、棚に飾ってあったアルケミストを見て今とまったく同じ台詞を私が言ったことを。」「えっ!」私はすっかり忘れていた。デーナは続けた。「実は私も不思議な夢を見たわ。それは∀KIKOと出会ってからのことだけど、夢の中で∀KIKOが絵を描いていたの。それを見た私は凄く素敵!と思ってその絵をずっと覚えていた。すると数年後の去年、∀KIKOの展覧会でまさにその絵が展示されていて私は何の迷いもなくその絵を買ったのよ。」それは、私のライフワークのひとつ「RED DATA ANIMALS」の2匹のサルの絵で、現在アメリカで製作中のデーナのニューアルバムのジャケットに使用されることになっている。そんなことで、どうやら私たちは出会うべくして出会ったようだ。ショーの当日もデーナは「ありがとう」を連発していた。「初めて会った時からこの日を夢見ていたの。」と微笑んで。彼女の歌を生でまともに聴いたのは初めてだったが、私は度肝を抜かれてしまった。多分そんなお客さんも多かっただろう。体じゅうから溢れ出すエネルギー。そして愛。ソウルフルという言葉はまさにこのことなのだと初めて体感した日だった。彼女にとっては一瞬一瞬が音楽であるという。自分は歌うために地球に生まれてきたのだとも。そして彼女は言った。「∀KIKOとは古ーい古ーい魂の友だった。どうか思い出して。今生でしばらくぶりにやっと会えたのよ。私にはそのことがとにかく嬉しいの!」と。私たちは互いの目を見つめあって、心の底からハグを交わした。何かが確実に動き出した夜だった。あの場に居合わせた人たちと共有できたことを幸せに想う。

ショーの終了の3日後、デーナは用事があって生まれ故郷のニューヨークへと旅立った。「もちろん∀KIKOとNYでやるためのプレゼンをするつもりよ。」とウインクをして。


_ 2008.08.16_>>>_満月

「WATER GREEN」

8/10に埼玉県の越谷に新しくできた街「越谷レイクタウン」の公園で開催された環境祭に参加した。

その祭りの名は「WATER GREEN」。オーガナイザーの「米原草太」は現在22才。私がこのイベントに参加することになったきっかけはそもそも彼との出会いからだった。昨年の7月7日に草太が越谷からはるばる東京のカフェ・スローまでmy箸を買いにきて用が澄んだので帰ろうとしたら、スタッフに2階のギャラリーを勧められ「じゃあ、ついでに覗いていこう」くらいの軽い気持ちで階段を登ってきた。その時、丁度私は展示会で上にいたので「初めまして」となったのである。「わぁーっ。すげーっ」彼は絵に感動してくれ、水の音のCDが付いた絵本「wor un nociw」をすぐに購入した。「あれっ。オレこれから代々木公園まで行こうとしてるのに何で荷物増やしてんだろ?ははは」「何かおもしろい子」私は思った。「いやーっ。∀KIKOさんの絵を外で見れたらすげぇいいだろうなー。木がたくさんあるところでさー。子供達もたくさんいて…」急に草太が語り出した。「実はオレ。未来に生きる子供達のために、環境祭をやりたいと思ってるんだ。まだオレの頭の中だけの思いなんだけど、つい∀KIKOさんの絵見てたらイメージが浮かんじゃってさ。もしもそのイベントが現実になる時がきたら∀KIKOさんの絵をスタッフTシャツにしてもいい?そして作品の展示をしてくれる?」「いいよ。その志が本気ならもちろん応援するよ。夢を形にするために頑張ってね」「やったーっ。頑張るぞーっ!」

翌月の「ござれ」に草太はさっそくやって来た。「実はね。あれからオレがやろうとしてるイベントの主旨に賛同してくれる仲間がちらほらと現われてさ、何と少しずつ現実に向けて動き出したんだよ。で、今日は正式にTシャツの絵を依頼しにきたんだ。」あの時から草太は一念発起してイベントでトークやライブをやってくれる出演者や出展して欲しい団体など、自分が直感でいい!と思った人達に直接連絡を取り参加の依頼をしているとのことだった。開催場所も越谷市役所に出向き公園を利用させてもらえることになったそうだ。「地球の環境と子供の未来のことをもっとみんなに考えてもらいたい!」ただその思いだけで自費で100万円を資金として使うつもりだと言った。

それから数カ月が経って今年の4月。横浜での展覧会に現われた草太は「WATERGREEN」と書かれた旗をハタハタとはためかせて越谷から電車に揺られてやってきた。もうこの時には、草太の夢に突き動かされてスタッフとなった若者たちも増え、出演者やブース出展者の数も複数に登り、ほぼ全体像が見えてきていた。しみじみ考えると本当に凄いことだなと思った。たった一人の若者の心に浮かんだ思いと行動がこれだけ多くの人々をひとつの目的のために集結させたのだ。草太は言った。「でもねー。この数カ月間に、ほんと苦しいなー。もうやめようかなーって思った時期も実はあったんだ。ちっぽけな一人の人間が今さら世の中を変えられるわけないじゃん!という声もあったりして、すっげえ落ち込んだ時もあったんだよ。でも、まだオレの頭の中だけのイメージだった時に最初に出会った人が∀KIKOさんで「自分を信じて光りへ進め!」って言われたじゃん?だからオレ頑張ったよ。色んなネガティブな思いに惑わされそうになったけどなんとか頑張れたんだ。実はオレがまだ子供だった頃、お母んの意識が急に変わって都会の生活からいきなり越谷に引っ越して突然、自然や農のある暮しが始まった時、その頃の自分にはお母んの考えが理解できなくてかなり反発したんだ。でも、そのお母んが亡くなって、今やっと理解することができている。お母んは正しかったって…。∀KIKOさんはオレのお母んだよーっ!」草太が泣いていた。私はただ彼をハグしていた。

イベント当日。雨の予報も出ていたにも関わらず一度も降られることはなかった。ふたが開いてみると、顔なじみの面子がずらりと並んでいるではないか。「イベントをやるということは大変なことだよ。ましてや初めてなのに草太はなかなか大した奴だね。」秋に「第2回平和と土の祭典」を日比谷公園で予定しているトージバの代表、神澤さんが言った。「なんか、ゆるーいイベントでいいねぇー」そんな声が周りから聞こえてきた。いつものように散歩に来た付近の住民の方たちが「今日はいったい何の催しなの?」と日常の延長線上で環境問題についての情報に関心を寄せている。1本のケヤキの木をブースとして与えられた私は、その周りに草太から依頼された「RED DATA ANIMALS」の動物達の絵を置いたのだが、どう見ても中学生や高校生といったティーンエイジャー達が自分の携帯でバシバシと夢中になって絵を写真に撮っている姿を芝生に座りながら見ていて「いいねぇー。この光景。平和だねぇー」と思わずにやけてしまうのだった。開催中、何度も一番忙しいくせに草太がすごい勢いで走ってきては「はーい。∀KIKOちゃーん。ありがとーっ!」と言ってすぐさま去って行く。「ん?さんがちゃんになってる!」喜びを体全体で表現していた素直な草太の笑顔が周りのみんなに伝染していった。

まずは初めの第一歩。輝いていた息子の姿をきっとホントのお母んも喜んでいたね。


_ 2008.08.01_>>>_新月

「勉強するひと」

毎年恒例になった帰省の旅へとでかけてきた。

高尾を出発してまずは青森にいるnociwの姉妹、セロンのもとへ。1年振りに会う2人。さすがにもう3才になって、以前のようにはプロレスごっこをしなくなった。でもお互い繊細ながらも気の合う様子で遊んでいる。飼い主たちもホッと胸を撫で下ろして微笑みあった。そんなセロンの飼い主、孝さんと弥生さん夫婦。孝さんは現在、高校の英語教師だが近い将来、弥生さんとともに暮していたことのあるバーモントの大学へ博士号を取って教授として戻ろうとしていた。そして弥生さんは、かつての幼稚園での英語教師から同時通訳者への道を歩むことを決心して今、勉強しているところなのだと言った。「もっと自分の可能性を広げたくなったの。今、30代の後半にさしかかって人生の半分は生きていることに気づいた時、あとの半分をどう生きるかを真剣に考えてみたくなって。」彼らがもう一度自分の生き方を見つめ直そうと思ったきっかけは、山形に暮す冒険家「大場満郎」氏の本との出会いと、講演を聞きに行ったことが大きかったそうだ。「やらない人はやらない理由を探してるだけ!」その言葉に孝さんも大いに納得して本気でやる気になったのだという。2人はこれからともに勉強のために2年間は東京に住みながら学校に通うとのことだった。何せ2人が目指す世界は相当に難しい試験を突破しなければならないそうなのだ。「もう、来年からはここに寄れないのだなー」という淋しさはあったが、2人の瞳が輝いて、とても生き生きしていたので嬉しさの方が勝ってしまった。

北海道に上陸して妹、フミが夫のヒロさんと暮す札幌の山の上の家で世話になった。このヒロさんもまた今年の4月から学生として勉強を始めた熱い40代だった。その学校は樹木医になるための専門学校で、以前から公園で樹に触れる仕事をしてきて、その世界の深さにどんどん魅了されていったようなのだ。それでいながら実はトランスミュージックの作曲者でありDJでもある。「樹木医のDJが1人くらいいたっていいかなと思ってさ。だって森のことを勉強しながら仕事ができるんだよ。それってすごいことだと思わない?」確かに素敵なことだ。学校では、もしかしたら自分の息子であってもおかしくないくらいの年令の友達と肩を並べ、ともに勉強に励む。色んな所から集まってきた若者たちは、みな樹が好きで来ているだけあって心のピュアな人達ばかりで、毎日が楽しくてたまらないとヒロさんは言った。だが樹木医というのも、これまた資格を取るには相当に難しい試験が待っているらしく学校の授業科目も13科目もあり、本当に休む暇なしという日々のようだった。そして妹のフミも現在はヘルパーとして病院で働いているのだが、そんなヒロさんに勇気付けられたのか介護師の資格を取るために勉強しようという気になり、先日試験勉強のための分厚い本を買ってきたのだという。そういえば母屋の隣に住む優子もフミと同じ仕事をしていて、やっぱり資格を取るために来年からは勉強体制に入ると宣言していたっけ…。みんなに共通するのは勇気と情熱。そして心の火を絶やさずに持ち続けられる強さだなぁと思った。

勉強したいと思ったその時からが本当の勉強。それは幾つになってからでも始められるのだ。


_ 2008.07.18_>>>_満月

「心」

黒人の女性シンガー「デナ・ハンチャード」とのコラボレーションコンサートのために絵を描いている。

9/25(木)に表参道にあるカワイのコンサート・ホール「パウゼ」にて行われるそのコンサートのテーマは「心」。デナの希望だ。ジャマイカ人の両親を持ちニューヨークで育った彼女はバロック音楽に惹かれミュージシャンになった。天性の音楽的才能はニューヨークで花開きオペラ歌手としてアメリカ、ヨーロッパ、メキシコなどで好評を博したのちジャズシンガーとしてニューヨークのジャズクラブで活躍。そして9.11が起こり、日本の音楽院である洗足学園から音楽講師として招聘され、家族で移住してきたのだった。彼女は学園のそばに暮していて、その学園の向かいにはフィオーレの森があり、その森の中には私のギャラリー「nociw」があった。移住してきてすぐに散歩がてらフィオーレの森にふらっときて、たまたま2階にあったギャラリー「nociw」に足を踏み入れた彼女。「ワァーオ!イッツ、ソービューティフル!」それがデナとの最初の出会いだった。

当時の彼女は日本語をほとんど話せず、私も英語をほとんど話せるわけではないのでお互い身ぶり手ぶりの感覚だけで会話していた。でも言葉以上のものが伝わってきてそれだけで十分だった。その日にすぐ、彼女は絵本「wor un nociw」を買っていって翌週に8才の息子「バスコ」を連れてやってきた。彼は頭が良く日本に来てすぐに日本語をマスターしてしまい、彼女の良き通訳者だと言っていた。そしてデナ同様、大のアート好きで私の絵本に感動し、会いたいといって来てくれたのだった。デナと同じ澄んだ美しい瞳を持ったバスコはnociwにいつも置いてあったお客さんのための自由帳に、いきなり絵本の中の鹿のキャラクター「ユック」をそっくりそのままに描き出し、覚え立てのきれいな日本語で言葉を添えてくれた。「きみのえはとてもうつくしい。ぼくもきみのようなえをかくひとになりたい」

出会ったのが2003年の暮れだったので、2004年の3月にギャラリーをクローズするまで、あっという間に時が過ぎてしまった。「ここは私のサンクチュアリだった。なくなるのはとてもとても淋しい…」デナはそう言ってくれた。「また会えるよ。今度は外で作品を発表していくからさ」彼女は都合がつく限り、個展に顔を出してくれた。感受性が強いあまり、会場で泣いている姿もあった。ある時は自分の新しいアルバムのジャケットの絵を私に依頼しようと思って個展にやって来て「自分が思い描いていたイメージがまさにこれそのものなの!」と信じられないという顔をしていきなり原画を買ってくれたこともあった。そして個展終了後、作品を引き取りに初めてアトリエを訪れた時に今回のコラボレーションの依頼を受けたのだ。「実は∀KIKOに初めて会った時から、いつかは一緒にやってみたいとずっと夢みていたの」彼女が日本に移り住んで4年の歳月がたった。普段は学園の講師を勤めながら「ブルーノート」や「コットン・クラブ」でジャズミュージシャンとしての活動を続ける彼女。でもその一方で日本の風土や人々に触れ彼女の中の何かが変わり始めていったという。なぜだか日本の民謡に強く惹かれるようになったというデナ。そして、彼女に新しい唄たちがおりてきた。その唄から私がインスピレーションを得て描きおろしている絵たち。そんな唄と絵のコラボレーションが今度のコンサートになる。会場を下見に行った時、担当の方が「たとえば、ステージにスクリーンを用意して絵を映像で流すこともできますよ」と提案すると、すぐにデナが言葉を遮り「必要ないです。∀KIKOの生の絵がそこにあるだけでいいですから」と言った。初めて見るその真剣な表情に彼女の深い思いを感じ、私は胸を打たれたのだった。それ依頼、彼女の情熱に応えるべく全身全霊をかけて制作に没頭してきた。こんな幸せな時間はない。神様からの最高の贈り物。私は描く。デナ・ハンチャードという一人の愛すべきミュージシャンのために。

そして、たった一人からつながっていくことのできるすべての心のために。


_ 2008.07.04_>>>_新月

「ANANDA」

母屋の隣に住んでいた「えいじ」と「まりこ」が奈良に引っ越して半年がたった。

隣にいた3年間も特に一緒に連れ立ってどこかに行くということはなく、たまにどっちかの家でご飯を食べたり、お互いの友達が来た時に中庭で火を焚いたりするくらいだった。でも、顔を合わせた時は決まって笑顔で挨拶をする空気のような存在。2人ともB型だったのでそれぞれがマイペースに自分のことに没頭していてこっちはとても気が楽だった。だから2人にとっての新天地が見つかって、引っ越しが決まってからもほとんど変わらない毎日を送り、荷作りを始めたのも前日になってからだったので「あぁー本当に明日引っ越すんだねぇー」とお互い実感が湧かないまま当日を迎えたのだった。でも別れ際にまりこが「あ、やばい。涙が出そう」と言った時、私も急に2人が隣にいなくなることが本当は「淋しいのだ」と感じたのだった。

2人のあとに移り住んでくる人達とは「きっと縁があるんだろうねぇー」とNOBUYAと私は話していた。するといつの間にか後釜にはなんとアトリエのそばに住んでいた「ゆうこ」と「たけお」がやってくることになっていた。どうやらえいじがたけおに話を通していたらしい。私達がえいじたちの隣に越してきてから、ほとんどボロ家同然の家を一度ぶち壊して自分達の手で作り上げていくのを見ていて、もともと手で物を作ることが好きだったえいじのハートに火がついて、入る時にちゃんと内装工事が入ってそれなりにきれいだった彼らの家にまでもさまざまな変化が起こっていったのだった。私達が薪ストーブを取り付ける時も手伝いに来て「いいなー」とこぼしていたえいじにNOBUYAが「なんならそっちもやっちゃえば?」なんて冗談で言ったつもりが3日後には本当に2階の壁から煙突が突き出していて煙がもくもくと上がっていたのには私達も度胆を抜かれた。「あいつ本当にやりやがった!」それ以来私達はえいじが大好きになった。2階のベランダの冊を取り外し床部分を勝手に付け足して、広ーいバルコニーが登場した。そこに梯子をかけ母屋の勝手口から簡単に出入りすることができた。用はバカやってひたすら楽しんでいたのである。そんな風に勝手にあちこち手を加えてしまった家だから出る時に元どおりになんて当然する気もなく、このままの状態で住んでくれる人間が絶対に必要だったのである。そこでたけおとゆうこに白羽の矢がたったのだった。個性的な2人は逆に「このままがいいーっ!」と言ってくれる輩だった。

私達が高尾に移り住んでからほどなくして「この辺で物件を探したい」と訪ねてきてすぐに、アトリエのそばに越してきたゆうことたけお。しばらくして夫婦になったが、一度大喧嘩して「別れる」「別れない」の大騒動になったこともあった。仲間達みんなが集まってゆうことたけおの言い分をそれぞれ聞いてなだめて。その仲裁役を務めていたのがNOBUYAだった。「俺、こんなことなんかしたくないよー。疲れるだけだしー」と泣き言を言いながらも、一番熱くなっていたのは他でもない奴だった。(笑)あの事件は危機に陥った夫婦の状態を目の前で見て「あぁーうちも大した変わらないかもなー」と我が身を振り返るいい機会にもなったし、何よりあの場に居合わせた者達がいっそう強い絆で結ばれた気がしてとてもいい学びになったと今では思う。ゆうことたけおには確かに前より会うようになった。アトリエには絵を描きに行ってるので、nociwの散歩以外は外に出ることはないから、近くにいても会うタイミングがなかったのである。でも母屋には毎日帰るし、洗濯は外でやるし、お風呂も一旦外に出るので、なんかかしら顔を合わせる機会も増えたのだ。私は単純に嬉しい。こっちに越してきて部屋も少し広くなって、環境も少し田舎になって2人の心にもちょっとずつ余裕が出てきたようで前よりも断然いい顔をしている!たけおは目の前の川沿いに立つ竹林の整理を大家さんに仰せつかり喜々として毎日のように竹と戯れているし、ゆうこは3軒先の酒屋「越後屋」で女将さんを慕って集まってくる近隣のおじちゃん、おばちゃん達と今日も酒を酌み交わしている。それぞれの個性を認めあい、尊重しあって生きる共同体。隣に友が住んでいるという幸せは何にもかえがたいものだ。

つい先日、まりこが奈良に越してから初めて電話がかかってきた。「急なんだけどね、8月か9月にうちの店で∀KIKOの展示会やらない?」「ANANDA」梵語で至福という名のその店には、まりこの焼く天然酵母のパンとまりこが友達になった聖子ちゃんが焼くお菓子が売られているという。かつてまりこが「私、パンを焼いてみようと思って」と突然始めたパン作り。あれよあれよという間にみるみる腕を上げ「まりこ天才だよー!」と私達の舌をうならせるまでになった。そして「いつかは気に入った土地に根を下ろして自分のパン屋をやりたいんだー」と夢を語るようになってから彼女はどんどん輝いていったのだった。奈良で開業したパン屋が順調であるという話を風の便りで知って私達はとても嬉しく思っていた。別れる時「離れることでこれからはもっと近くなれる気がする。私達は∀KIKOが展示会をやるという口実でいつでもこっちに来られるように場所を創っておくからねー」と言って去って行った2人。そして本当にこうして久々の声を聞いた。

「用は会いたいってことだけどね」受話器の向こうで微笑むまりこの顔が見えた。


_ 2008.06.19_>>>_満月

「いのりのかたち」

7月7日に「BOHEME」主催のイベント「七夕まつり」が下高井戸の高井戸倶楽部で行われることになった。

それはある日のこと。突然、BOHEMEのリーダー「山中裕二」がNOBUYAに電話をかけてきて言った「どうしてもすぐに会って話したいことがあるんです。近々会う時間を作ってくれませんか?」NOBUYAは了解し、数日後我が家へ来ることになった。「それにしても珍しいな。あいつが突然やって来るなんて」確かにそうだった。彼は何ごとにも用意周到な計画を立て予定はあらかじめきちんと決めておかなければ気が済まないタイプの人間で、家に遊びに来る時も大抵は3ヶ月前から予約を入れてくるのだった。「まぁ、あいつにしちゃあよっぽどのことがあるんだろう…」私達はうなずき合った。

彼がやってきた用件というのがこの7月7日のことだった。裕二は以前からこの高井戸倶楽部という箱を知っていて、スペースとスタッフの気持ち良さが気に入って「いつか、ここでイベントをやってみたいなぁ」と思っていたんだそうだ。そしてある日、いつものように朝ランニングをして土地の神社にお参りして朝日を拝んでいたら「ふっ」と閃いたのだという。「7月7日という数字と高井戸倶楽部とNOBU兄の顔が浮かんできて消えなかったんです。だから直感に従って、この日にここでNOBU兄のプロデュースでBOHEMEのイベントができないかと思って相談に来ました」そんな依頼は初めてだった。いつもはBOHEMEプロデュースのイベントにNOBUYAがDJとして参加するだけだったからだ。しかもイベントのメインは「高橋歩」さんという自由人のトークショウにしたいと言う。裕二にとって尊敬する存在だからというが、私達はまったく彼を知らなかったので「とりあえず、彼のHPや本やビデオを見てから判断してもいい?」とNOBUYAは答えた。それから彼も真剣に考えて「直接会ってないからなんとも言えないけど、少なくとも彼の言ってることややってる表現には共感できるから、この話引き受けるよ」と裕二に伝えた。何よりも裕二がすべて直感で動いたという部分を重く見たのだという。すると今度はNOBUYAに閃きがきた。歩さんがみんなで田植えをしているというエピソードと「サヨコオトナラ」が田植えに参加しているという話が彼の中で映像となって実を結んだのだ。「そうだ。バンドはサヨコオトナラにしよう。トークの前にライブがあって、その前に俺がDJで場を創る」早速、サヨコにメールでスケジュールを聞いてみると、サヨコと奈良ちゃんは空いていたが、OTOちゃんは予定が入っていた。それなのに内容を伝えるとなんとOTOちゃんは歩さんを知っていて、以前から会ってみたいと思っていたというのだ。それで、なんとか都合をつけて出演してくれることになった。すると、そのことを歩さんのオフィスに伝えると向こうも「サヨコオトナラ」に興味を持っていていつかオファーをかけたいなと思っていたのだという。つまり相思相愛だったのだ。NOBUYAの直感と裕二の直感は正しかった。

この日のテーマを七夕にちなんで「祈りのかたち」にしたいとNOBUYAがある日つぶやいた。その言葉は2005年のWPPD「世界平和と祈り」のセレモニーのテーマに主催者のよしえちゃんがつけた言葉と一緒だった。そのことを伝えると彼は驚いて言った「わぁーそうだったんだ。一緒になっちゃうけど、でもこれも湧いてきた言葉だからな…」「それでいいんだよ。つまりこれは大切な言霊ということだよ!」

私達は中学の卒業式にNOBUYAに告白されてから25年の付き合いになるが、その当時から私の好きなことは絵を描くことでNOBUYAは音楽だった。彼はギターやドラムを演奏したり歌ったり、バンドとソロでの活動に夢中になっていた。東京に出てきたのももちろんミュージシャンになるためだった。でもそんなことを言おうものならオヤジに大反対されるような家庭だったので美容師になるという名目で北海道をあとにしてきたのだ。夢を抱いていざ、東京に出てきたがそうそう現実は確かに甘くなかった。それでも音楽無しでは生きていけず、彼にとっていつも一番身近にある存在だった。好きで始めたわけではない美容師も何度も辞めようとしたが、彼が独立して始めた病院への出張カットで寝たきりのご老人や精神病で入院している患者さんの髪を切るという行為の中から美容に対しての「本当のやりがい」というものを見い出していき、今もその仕事を続けている。そして20代の前半に出会ったDJというスタイルに自分が一番しっくりくるという発見をしてからは水をえた魚のように自分自身を生き生きと表現し出した。そしていつの頃からか彼はひとつの夢を描き始める。「自分のレーベルを立ち上げて周りにいるたくさんの才能あるアーティスト達を世界に発表していきたい。それは音楽に限らずあらゆるジャンルのもの。尊敬するお百姓さんや偉大な知恵を持つお婆ちゃんとかも…」彼らの普段の暮しを映像に撮ってその生きざまを未来の大人達と共有したいのだと熱く語る。彼にDJが向いているように、色んな人と人とのミックスの才能が彼にはあると私は思っている。それを長年の付き合いになる裕二も直感で感じとってくれていたのだろう。今回の七夕まつりはそういう意味でもNOBUYAにとって大切な一歩になるだろうと思う。これは神様から「やりなさい」と与えられたものなのだ。

この場がシャンティであるように喜びを持って参加することが妻としての私の役目である


_ 2008.06.03_>>>_新月

「soul mate」

ARATAが新しくデザインを手掛けるブランド「ELNEST」の展示会に行ってきた。

久しぶりの渋谷だ。めったに高尾を出ることはない私にとっては、かなり思いきりのいる行動である。お知らせのカードが送られてきて「おぉーやるんだー」と思って、初日には「今日からだな」と思い、最終日には「ご苦労さん」と思ってきた、かつてのREVOLVERの展示会。最初の頃はちゃんと行っていたのだが、あの場の妙な緊張感みたいなものが私とNOBUYAには場違いな気がして落ち着かなかったのである。だが、今回は新しいARATAの表現ということもあって「ちょっと、行ってみようか?」なんて話を二人でしていたところに、めずらしく彼から電話がかかってきた。「∀KIKOさん。僕、今展示会やってるんですよ」「うん。知ってるよ。どう?調子は」「今、絶好調だよ」「おぉーっ。それはよかった。有意義な人生だね」「うん。僕もそう思ってる…っていうか、∀KIKOさん、たまにはこっちに下りてきてよ!」「ははは…」「今回の会場はね、ギャラリーで壁の一面が真っ白でそこに自由に誰でもが絵を描けるようにしてあるんだ…」

会場はとても分かりにくかった。古いビルの4階。階段を登っていく途中の階には焼き鳥屋やジャン荘などがあって、ちょっといかがわしげな雰囲気が漂っていた。「なんか懐かしくていいいねー」NOBUYAが言う。4階まで着くと入口の小さなギャラリーでは多摩美の学生たちが四人展をやっていた。いきなりギャラリーだ。これなら私も違和感なく入っていけた。奥にはカフェもある。もうひとつのスペースでELNESTの展示会は行われていた。「∀KIKOさん!NOBUYAさん!」ARATAがハグをしてきた。本当に元気そうだった。しかも前より素になっている。嬉しかった。そんな、楽しんでる奴の顔が見れて。

ARATAは何を隠そう私を世に出してくれた人だ。恩人である。十年前、彼がまだモデルだった頃に「Simple Side.」を友達から贈られて感動し、雑誌などで紹介してくれていた。その話を私は人から聞き、「ありがたいな」と思っていた。そんなある日、私達は共通の友達、美容室「MO」の友美と竜馬の家で遭遇することになる。初めて出会ったARATAは何故だかとても懐かしく感じた。「初めまして。Simple Side.のファンのARATAです…」「絵描いてます。∀KIKOです」その時私は「Simple Side.」を描いた後に自然に現れてきた、ラインの中に模様が描かれた絵をファイルに入れて持ち歩いていたのでそれを彼に見せた。「こ、これはっ….」あまりにも彼が感動した様子だったので、私は感謝の気持ちを込めて「好きなのをどれか一枚あげるよ」と言った。「ええっ!でもこれオリジナルですよね?」ARATAは驚いていたが、しっかりと一枚を選び、笑顔でみんなに言った。「ね、ね、ご飯食べに行かない?」話をしてみると、その頃私が住んでいた高幡不動にその頃のARATAの実家がとても近いというのを知って互いに驚いた。そして私はちょうど高幡不動尊で「ござれ市」を始めたばかりだったので、その事を伝えると「じゃ今度、日曜日に実家に帰る時に行きますね」と奴は言ったのだった。私は「まぁ、社交辞令だろう」ぐらいにしか思っていなかったのだが、次の「ござれ」の時にほんとにやって来たのである。「昨日実家に泊まったんです。よかったら今晩二人のお家にお邪魔させてもらってもいいですか?」それは秋で、さんまを焼いて食べた気がする。結局、その日は家に泊まって、その何日か後の満月の時に初めて電話がかかってきた。「今日、満月を一緒に見させてもらっていいですか?」あの日のことは今でも忘れない。家のベランダに出て満月が登ってきてから消えるまで、ほとんど何もしゃべらずにただ「じーっ」と空を見ていた。夜が明けてきてブルーとオレンジの静寂な世界がしだいに辺りを照らし出すまで。

で、その年の暮れに私の初めての個展が国立で開かれて、REVOLVERを立ち上げたばかりのARATAとKIRIが職場の裏原宿からスタッフを引き連れてタクシーで駆け付けてくれたのだった。それが出会って四度目。ジーンと胸が熱くなるくらい嬉しかった。そして年明け早々に「実は大事な話があるんです」と家までやってきた出会って五度目の時に「∀KIKOさんの絵を世の中の人々に知ってもらうための場所を創りたいんです」と言ってきたのだった。しかも土下座までして…。その状態の時にNOBUYAが外から帰ってきたもんだからビックリ仰天して「ARATAいったい何やってんの?」となって「実はこれこれしかじかで…」と彼が説明したら、深くうなずいていたNOBUYAが「∀KIKO。これは神様からの贈り物だよ。断る理由はどこにもないんじゃない?」となってありがたく受け入れることにしたのである。ギャラリー「nociw」の誕生だ。当初の契約は二年だった。でもその二年はあっという間に過ぎARATAが「もう、二年だけ!」と言ってくれ結局、四年間もサポートし続けてくれたのだった。言わずもがな、今の私があるのはこのギャラリー「nociw」のお陰である。「僕はこのためにモデルになったんだと思います」「どうして 出会ったばかりの赤の他人にこんなことができるの?」「大好きだから…」ARATAとはある意味、言葉にならないというか言葉がいらない感覚になれる時がある。でも「nociw」がクローズした時、お店にいつも置いてあったノートをめくると最後に彼の言葉が記されていた。「∀KIKOさん。これは、終わりじゃないから。始まりだからね…」

あれから四年。私にもARATAにも色んな出来事があった。でも、今もこうしてお互い自分を表現して生きている。私が嬉しかったのはARATAが絵を描き始めていたことだ。今回の展示会のDMも自分で描いた絵を版画風に仕立て一枚一枚ゴム印で押したものだった。会場の例の白い壁には彼がステンシルを使ってスプレーで吹きかけたふくろうの姿があった。「∀KIKOさんのふくろうも加えて欲しいな」ARATAのリクエストに応えて用意されたカラフルなペンと色鉛筆という普段は手にしない画材を持って描き始めた。なんだか刺激的でとてもワクワクした。そのうち夢中になって次から次へといろんなものを描いていた。ふと見ると隣でARATAも色鉛筆を持ち夢中になって何か描いている。私は出会った時、彼が言ったことを思い出していた。「きっとあっという間に∀KIKOさんが40で僕が30~?になってますよ!その時はひょっとして隣にいるかもしれません」まさにそれが今だった。ARATAがこっちを向いて言った「どう?こんな展示会だったら∀AKIKOさんいれるでしょ?」まんまと乗せられてしまったというわけだ。彼は今、デザインの他にたまに映画の俳優業もこなしている。近々公開になるという出演した映画のフライヤーを渡された。「20世紀少年」「えぇーっ。よくこの話を映画にできたねー。すげーっ!」と興奮するNOBUYAだったが、私は原作のマンガを読んでいないので全然ついていけなかった。あしからず。(笑)とにもかくにもなんかホッとした出来事だった。

「ARATA!がんばろうぜ!」


_ 2008.05.20_>>>_満月

「now here」

個展のたびごとに新しい出会いが訪れるが、今回もまた不思議な縁を感じる人間と遭遇することになった。

その人は展覧会の会場となった大倉山記念館のギャラリーの回廊をゆっくりと、作品をとても丁寧に味わいながら歩いていた。ひと回りして戻ってきてプライス表をパラパラとめくり、近づいてきて私に言った。「∀KIKOさんですか?作品を購入したいのですが…」

彼女の名は「宥海」。フォトグラファーだった。初対面だった彼女にこの展覧会をなにで知ったのかと聞くと、息子を産んだ時に出産祝いで私の本を友達から贈られたのだと言った。「CD付きのこの絵本です。世の中にこんなピュアなものがあったのかと感動しました。それで∀KIKOさんのHPを見てタイミングよくこの展覧会を知ったんです。実は息子を産む前は私、完全な商業写真家でヒョウ柄のライダースジャケットにサングラスをかけて車で都会を疾走しているようなタイプの人間だったんです。自然に目を向けることもありませんでした。ところが彼を身ごもったとたん、世界観が180度変わってしまって…。それで突然気づいたんです。自分は感謝の気持ちを忘れていたって…」どう見てもその時目の前にいた彼女は、とてもナチュラルな人にしか私には見えなかった。「彼が体内にいる時、私は断食をさせられたんです。本当に1日トマト1個という日もありました。でもそのお陰で意識がとてもクリアになって、自分が今いる世界というものを新鮮な驚きをもって見渡すことができたんです。出産後、ライフスタイルも完全に変わりました。もちろんかつてはあまり気にすることのなかった食生活も…。息子は私の内側を掃除してこの世に出てきて、今、一生懸命に外側の掃除をしてくれているように思います」彼女は今、インドのアーユルベーダの食養法を学びながら息子や自分達の体を作る食物の重要さを実感しているという。

そんな流れの中で宥海は沖縄の久高島に呼ばれる。「きっかけは息子の具合が悪い時に、知人から頂いた薬でした。それは久高島で古来から守られてきた技法によって作られる海蛇からできる薬だったのです。今の日本にそんなものがあったのかと驚き、とにかく行ってみようという衝動にかられました」久高島。その島の名はことあるごとに耳にしていた響きだった。そして人からは決まって「∀KIKOは行くべき場所だよ」という声を聞いていたのである。私も本などを読んで「あぁ。いつか自分も行く時がくるのかもしれないなぁ」と漠然とは思っていた…。私達は別れ際ハグを交わした。「これからもよろしく」「あれっ、今、言葉の方が勝手に出ちゃいました。すみません…」宥海は笑った。

その日は彼女との出会いが印象的だったので、家に帰ってNOBUYAに出来事の一部始終を話すと「そろそろお前も久高に行く時がきたんじゃない?いいよ。行ってきても」という言葉が返ってきた。まさか奴がそんなことを簡単に言うとは思ってもみなかったので、驚いた。と同時に「あぁ、今なんだ」と確信したのである。なぜなら口にした途端、無性に惹かれてる気がしてならなかったからだ。「わかった。私、行ってくるね。ありがとう」「あぁ。いつかは行くと思ってたよ。でも、あそこは女性の島だ。俺は行こうとは思わないから…」そう、あの島の神は「母神」であるという。命を生み出す女性こそが最も尊いとされてきた場所なのであった。

宥海が購入した作品を引き取りにアトリエまでやってきた。メールで久高に行こうと思っていることを伝えていたので、彼女は色々と島の話を聞かせてくれた。私達は地図を広げ指差しながら、あれやこれやと話が弾んだ。そうしているうちに私の口からふいに「一緒に行く?」という言葉が出てきた。「えっ。いいんですか…」「実は私の中で、今月か来月には再び行こうと決めていたんです。どうしてももう一度行かなければならないという思いが湧き起こっていて、でも何故だか今一歩踏み切れないでいたんです。∀KIKOさんが行くと知って、いいなぁーと思っていて…、でも今の言葉ですごくスッキリしました。あぁ、こういうことだったのかと(笑)」すぐに私達は一緒に行く計画を立て、彼女の息子も交えて三人の旅となることになった。「出会って二度目とはとても思えません」宥海が言った。私も同感である。私の絵は十年前、突然モノクロの世界になり、そこから本当の自分の表現の世界が始まった。彼女もまた、出産後初めて撮りたいと思った写真が沖縄の森で、その時からなぜかモノクロの世界になっていったという。そして初めて一人のフォトグラファーとしての世界がスタートした。カメラもそれまでのデジタルからアナログに変わり、プリントさえも手刷りになってしまったという話を聞いた時、絵と写真の違いはあれ、今に至る行程がどこか似ているような気がした。「now here」アトリエの窓に貼ってある言葉を指差して宥海が言った。「私も部屋にnow hereと貼ってあるんです…」「わぁそうなんだ。ねぇ、知ってた?now hereをつなげると nowhereになるんだよ」

「”今ここ”は”どこでもない”…」私達は顔を見合わせて笑った。


_ 2008.05.05_>>>_新月

「虔十の会」

四月のある日、サヨコオトナラのサヨコから電話がかかってきた。「今、高尾にいるんだけど来れないかなと思って…」

場所は圏央道開通のために高尾山に穴を開けるトンネル工事の現場だった。ここに以前からこのトンネル工事に対して疑問を抱き、一般の人々に高尾山の気持ち良さを知ってもらいながら、山に穴を開けるということがいったい何を意味するのかということを一緒に考えるために「坂本さん」という女性が起こした「エコアクション虔十の会」が作った座り込みをするための場所があったのだ。サヨコも最近坂本さんと出会い、虔十の会のイベントで歌ったりしていたようで、この日、娘のアリワとサヨコオトナラファミリーの梅ちゃんと一緒に初めて現場を訪れて坂本さんと話していたら、私のことが話題に出たので、だったら今呼んでみようとサヨコが電話をしてきたということだった。

虔十の会のことは私も知っていた。裏高尾に彼らが作ったツリーハウスで3月にサヨコオトナラのオトちゃんがライブをやるからと電話してきたのだ。その時は丁度八王子市の市長選挙の真只中で、候補者の一人に長年に渡り高尾の山を愛し、トンネル工事に反対し続けてきた「橋本」さんという方がいて、その人を応援するためのものだった。私は以前からツリーハウスがあるということも聞いてはいたが、訪れたのはその時が初めてだった。夜だったが、山の下から坂道を登ってツリーハウスに辿り着くまでの道のりがローソクの炎で灯されてきれいだった。その日はとても寒い日だったが、思ったよりも人が集まっていた。元気に駆け回る子供たちの姿もちらほら見えた。木の上に作られたツリーハウスはおもしろかった。森の木々に囲まれた特設ライブステージも。前方で坂本さんがみんなに話している。私は遠巻きに眺めながら、代表者が女性でしかもとてもユーモアのある人だったことに驚き、そしてちょっぴり嬉しかった。坂本さんは、まず私達を囲んで立っている木々の名前、高尾の山は昔から修験道として人々に愛されてきた霊山であること。水が豊かで山にある滝では滝行が行われているが、トンネルの工事が始まってから枯れてきていることなどを話していた。「これらのみんなに伝えたいことを、やぶから棒に反対!と言ってがなりたてるのではなく、音楽などを通してこの山で楽しい時間を過してもらうことによって一人一人の中に自然に意識が芽生えていってくれたらいいなーと思ってここにツリーハウスを作りました….」その後にオトちゃんと小池さんの「ムビラトロン」のライブが始まったのだが、一緒に来ていたnociwが山の中で繋がれていることに我慢がならなくなって帰ると言い出したので、オトちゃんに挨拶もせずに帰ってきてしまったのだ。

それからしばらくして、朝、母屋からアトリエまでnociwを連れて向かう途中で、山道を1時間半ほど歩いて一旦、甲州街道に出てきた時、道路の目の前をカフェ・スローのマミーがスタッフの女性と歩いているのに出くわした。「わぁぁー∀KIKOさん。僕いま、高尾に着いてしまってから、そうだ∀KIKOさんに連絡しとけばよかったなーって思ってたとこだったんですよ。滅多にないことなんで…」マミーがいた理由は、3月25日に新たに掘られるトンネル工事に反対するために座り込みに来たということだった。「これからスローの方でも虔十の会と協力しあってこの問題に積極的に関わっていこうとしているところなんです。まずは自分でその現場を見ておきたいと思って…」その時はそこで別れた。そして25日がやってきて、26日。新たな工事が決行されたのである。その同じ日、それ以前に既に工事が始まっていたトンネルに亀裂が走り、崩れ落ちてくるという事故が起こった。怪我人がでなかったことが何よりの幸いだった。それから間もなくしてのサヨコからの電話だったのである。

「はじめまして∀KIKOさん。坂本です。実はここ最近、色んな所で高尾には∀KIKOっていう絵描きがいるでしょ?と聞かれてたんですけど、私もまだ会ってないんですよーって皆さんに言っていて、でも、あぁーやっと会えましたね。やったぁー。嬉しいなー!」坂本さんはあの時感じたとおり、とても気さくで明るい人だった。彼女はもともと三鷹に住んでいて本業は古本屋だと言った。高尾山は昔から大好きでちょくちょく自分自身を癒すために登りにきていたそうだ。そして数年前、トンネル工事の開発が一方的に進んでいるという事実を知り、いてもたってもいられなくなって「このままじゃいけない!誰かがアクションを起こさなければ。よし。自分でやろう!」と意を決して虔十の会を立ち上げたのだった。いざ、始めてみると自分が立ち向かっている存在が如何に巨大なものであるかということを知り、そっちの活動の方で超多忙になってしまったため店鋪を締め、古本屋としては年に数回行われる古本市への出店のみになってしまったという。4年前、住居も高尾に移した。でも八王子に借りてる本屋のための倉庫にコンピューター関係のもろもろが揃っていて、活動に対する全国からの励ましのメールや問い合わせの対応に明け暮れる日々になってしまったのでしばらく家にも帰っていないとのことだった。「でもねー。この活動が苦しいと思ったことはないんですよ。むしろすごく楽しみながらやっていきたくてね。そうじゃないと続けられないし、本当の山の良さみたいなものを伝えられないと思ってるから…。だってね、単純にこうして木々に囲まれた山の中にいるだけで落ち着くじゃない?」実際、現場に建てられた座り込みの場はツリーハウスさながらに宙にあって梯子を登って辿り着くと、そこにはコタツがあり、中に昔懐かしい豆炭を入れて暖をとっていた。簡単な流しやガスコンロもあってちょっとしたキャンプ気分だ。「床が地面についていると建築物とみなされて法に触れるんですけど、こうやって宙に浮いていると適応できないんですよね。それにもともとここは古くには地図にも載っていないようなところで、土地の者の誰の許可もなく勝手に線引きをして強行しているものだから向こうも下手には出られないんですよ」たくましい…。あっぱれである。

山は掘ると水が湧き出してくるという。それだけ山の中は水脈だらけなんだそうだ。溢れ出てくる水をポンプで吸い上げて外に出しながらの山にトンネルを掘る作業というのは、だから海底工事並みの難しさと必要以上の日数と巨額の費用がかかってくるという。そんなにトンネルを作りたければ、山に穴を開けるよりも山を迂回して新たに築く方がよっぽどリスクは少なくて済むという見解がある。それは周知の事実でもあるのにそういう方向に行かないのはいったい何故なのだろう?

山を歩くということは、水の上を歩くということだった。山の水によって、ここに暮す全ての生き物たちと私達人間の命はつながっていたのだ。


_ 2008.03.09_>>>_新月

「ピースボール」

屋久島に住んでいる友達が遊びにきた。

彼の名は「直哉」。もともとはギャラリー「nociw」時代のファンで、そのまたもともとは、nociw時代のファンから今は家族のような間柄になった「ゆういちろう」と直哉がインドを旅している時に出会い、東京で再会した時にゆういちろうの部屋で私の画集を見て直哉がたちまち反応して、ギャラリーまで来てくれたのが彼との最初の出会いだった。その時ちょうどギャラリーでは「wor un nociw」の個展の開催中で、直哉は初めて原画を見るなり「欲しい」と言って、自分だけでは選べないからこの次奥さんを連れてくると言い残して去っていった。そして数日後本当に奥さんの「たかえ」を連れてきた。彼女も絵を描いていたそうで、かなり感じ入ってくれている様子だった。そして時間をかけてじっくり絵を見たあとに二人が選んだ絵は同じだった。「これから二人で屋久島に移住しようと思っているんです。この絵を連れて行きますね」それは森の中で鳥が羽ばたいている絵だった。

その日以来私達は会っていなかったから、なんと5年振りの再会になった。でもその間、直哉は毎年かかさずの年賀状と時折送ってきてくれるメールで屋久島での近況や私の活動に対する励ましの言葉をかけ続けてくれた。だから、たった二度しか会ってなくて会話もそんなにしたわけじゃなかったのに、直哉は屋久島の友として私の中に完全にインプットされていったのである。家に来たいと突然連絡をもらって駅まで迎えに行った時、大きな荷物を背負ってボーッと立ち尽くしている姿の直哉を見て「あれっ。こういう人だったっけ?」と自分の中の記憶を辿っていた。「いや。違う。全然違う」屋久島の森で過した5年という歳月が、直哉をすっかり人間のエゴの世界から引きずり出し、自然体そのままの本来の人間のあるべき姿へと変えていったのだろう。まるで植物のようなエネルギーを発していた。今回東京へ出てきたのは、たかえが二人目の子供を出産するために実家の静岡に帰省していて、直哉も立ち会うべくやってきたのだが、本番まではまだ時間があるので久々に東京の友達の所を点々として遊び歩いていたのである。そのせいか顔は真っ青で目の下にはクマができていた。「あまり寝ていないんです」直哉は儚げに笑った。

まずはご飯を食べさせた。「う、うまい。本当にありがたい。ありがたい」と何度も言いながらゆっくりとそしてもりもりと食べた。「いったい東京に来て何を食べていたの?」と思ってしまうくらい食い付きがいい。食べて少し元気になった彼は、タオルでくるんだ包みを大事そうに抱えおもむろに広げた。すると中からは大小様々な形をした木々が出てきた。屋久杉だ。しかもすべてが丁寧にとてもきれいに磨かれている。「海で拾った屋久杉の流木です。すべて手で削りました」色んな形の木たちに混じって、まん丸の球体のものがいくつかあった。「これはピースボール。僕が命名しました」「か、かわいい…」完全な球ではないところが人肌を感じさせてとても素敵だった。手に持つとすごくしっとりとした感触だ。そして香りが普通の杉と違って更に強くかぐわしい。「屋久杉と呼べるのは樹齢千年以上の木だけ。屋久杉からはとてもおおくの油が出るんです。だからこんなに光沢があって香りがいいんです」「なるほど。そっかぁー」私はその木たちがとても愛おしくなっていつまでも触っていたいと思った。まったく飽きのこない戯れである。特にこのピースボールたち。球というのはなにか人間の深層真理に直接働きかけてくるものがあるようだ。私達はこのピースボールと私の絵を物々交換することにした。「うわぁー。すごーく嬉しい。ありがたい。ありがたい」と直哉は顔をほころばせて喜んでくれた。そして私もじわーっと心が暖まる感覚に浸りながらピースボールとの出会いを喜んだ。ツルツルに磨かれた目玉オヤジのようなピースボールも笑っているような気がした。「木を磨いているんだけど、それは自分の心を磨いているんだと知るようになりました」直哉がポツリと言った。

自分の子供同様だという屋久杉たちを再び大切にタオルにくるんでしまい込むと、今度は大きな布袋から大事そうにある物体を幾つか取り出して床に広げた。「クリスタルボール」だった。私は先月、シャスタ山でクリスタルボールの生の音色を聴いて感動してきたばかりだった。しかも直哉の持っているそれは、伊豆の山奥に住むというクリスタルボール使いから手に入れたものだが、その彼もまた10年間くらいシャスタ山に暮し、クリスタルボールを携えて日本に帰ってきたという人物だった。ここでまたシャスタとつながった。私は不思議な感覚に捕われながら直哉がセッティングする様をボーッと眺めていた。そして「この男との縁は実は相当古いのかもしれないな」と、ふと思った。音が始まった。次々に鳴り響くハーモニー。共振の連鎖。直哉は女性に優しく触れるようにとても繊細に手首を滑らせていった。私はといえば意識は完全にシャスタ山に飛び、その後は自分の内部へと向かっていた。そして「このままいけばすべての細胞が爆発してしまうんじゃないか」と思ったところで音が止んだのである。「本当はもっとやりたかったんだけど、体も疲れてるみたいで…」と直哉。「今日はゆっくり休んだ方がいいよ」布団を敷いてあげると、横になったと思いきやものの3秒くらいで大きないびきをかきながらたちまち眠りに落ちていった。

翌朝、目を覚ました直哉の目からはクマがすっかり消えていた。顔色も赤みを帯びている。「すっごい久々にぐっすり寝た気がします」「よかった。よかった」朝食を食べたあと、アトリエまでの道のりを道路を通らず、あえて山道を通って向かった。屋久島でガイドの仕事をしている直哉は高尾の森を見て、広葉樹の多さに目を見張っていた。「いい森ですね」桜の大木に抱きつき話し掛ける彼。途中で枯葉のベッドに横たわり、しばらく空を仰いだ。嬉しくて飛び跳ねているnociw。「森に入ったのもホント久しぶりです。生き返りました。ありがとう!今度は屋久島の森で、僕が案内しますね」「うん。それ、すっごい楽しみだな」「その時、僕のところにある∀KIKOさんの絵もぜひ見て欲しいな」

あの絵の鳥は今でも屋久島を自由に飛び回っていますよ…..


_ 2008.02.21_>>>_満月

「富士とシャスタ」

サンフランシスコでのアートショウを終えて帰ってきた。まだあの時の余韻は醒めないままだ。

空港に着いた朝、シャトルバスに乗って今回お世話になった「しのぶ」ちゃんの家へ向かった。門を開けて出てきた彼女とハグを交わす。一緒にきた「taba」を紹介する。「ようこそサンフランシスコへ!」しのぶちゃんは笑顔で私達を迎え入れてくれた。ひとまず中へ入ってひと休みしてからアートショウをやることになっていたギャラリー「RED POPPY ART HOUSE」へと向かった。そのギャラリーはしのぶちゃんの家からほとんどまっすぐに坂を15分ほど下りた所にあった。中にいたのは「todd」と「meklit」というスタッフ。toddは画家で絵の先生でミュージシャン。meklitはミュージシャンでtoddから絵を習っているアーティストでもあった。そのギャラリーはART HOUSEというだけあって、そこで様々なライブパフォーマンスやワークショップが行われていて感性の鋭いローカルの人々の間ではおもしろい場所として一目置かれているようだった。初めて会うtoddもmeklitもとてもフレンドリーでナイスガイだった。翌日、セッティングをしにギャラリーへ着くと、今回しのぶちゃんとともに私のアートショウのために尽力してくれた「diane」がいた。彼女の目を見て思わず抱きついてしまった私。彼女も優しく抱きしめてくれた。本当に内側から溢れてくる暖かさ。その瞬間、この人達と出会えてよかったと心の底から思った。この時「glenna」というフォトグラファーのスタッフも手伝ってくれた。彼女もまたとても繊細で穏やかなバイブレーションの持ち主ですぐに大好きになってしまった。セットアップが終わり、ART HOUSEが私の絵で彩られた。「オー!ビューティフル!」daianeとglennaはとても嬉しそうだった。本番は1週間後のレセプション・パーティー。普通はオープニングに行うものだがdianneの提案で今回はクロージングという形になった。そしてここは普通のギャラリーではないので、私の絵がある空間の中でライブやワークショップが行われていった。だから私は毎日ここにいなくてもよかったのだが、どんな連中がやって来るのかに興味があったので、数時間だけでもいようとほぼ毎日坂を下ってギャラリーに通った。ドキドキの初日。RED POPPYに着くとtoddの友人でもあるという1人の黒人女性がいた。その瞳を輝かせて「あなたのアートとても素晴らしいわ!大好きよ」とハグをしてきた。そしてsimple side.の英語版を見て感動してくれ、海外で1番最初の購入者となってくれた。そんな彼女もまたアーティストでヘナタトゥーを描いていて「感動させてくれたお礼に、あなたの手に是非描かせて欲しい!」と言ってくれ「また必ず来るわ」と去って行った。

翌日、私はシャスタ山へと向かった。サンフランシスコへ着いた日の夜、お茶を飲みながらしのぶちゃんに「どこか行きたい所とかあるの?」と聞かれ、とっさに「シャスタ」と言ってしまったのである。この山のことは今はニュージーランドに滞在中の旅人「ゆういちろう」と「みちよ」から聞かされていた。「あそこは本当の聖地らしいですよ」「∀KIKOさん絶対好きだと思うなー」彼らがニュージーに旅立った後も、その言葉がずっと気になっていて、サンフランシスコへ旅立つ直前にも高校の時の地図帳を引っぱり出してきては位置を確認したりしていたのだった。「わぁ。シャスタだったら私も行きたい!1度行ったんだけど物凄くいい所なの。温泉もあるし、せっかくだから1泊したいね」しのぶちゃんは急に興奮した様子になって言った。「Kuも絶対喜ぶよ」kuというのはしのぶちゃんの一人息子で現在8才。すっげー面白くていいヤツ。センスも抜群。ちなみに旦那の「joe」はミュージシャンでもあり映像ディレクターでもあるアーティストで彼もまたとっても優しいナイスガイだった。でもjoeは丁度大事な仕事が決まるかどうかの瀬戸際だったので家で留守番することになった。「あっそうだ。運転手が私だけだったらちょっと不安だからまきこも誘おう!」「まきこ」というのはしのぶちゃんの親友で今回のアートショウのフライヤーをボランティアで作ってくれたデザイナーで、彼女もまたメチャメチャいいヤツなのだった。そんなわけで私とtabaとしのぶちゃんとkuとまきこの5人でシャスタへの旅が始まったのである。

朝、夜明け前にサンフランシスコを出発して約5時間、深い雪に覆われたシャスタ山が見えてきた。「わぁ。きれい…」一見、富士山を仰いだ時のような神聖な感覚に襲われた。標高は富士山よりも高い。赤い土に囲まれた緑色をした美しい湖。クリスタルガイザーの源泉でもある泉から沸き出すおいしい水。麓の町はこじんまりとしていながら、おいしそうなオーガニックフーズやおもしろそうなお店が並ぶ。なんだか昨年の9月に旅したカナダのソルトスプリングス島の山版という感じもした。ここにもしのぶちゃんは知り合いがいると言ってその人のお店を訪ねた。その人は「ハルコ」さんといって石のお店をやっていたが丁度お店が改装中ということもあって忙しそうだった。kuがソリ遊びをしたそうだったのでハルコさんにソリを借りた。そして私はシャスタに来たら是非手に入れたいと思っていたものがあったので、その物のありかも彼女に聞いた。それは「クリスタルボール」といって天の音色を響かせるという楽器。真鍮でできた「シンギングボール」と同様に鉢の周りをを棒で撫でながら音を出すものだ。この情報もゆういちろうからゲットしていたのだ。私は生の音が聞きたくてたまらなくなってハルコさんに聞いてみた。「だったら2件先に置いてるお店があるよ。他にもあるけど私はそこがお気に入りなの」さっそく覗いてみると、店内は私の好きな物だらけでいっぱいだった。同じようなお店は確かにどこの世界にもあるだろうけど、何よりここは居心地が良かった。スタッフもニコニコしているだけでほったらかしだし。私はチャクラに沿って並べられたクリスタルボールを順番に奏でてみた。何とも美しい陶酔してしまいそうな音だった。どのチャクラに対応するものにしようか迷っていたら、ふと、その横にさりげなく置かれていた「メディスンドラム」が目に留まった。その瞬間、私は何の迷いもなくそのドラムを叩いていた。するとkuが横に座ってもうひとつのメディスンドラムを叩き始めた。私達はしばらくセッションに夢中になった。その間誰一人として邪魔する人はいなかった。そして「あー気持ちいいーっ」とkuと顔を見合わせながらジャムを終えた時、私はそのドラムを手に入れることを決めたのだった。ハルコさんは言った。「グッドチョイス!今は大地と繋がる時だったんだね」

「さー。早くソリ滑りしてコテージにチェックインしないと温泉に入れなくなっちゃうよー。確か時間決まってるはずだからさー」しのぶちゃんが言った。コテージは最高だった。ロケーションとその温泉施設が。温泉は一人一人個室があてがわれてバスタブに蛇口をひねると、源泉が出てきた。そこに5分くらい浸かったら別室にあるサウナに入る。そのサウナがまた素敵で中央に大きな薪ストーブがあって、部屋中ハーブの香りが立ち込めていて部屋の灯りはクリスタルを通して漏れてくる光りだけだった。そこに10分くらい入ってから今度は外に流れるきれいな小川の中へ入り心身を浄める。その繰り返しで1時間はたっぷりと満喫できた。これほどまでの浄化をこういった施設で体験するのは初めてだった。最初にバスタブに浸かった時は、涙がとめどもなく溢れてきて驚いた。自分に「お疲れさん」と心から伝えることができた。コテージの中にも立派な薪ストーブがあって、私達は夜中まで火を囲みながらいろんな話しをした。お互いほとんど初対面だというのにそんな感じはみじんもなく、何度も何度も「いやぁー気持ちよかったよねー」と言っては笑いあった。

サンフランシスコに戻ってきてからも、シャスタでの感覚がそのまま残っていて不思議な感じだった。その時にちょうどアートショウのフライヤーも上がってきて、レセプションに向けて動き出す準備がやっとできたというところだった。そのゆるさが何ともサンフランシスコだよなーと思いながら、ここはもう楽しむしかないなと腹を決めた。レセプション当日、私とtabaは早めにRED POPPYに入って場を整えた。前日に2人して中も外もトイレもキッチンもきれいに心を込めて掃除したので気が全然違っていた。だから当日はもう一度簡単に掃除して浄めて、シャスタから連れてきたドラムを叩いて「このパーティーが平和でありますように」とだけ祈った。しのぶちゃんが色んな食べ物を差し入れに持ってきてくれた。まきこもたくさんクッキーを焼いてくれた。dianeとglennaは日本酒とつまみを用意している。「あーいよいよ始まるんだなー」と私はワクワクした。kuも気を感じて興奮気味だった。スタートの6時からお客さんがゾロゾロと入ってきた。カナダでのショーの時も色んな人種の人達がいたが、ここではさらに多くの人種が集まっていた。黒人も多い。「ここはやっぱりアメリカなんだな」と、ちょっと感激した。そしてみんなが本当に心から絵を感じて口々にその感動を表現してくれた。とにかく深く深く絵について聞きたがる人がたくさんいた。そして私が日本でもいつも言ってるように「私の絵は鏡のようなもの。見る人が自由に自分自身の中へと旅をしてくれればいいんです」と伝えると「あぁ。やっぱり!そうだと思った」とみんなが納得してくれた。daianeがお客さんが絵をじっくり見られるようにと部屋の中央に壁に向けて椅子をたくさん配置していたら、その通りに椅子に腰掛けて絵を見たまま最後まで動かない人達もいた。インド人もいた。「あなたは瞑想をしているの?」と聞かれ「私にとっては描くことが瞑想なの」と言うと首を大きく縦に振りハグをしてきた。しのぶちゃんの家で夕食会をした時に来てくれた「やすえ」ちゃんはこの日自慢の手料理を持ってきてくれることになっていたが風邪で寝込んでしまい来られなかった。でも彼女から聞いたと言って来てくれた「tree」という60年代のヒッピーだったアメリカ人の男性があまりにも絵に感動したので、お礼にコレを貰ってくれと言って自分が作った蜂蜜をプレゼントしてくれた。「これは薬になる蜂蜜だよ」と。やすえちゃんとはオーガニックな野菜を作るファームで知り合ったそうである。とにかく彼と彼と一緒に来ていた友達の2人は、あのグッドバイブレーションの人達の中でもひときわピースな輝きを放っていた。そう、あの時あの空間では「ピースフル!」という言葉があちこちで連発していた。「∀KIKO。サンフランシスコへ来てくれてありがとう!そしてアメリカでのスタートおめでとう!」みんなからの心のこもった祝福に「神様ありがとう」と心の中で思い続けていた。

日本へ帰ってきて、NOBUYAにその一部始終を報告すると彼はとても喜んでくれた。そして「オレは何にも心配してなかったよ」と言った。彼は音で場を見守ってくれると言ってパーティーのためにスペシャルなミックスCDを持たせてくれたのだった。その音は間違いなくそこに集まった人々の心に届いていた。ござれ市を終えてやっと時差ぼけも治った頃、約2週間の間、淋しい思いをさせた「nociw」のために富士山の麓の湖でキャンプをした。満月の夜。雪を被った富士山があの時のシャスタ山とダブって見えた。優しく暖かい光に包まれながら私はいつまでもドラムを叩き続けていた。

「これは、ただの楽器じゃないよ。神様の乗り物さ」月がそういって微笑んでいるような気がした。


_ 2008.01.22_>>>_満月

「RED POPPY ART HOUSE」

今回サンフランシスコでアートショウを行うことになったギャラリーの名前である。

私はこの音がとても気に入っている。ポピーが大好きだし。出発が近くなってきた。2月4日だ。現地へ着いたらギャラリーを下見して翌日にセッティングをして2月6日から13日までの開催。11日か12日にはレセプションパーティーも開いてくれることになっているそうだ。オーナーの「ダイアン」は日本人とのハーフでめちゃくちゃいい人とのことである。これは現地で今回のアートショウのために尽力してくれている「しのぶ」さんからの情報。ホントに何から何までお世話になってしまっていて感謝だ。おまけに寝泊まりさせてもらう場所もしのぶさんの家だし。

これとは別に行われるブックフェアーは2月9日10日の開催。こっちには「simpleside.」の英語バージョンを出品するために「taba」が一生懸命に力を尽くしてくれている。そう、今回のサンフランシスコはtabaと2人で行くのだ。今思うと相当不思議な縁である。でも、まーそういうことは、帰ってきてからゆっくりと浸ることにしてまずは準備なのだ。1月の「ござれ市」が終わったら、本格的に準備に入ろうと思っていたのだが、あの日ははんぱじゃないくらい寒くって、終わったあとに久々に高熱を出してしまい、3日間ずっと寝込んでしまった。やることはいっぱいあるのに、成す術がなく朦朧とした意識の中、ただ「あー、サンフランシスコでアートショーかー」と何かひとごとのようにボーッと考えていた。全部が夢のような気さえしてきたりして、体が弱ると頭ってちっとも働かないんだね。

熱がやっと下がってきたと思った日に、今度は生理になって生理痛が始まってしまった。重い時と軽い時があるのだけど、今回はまた、内部で不思議な化学変化が起こったらしく、かつてないほどの貧血状態になって再び意識が遠のいていった。ゆうべのことである。先に寝ていた私がその状態になって、どんどんどんどん体から自分が離れていく気がして怖くなり必死にNOBUYAの名前を呼ぶのだが、彼曰くいつもの寝言のようにしか聞こえず、しばらく放っておいたのだが、ちょっと変だぞと思い覗きこむと顔の半分が赤で半分が青になったていたので「これはヤバい!」と思い、あわてて家にある自然療法の本を急いで調べて薬を作って飲ませてくれ、正気に戻ったのだった。いやはや助かった。NOBUYAには相当インパクトがあったらしく何度もその時の真似をされている。(笑)

とにかく戻ってきたのだ。でもね、何かが前と少し違うのである。体が宙に浮いてるようなフワッと全体が軽くなったようなそんな感じなのである。うまく言えないけど。ともかく、ここから気を引き締めていこうと思う。すべては成るようになるさ。元旦にやった占いのメッセージが「なさずして成る。なぜならすでに天によってそれは成されているからである」だったのだ。私のHPに載っているプロフィールの写真。

あの赤いポピーを握った時の気分に私はいつでも還ることができるのだから。


_ 2008.01.08_>>>_新月

「命」


森には

命のざわめきが 満ちている

木の声 土の声 風の声 水の声


精霊たちが 歌っている

聞く耳を 持つ者たちが

その声を聞く


すべての自然に 私は宿る

言葉は歌

言葉は音


命の音に 私は宿る

命とともに 私は歌う


命の音に 私は宿る

命とともに 私は踊る