2010

2010.12.21_>>>_満月

「ナーガ」わたしは ナーガおまえの体に ぐるぐると巻きつき その魂を 昇華させる
いにしえの知恵を たずさえてこの地に降り立ち この道の真ん中で この身を横たえその抜け殻を 今 見ている
わたしは ナーガおまえの心に ぐるぐると巻きつき その魂を 昇華させる
かなたへの啓示を たずさえてこの地に降り立ち この道の真ん中で この身を横たえその抜け殻を 今 おまえと見ている
おまえの中に わたしは宿り その命の光を 輝かせようやがて おまえは思い出す本当に大切なものは 何だったのかを
おまえの中に わたしは宿り その命の光を 輝かせよう    この力を 覚えていなさい心は 研ぎすませておくように
わたしは ナーガおまえのわたしに ぐるぐると巻きつき その魂を 昇華させる
在るがままを たずさえてこの地に降り立ち この道の真ん中で この身を横たえその抜け殻を 今 おまえと見ている夢を 見ている
この地に ふたたび降り立つ その時まで
 
_ 2010.11.23_>>>_満月

「Earth Tribes」満月の夜、高尾の山奥にある「Earth tribes」でのイベントに参加した。それは屋久島から来たファミリー「森の旅人」の「KENTA&NAO」の屋久島の流木を磨くワークショップだった。数か月前にKENTAから「11月に友達の結婚式で東京に行くからその時に会いたいな」と知らせがあって、都心で1回ワークショップをやるから高尾では私達と、ただのんびり過ごしたいと言っていたのだが、結局都心でのワークショップの人員がオーバーしてしまい、あぶれてしまった人達のために何とかしたいということで、高尾でも再び行うことになったのだ。今回も「nico」の「taba」が動いてくれた縁で「ウレシパ・モシリ」の祭りの主催者「Dai」ちゃんのギャラリー&カフェ「Earth Tribes」が開催場所に決定した。KENTAの要望でサウンドはDJ NOBUYAが担当「∀の絵もみんなに見て欲しい」ということで何点かを持って行くことにしたのだった。前日セッティングに行ってウレシパ・モシリ以来久しぶりに「Dai」ちゃん夫婦に会った。「また∀さん達に会えるのを楽しみにしてました!」と2人。Daiちゃんの腕の中には赤ちゃんが眠っている。前回は挨拶を交わした程度だったので今回、初めて彼らとゆっくりと話すことができて本当に嬉しかった。話せば話すほど、この出会いが必然であるような気がした。古民家を自分で改装したという家兼お店はとても素敵で彼のマメさとエンターテイナーっぷりを現していた。フォトグラファーでもある彼のエチオピアの写真の中の子供達が笑いかけてくる。「ほんと、どこでも勝手に動かしてセッティングしちゃってください」とDaiちゃん。私達は美しい中庭に面した廊下にあったソファーの前をDJブースにして、その後ろにフラッグアートを飾り、当日この中庭にも絵を飾ることにして廊下に物販コーナーを作った。すると、不思議とこの家とその光景がマッチしていてDaiちゃんも「いいコラボレーションになりましたねぇ」と満足していた。「これはKENTAもNAOもきっと大喜びするだろうなー」と思い、私もNOBUYAも嬉しかった。当日、雨があがって現地に駆けつけるとKENTAとNAOがすでにセッティングにかかっていた。「わーい!」お互い固いハグを交わして再会を喜びあった。5月の屋久島個展以来だったが、こうして会うと久しぶりのような気がまったくしなかった。案の定、紅葉真っ盛りの環境とこの家がとっても気に入った様子の2人。次々にやってくるお客さんたちからも喜びの声が上がっていた。みんな思い思いの場所で、自分が選んだ流木をひたすら磨く。途中KENTAたちが最近ハマっているという「ラフティヨガ」をやったりDJ NOBUYAの音でダンシングしたりと息抜きもあっておおいに盛り上がった。そして「森の旅人」のブログから私の絵を知りファンになってくれて、ずっと会うのを楽しみにしていたという人達が、たくさん来てくれたのにはとても驚きだった。KENTAとNAOの愛を感じた。そんな彼らと私達の共通のファミリーが屋久島からまたまたやってくる。その名は「なーや」彼もまた屋久杉を磨く「玉磨き教室」と自ら演奏するクリスタルボウルのライブをセットにして日本中を駆け巡っているのだが、12月7日に高円寺で行う∀&N ART SHOWでも屋久杉玉磨き教室とライブをやってくれることになった。この日の会場もとてものんびりとした素敵な場所である。当日が楽しみだ。もうすぐ、なーやの家族全員で我が家にやってくることになっているし、いったいどんな屋久島旋風が吹き荒れるんだろう。今回のアートショウをサポートしてくれている「マリオ」とは今年の屋久島個展で初めて出会ったのだが、すでにみんなの家族だった。結局、どんどん輪はつながって屋久島と高尾はこれから、もっと深い絆で結ばれていくのだろうなという予感がする。私とNOBUYAも夫婦で「アートジプシー」としての活動もしていこうということになって、今回のアートショウがそのVol.0になるが、応援してくれるまわりのみんなの、深く暖かい愛をひしひしと感じて、本当にありがたいと思っている。「1人1人がみんなアーティスト」昔からずっとそう思ってきたことが、最近、目の前で実感できる機会が増えて本当に嬉しい。「Earth Tribes」そう、私達はみんな地球の民だもんね。
 
_ 2010.10.23_>>>_満月

「アートジプシー」今 ようやく時がきたのだあなたが もっとも あなたらしく生きる時がわたしが もっとも わたしらしく生きる時がわたしたちは きっと ふたつでひとつそうでなければ これほど長い年月を どうして一緒にこれただろうかわたしたちは 知っているはずだ それを 今まで 思い出せなかっただけのこと遠い遠い記憶の中に 約束を置き去りにしてきただけのことアートジプシー これからは じぶんたちを そう名づけよう世間の何ものにもとらわれずに 自由に生きていくわたしは絵で あなたは音でわたしは詩で あなたは言葉でわたしは月で あなたは太陽でこの肉体に宿ったわたしは その肉体に宿ったあなたと愛し 愛され 涙を流す
そして とうとう時がきたのだあなたが もっとも あなたらしく生きる時がわたしが もっとも わたしらしく生きる時がわたしたちは やっぱり ふたつでひとつそうでなければ この広い地球上で どうして同じ場所に降り立っただろうかわたしたちは 知っているはずだ それを 今 思い出しはじめたところ深い深い記憶の中の 約束を拾い集めてみるアートジプシー これからは じぶんたちを そう名づけよう世間の何ものにもとらわれずに 自由に生きていくわたしは目で あなたは耳でわたしはダンスで あなたはリズムでわたしは女で あなたは男でこの肉体に宿ったわたしは その肉体に宿ったあなたと愛し 愛され 微笑みを交わす
あなたとわたしは ふたつでひとつ だからひとりでは 半分の幸せあなたとわたしは ふたつでひとつ だからあなたの幸せが わたしの幸せこの有限の体に 無限の愛を受け止め時が尽きるまで 命の火を燃やし続けようせっかく こうして わたしたちが今 ここに いるのだから
 
_ 2010.09.23_>>>_満月

「ウレシパ・モシリ」私の暮らす高尾の、とあるキャンプ場で「ウレシパ・モシリ」というアイヌ語で「互いに育みあう大地」というお祭りがあった。「サヨコオトナラ」のサヨコに「私も歌うから是非来て!」と言われていたが、私も一週間前くらいに、突如そこで物販をすることになり参加することになったのだった。「nico」の「taba」が物販担当でもあったので荷物は彼女に託し、私達は当日、朝8時からスタートするという「カムイノミ」に参加するために家を出た。着いてみると、もう始まっていたので後ろからそっと覗いてみた。北海道から来たシャーマン「アシリ・レラ」さんがいて、後ろにたくさんの若者達が座っていた。一瞬、私はその光景に色んな意味で驚きを感じた。そして「この大地は祈りを必要としているのだな。」とふと思った。このお祭りの代表の「Dai」ちゃんは、エチオピアで写真を撮ったりしているカメラマンで、つい2ヶ月前くらいにこっちに越して来たばかりだった。「はじめまして!Daiです。実は以前、友達に∀さんの画集をプレゼントされたことがあって昨年、藤野でやっていた個展にも行って∀さんの来るのを待ってたんですけど、残念ながら会えなかったんですよ。でもあの個展に行ったことが、こっちに越してくるきっかけのひとつにもなったんです!」「えぇーっ。そうなんだ。でも今日ここで初めて出会うってことだったんだね。」サヨコからも「絶対紹介したい!」と前々から言われてたので「どんな人なんだろう?越してまだ2ヶ月しか経ってなくて、赤ちゃんも生まれたばかりというのにもう祭りを実現させてしまうなんて、すっごいバイタリティだな。」と思っていたのだ。でも実際会ってみると、なんか親しみやすーいという感じで安心した。「最初は僕の頭の中で、ふと浮かんだことだったんですけど、口に出してみたら、みんな手伝うよって集まってきてくれて、ほんとありがたいです。」「そっかー。」うん。なるほど。彼ならば、人が集まってくるというのも頷けるなーと思った。2日間のうち、1日目は「男性的なお祭り」、2日目は「女性的なお祭り」というテーマになっていたのもおもしろかった。物販ブースを見つけた。「おはよー。」「おはようございまーす!」tabaの他にも女の子が3人いた。神戸からきている子もいた。「ここで会ったのもなにかのご縁ですねー。よろしくお願いしまーす。」揃いも揃って、みんな心のきれいな可愛子ちゃん達だったので、物販ブースが落ち着く場所となった。サヨコがこの日、お話をすることになっていた縄文エネルギー研究所の「中ヤーマン」を紹介してくれた。「はじめまして。」「どーもー。中ヤーマンです。」私の中では、なんかもっと違う感じをイメージしていたのだが、実際は本当に普通な感じでとても楽な人だった。「君とはね、北米インディアンの時代、それもすごーく古い時代に深い関わりがあるよ!」「へーっ!」やっぱり中ヤーマンは相当面白いヤツだ。出会えてよかった。そうだ、この日「サヨコオトナラ」のニューアルバムが届いた。ジャケットは私の絵。サヨコがアトリエに選びにきたのだ。この絵は2008年に、日本が古来より秋津島といわれていたことに思いを馳せて描いた「秋津シリーズ」の8枚の中から、サヨコが選んだものと奈良大介が選んだものが抜擢されている。「オレはさ、先にサヨちゃんからこの絵を見せてもらって出会ってるじゃない?これ見た時、まさに今の時代へのメッセージを伝えてると思ったよ!」と中ヤーマン。サヨコが選んだ表紙の絵は「おつながり」といわれる状態で、昔の日本の人々は、豊穣のイメージとともに、それをとても神聖なものとして捉えていたようなのである。あの時、「描きたい!」と思ったことが、時を経て絶妙のタイミングで実を結ぶ。楽しい出来事だった。ブースにやってくるお客さんは、初めて出会う人ばかりでおもしろかった。みんな個性的で、なんだかキラキラと輝いていた。そしてほぼ全員、私の絵を見るのは初めてだろうという人達が結構、というかかなりハマっているのを目撃できて嬉しかった。食らいついてきたのは、隣の藤野町に住んでフリーのヘアメイクをやっているという「つくし」さんとか、超マニアックな写真を撮るフリーのカメラマン「ドクターG」とかだったが、私にとっても、それはいい出会いだった。「今日は親戚が集まってますね!」「まったく!」各地のこういった祭りに行くと、必ず見かけるという顔もあって、言葉は交わさなくても「あ、あの人またいた。」と思うのがおかしかったりもする。なによりも家の近くで、こういった祭りがあって気軽に遊びに行けるというのはありがたいことだなと思った。それに、こういうところで出されるご飯はおいしいから、普段外食をしない私達でも、つい食べたくなっちゃうのである。外の空気を吸いながら食べるご飯は、ホントにうまい。中ヤーマンのお話は終わり頃ちょっとしか聞けなかったが「これからの時代はテロリストよりエロリストです!」と声高らかに宣言していて、やっぱりなんか親しみを覚えてしまった。サヨコのライブは今度のアルバムに参加しているギターとベースの人達がきて、弦楽器2つと声という組み合わせで演奏され、それもまた新鮮だった。実際、体が自然に踊っていて気持ちよかった。今回のレコーディングに呼ばれ遊びに行った時も思ったが、最近のサヨコは何か以前とは違うパワーを放っていて、きれいだなと思う。1日目の終わりのセレモニーに参加したNOBUYAが言っていた「カムイノミの火を絶やさず、火の神に感謝の祈りを捧げる彼らの姿に心を感じた。」と。最終日の最後は「わのまい」という舞を有志で輪になって舞うという形で終わった。「これからも、第2回、第3回と続けていきたいと思いますのでよろしくお願いします!」と挨拶していたDaiちゃん。今回のテーマだった「原始回帰と女性性の目覚め」少なくともこの祭りで、その種が蒔かれたと思う。Daiちゃんが私の画集を見て「あ、オレたち一緒だ!」と思ったように、私も彼の表現であるこの祭りを体験して「一緒だな。」と思った。最近、性別や年代を超えて同じ価値観で生きる人々とのつながりが加速しているのを感じる。そして、そんな出会いはそれぞれの世代にとっての安心感にもつながっているのだ。私のハラの虫からも声が聞こえる。「おーい。もう始まっているぞーっ!」
 
_ 2010.08.24_>>>_満月

「藤戸幸次という人」「幸次さんが死んだ」というメールが絵美から入っていた。私達は前日、携帯が繋がらない森に入ってキャンプをしていて、家に戻って来たところだった。「のぶやっ。幸次さんが死んだって!」「えぇっ!」すぐにNOBUYAが絵美に電話をすると「たぶん、暑くてとけたんでないか…」とのこと。「幸次さん…。」確かに私達は、彼ならばありえるだろうと思った。なぜなら、真冬でも半袖に裸足にサンダルのような人だったからだ。2001年の12月に私は「RED DATA ANIMALS」という個展を原宿で開いたことがあった。通りに面したその会場の扉をオープンにして、行き過ぎる人達から中が見えるようにしていたのだが、その会期中のとある日、突然アイヌが会場に入って来たのだ。まさに「アイヌが入ってきた!」という衝撃そのままのインパクトだったのだが、その内の1人が「幸次さん」であり「床 絵美」だった。「Ague」も一緒だった。「絵に惹かれて入って来た。」と、まっすぐに言い放った絵美を「絵美のアンテナはね。凄いんだわ。」と自慢げに語っていた幸次さん。当時交際中だった絵美とAgueを結びつけたのも彼だったようだ。個展で初対面後、彼らは当時、私がやっていたギャラリー「nociw」へとすぐに訪ねてきてくれた。「幸次さんがね、いやぁー彼女は凄い。凄いって言ってたんだよ。」と絵美。「人と人を結ぶのが、どうも好きみたいなんだよね。」とAgue。幸次さんは木を彫ってモノを創る人だった。「唄の人」に「シルバーの人」に「木彫りの人」。みんなアーティスト。本当に嬉しい出会いだった。それからギャラリーがクローズするまでの間、3人はちょくちょく遊びにきてくれるようになった。幸次さんはよく言っていた。「あっこちゃん、あのさ、2人のことよろしくなー。ほんっとにいい奴らだからさ…。」当時、幸次さんは中野にあったアイヌ料理店「レラ・チセ」のお店の一角で作品を制作していた。店内には彼の木彫りのペンダントやかんざしなどの作品も販売されていて、お客さんの質問に、はにかみながら笑顔で答える幸次さんの姿があった。Agueのお店にも彼の作品はあった。私とNOBUYAはとりわけ、彼の彫った灰皿に目が止まった。木はエンジュ。彫ると黒の部分と白の部分が入り交じった不思議な表情が出てくる美しい木。「しかもこれはね、使い込むほどに味が出てどんどん色が変わっていくんだよ。」その灰皿はすでにAgueのものだったようで、ヤツは「へっへっへっ。」と得意げだった。NOBUYAは「いいなー。」という顔をして「今度、幸次さんに会ったらオレ、オーダーしよう!」と、はりきっていた。当時のAgueのお店で「藤戸幸次展」が開かれることになってオープニングにNOBUYAと駆けつけたことがあった。幸次さんはちっとも作家っぽくなく、いつものように、照れくさそうに頭をかきながらまだ作品を作っていた。「そうだ。∀に個展の看板を描いてもらおうよ!」と絵美が言い出した。「それいい!たしか、いい木の板があったはず。」とAgue。私はアイヌ語でついていた個展のタイトルをその板に描いて、思いつくままに模様を描いていった。それをじっと見ていた幸次さんは「よくもまあ、次から次へと浮かんでくるよなー。」と感心してくれていた。「幸次さん、オレさ、このAgueが持ってるような灰皿オーダーしていい?」「おっ。いいよ。のぶちゃんとあっこちゃんのためなら、オレ作るよ!」「やったーっ。」私達は大喜びした。一度、レラ・チセに行った日に、大酔っぱらいしていた幸次さんに会ったこともあった。「会った。」といっても次に会った時は、彼は何も覚えていなかったのだが。その幸次さんは、まるで初めて見る人だった。どんな内容だったかは思い出せないが、とにかく怒りのようなものが言葉の端はしに込められていて、見ていてとても辛そうなのだ。私達は幸次さんのことを、何も知らないということをその時知った。でも、そんなことはどうでもよくて、彼とはアーティスト同志として接することができた。だから彼の作品のことについて話をすると、目をキラキラと輝かせて、とても喜んでいた。「もともと、意味を持って生まれたアイヌ模様だけど、オレのはね、オリジナルさ。なんかこんな感じーってね。」「私と一緒だね。」「そうそう!」兄達も、名だたる木彫り作家の中で、自分自身の表現というものを模索することもあっただろう。「兄貴たちのことは尊敬しているよ。」と、彼は言っていた。毎年、中野で開催されている「チャランケ祭り」に、いつの年だっだか出店していて、久々に再会した時に私のTシャツを着ていてくれたのがとても嬉しかった。「向こうでね、あっこちゃんのTシャツ着てるとみんなから何それ!って聞かれるんだわー。」その頃は、拠点を北海道に戻しているようだった。私達が高尾に越してきてからも1度泊まりにきてくれたことがあった。その日はAgueや絵美の家族も呼んでお鍋をやったが、幸次さんが蟹に取り憑かれたようにむしゃぶりついていたのだ。その姿はまるで動物だった。「オレね、蟹には目がないんだわー。」幸次さんが相当な蟹好きだということは知ったのだった。1年のうち、1度か2度、いつも突然電話がかかってきた。「北海道では民芸店で売るための木彫りを制作してるが、本当は自由に自分の作品を創りたい!」という叫びのような内容の時もあった。私はいつも、ただ黙って聞いてあげるだけしかできなかったが。その度に「幸次さんは戦っているんだなー。」と感じた。だからあんなに、普段は繊細で穏やかで優しくて、だからあんなに、お酒が入りすぎると豹変してしまうのだなと思った。その後「どうやら幸次さんは今、北海道じゃなくて静岡にいるらしいよ。」という情報をAgueから聞いた。彼もたまーに会うことがあるらしかったが「あの、のぶちゃんにオーダーされた灰皿が仕上がってないから!」という理由で私達には会えないと言っているとのことだった。「そんなの気にしなくていいのにー。」と私達は笑ったが、幸次さんには幸次さんのタイミングというものがあるのだろうと思った。だから最後に会ったのは家に蟹を食べに来た日で、最後の電話は2ヶ月くらい前のことだった。いつものように「やぁー。あっこちゃん元気だったかい?今静岡の方にいてね、そこでね、いいー奴らにまた出会ってね、で絵の好きなヤツにあっこちゃんの絵見せたらね、そいつがまた感動してなー。」という具合に、いつにもましてテンションが高かったので「きっと、今いる環境は楽しいんだな。」とすぐにわかった。嬉しかった。そして「これからもいい絵描いて頑張ってね!」「幸次さんもね!」という、いつもの励ましあいの言葉で切ったのだ。静岡まで駆けつけることができたのはAgueだけだった。告別式と荼毘に付した日。絵美から「ちょっとそっちに行っていい?」と電話が来て、みんなでAgueの帰りを待つことになった。「今は幸次さんのことを話してあげることが、一番彼の魂が喜ぶことだよねぇ。」「そうだね。」絵美は私達が出会ったばかりの頃、レラ・チセで撮った5人の写真を持ってきてくれた。「うわーっ。懐かしい。」その頃のことが蘇ってきた。写真の中の幸次さんは、私の心の中の幸次さんそのまんまだった。「私が最後に会ったのはね、去年のチャランケの時だったけど、ずいぶん老けたなーって思ったさ。」「そうなんだ。」私は写真を見ながら「この出会いがなければ、今こんな近所に絵美たちも越してきてはいないんだよなぁ。」と思い、それを仕掛けたのは幸次さんのような気がしてきて心から感謝した。Agueがバイクで帰ってきた。「おかえりー。おつかれさま。どうだった。」「うん。いい時間だったよ。」Agueが感じてきたとこによると、最後の場所は幸次さんにとって、とても居心地がよかったんだろうなと思ったそうだ。何より、まわりにいた人達がもの凄くいい人達だったという。諸事情を抱えて生きてきた幸次さんだったらしく、あっけなく逝ってしまった彼に対し北海道からは「怒り奮闘!」の声も上がっていたようだ。家賃が何年分か滞納になっていて、その尻拭いをしなければならないとかなんとか…。Agueがお兄さんの「幸夫」さんに幸次さんの死を知らせた時の第一声も「あの野郎ー勝ち逃げか!」だったそうなのである。でも、そんな幸夫さんも泣いていたらしい…。今思うに、やっぱり幸次さんは世間一般が常識としているところの常識は、どうでもよかったのだろうなーと感じる。というか、とうていそんな枠の中では生きられない生き物だったのだ。「もうすぐ死ぬ人が取る行動っていうのはやっぱり不思議なもんでね、幸次さんは朝方死んだらしいんだけど、傍らにあったカバンにはまるで出かけるみたいに準備がされていて、表札が裏になっていたらしいんだ。」「連日の猛暑にいよいよ耐えられなくなって、北海道に帰ろうとしていたのかな?」「ありえるよね。」「でも、幸次さんはいいタイミングで逝ったと思う。」Agueが言った。私もそう思った。実に幸次さんらしい逝き方だなと。北海道からやってきた身内の方達にとって、静岡でのお葬式に、多くの若者達が訪れたのは驚きだったようだ。「何でこんなに若い連中がいっぱいいるんだ?」と。その現象事態が幸次さんを表しているなと思った。「つまり、オレたちもその1人ってことだよね。」とAgue。「バタバタしてたからゆっくり話せなかったけど、最後に幸次さんが一緒にいた連中と何かしたいね!って話したんだ。」幸次さんが喜びそうな何かクリエイティブなこと。素敵だなと思った。死に様は生き様だね。幸次さん、ありがとう。
 
_ 2010.07.26_>>>_満月

「ヘナの儀式」今月の満月はマヤ暦の元旦でもあった。そんなおもしろい日に、たまたま私達は森の中でのキャンプを予定していた。それは美容サロン「pirika hair」の「yuka」が、ヘアースタイリストとして働く中で「ヘナ」と出会い、彼女が自分にピッタリなのはまさに「これだ!」と直感して以来、「ヘナ」中心の美容をやってきて、これからはサロンに来たお客さんが自分の家でもできるようにと、彼女が創作したオリジナルの調合のヘナを販売したいと考えるようになって、そのためには商品の顔が必要なので、その名前とロゴの絵を私に依頼してきたことが始まりだった。ヘナは古代、クレオパトラの時代から使用されてきた神聖なハーブで、染料でもある。そのヘナで髪や爪や手足を染めたり、トリートメントをしたりするが、同時に頭皮や皮膚を健康にして保護したり、フケかゆみを押さえたりもするらしい。ヘナタトゥーの染料でもある。yukaはモロッコに行って、このヘナが今も、民衆の日常に普通に溶け込んで活かされていることに強く感動したという。公衆浴場で見知らぬオバサンが体に塗ってくれたことも本当に嬉しかったのだと話す。そこから本格的にヘナを学んでいこうという姿勢が芽生え始め、夢中で探索していく中で気づいたこと。それはヘナは一種の儀式でもあるということだったようだ。「だから私、∀KIKOさんにお願いする時はまず、私の考えるヘナを体験してもらいたいなと思ったの。古来からの、自然とともにあるやり方で。だからそれは緑に囲まれた場所で、近くにきれいな川が流れていたらベスト!」「わかった。NOBUYAとどこが一番いいのか考えてみるよ。」打ち合わせでアトリエに来た日。それからしばらく、彼女のヘナに対する熱い思いと彼女が何をするために今回の生を受けているのかという物語に聞き入った。この日yukaはお土産にと蓮の蕾をプレゼントしてくれた。私が蓮が大好きなのを知ってか知らずか。3度ほど、実は迷ったのだという。家の近くのお花屋さんで。最初に行った時は閉まっていたらしく。「でもやっぱり行こうと思って、そしたら蓮の蕾が並んでいて、これだっ!て。でもね、この蕾は咲かないんだって、お店の人にそう言われたんだ。」その蓮が翌朝アトリエに行ったら、みごとに咲いていたのである。それも、今まで嗅いだ中でも最高の気品のある香りを漂わせて。キャンプ地は私達も久々に訪れた、私とNOBUYAのかつての遊び場であり、祈りの場でもあった聖なる滝の下流でやることになった。昔はキャンプ場だったが、今は使われていない。だから当然電気も水道もなくトイレもない。でもここの川は今でも澄んでいて飲むことができる。明かりはランタンとろうそく。トイレは掘って土に還す。「わぁーっ!まさにピッタリの場所だぁー。」yukaは大喜びだった。まずはみんなで精霊の滝に挨拶に行って祈った。テントは1本の大きな赤松の木を囲むように張った。「何か今回、この赤松さんが見守ってくれるような気がするね。」「うんうん。なんだか久しぶりに賑やかになるのが嬉しそう。」yukaはこの木の下にテーブルを作って、ヘナやハーブが入った瓶や貝をきれいに並べだした。私が持ってきた例の蓮の実の穴から顔を出していた小さな種たちを、彼女は石で挽いて粉にして混ぜた。その作業が実に楽しそうだった。「こうしているのが大好き!」彼女の全身からそれは伝わってきた。そんな状態の人間を見るのはこちらまで幸せな気分になってくる。始める時、yukaが赤松の根元にお供えをして祈りを捧げた。と同時に赤松の実が横の方から突然、並べた貝の中に自ら飛び込んできたのだ。「早いね。yukaの祈りをキャッチしたってことじゃない?」「す、すごーいっ!」とにかく私は彼女にすべてを任せることにした。青い空、木々の緑、常に聞こえる川の音、虫や鳥や獣達の鳴き声。目を閉じると完全に森の世界に同調することができた。頭皮や髪の毛を通して自分の体が喜んでいるのがわかった。毛穴が開いて自然のエネルギーがそこから入ってくる。yukaの指先から伝わる完全な開放感。頭と指が溶け合う感覚。始める前、私達は川に入って禊をして瞑想した。裸で。「こんな体験は初めてだけど、これって気持ちいいんだー。」と叫んでいた彼女。「いつもはサロンでだとお客様にここまで出していいのかな?っていう遠慮があるけど、今日は100%自分を出していきます!」そう宣言していた通り、yukaは自由に自分を表現していた。言葉以上に伝わってくるもの。その人の本質。エネルギーは嘘をつけないのだ。彼女が想像した通り、この体験をしてみて本当によかった。最後にヘナを洗い流す時は、NOBUYAが考案した川の中のベッドに仰向けになり頭を川につけながら、自分もいつの間にかそのまま川になっていた。冷たくて思わず「あぁぁーっ!」という声を出しながらも、私達も森も川もこの空も、みんな自然の一部なのだということを実感していた。そんな儀式。夜空には満月が笑っていた。その月明かりに照らされて赤松さんも笑っていた。透明になった自分におりてきたビジョン、それは間もなく形を現し出すだろう。
 
_ 2010.06.26_>>>_満月

「龍の旅」屋久島・九州での個展の旅から無事戻ってくることができた。今回もまた、深い喜びと学びの旅だった。この旅を巡礼の旅にしようと思っていた私達はまず、家の氏神様をお参りしてから出発した。次いで富士山の「浅間神社」、それから「伊勢神宮」、そして奈良の「天河神社」、「高野山」と下って初めての四国へ上陸した。「大麻彦神社」を参拝したのち、神山の「粟神社」へ参り、屋久島の友達「KENTA」から紹介してもらった宿「楽音楽日」へと向かった。主人の「ひさ」さんも、奥さんの「万里子」さんも、子供達も、最年長の居候「さちこ」さんも、みな気持ちのいい人達ばかりだった。ギターと歌で自分を表現している高校生の長女「あい」ちゃん。絵のポストカードを見せると彼女は驚いて言った。「あーっ!これ知ってる。前に誰かが送ってきてくれて、すっごく素敵って思ってたの。作者が目の前に現れるなんてすごーいっ!ねぇねぇっ。お母さーん!」「ええっ。なにっ、これ描いた人なのーっ!なーんだ。私達もう会ってたんだねーっ。」結局なんだかんだと盛り上がり、帰る時には倉庫を利用した素敵なギャラリースペースを紹介してくれたりと「ま、どっちにしても次来る時はこっちでも絶対個展をしていってね!」ということになったのだった。徳島を出て、母方のルーツである「中村」を通り、足摺岬へ辿り着いた。「唐人駄馬遺跡」。私達の好きなストーンサークルの光景が広がっていた。よく見ると水場までちゃんとあるではないか。私達はここがとても気に入ったので、その日の野営地をこの場所に決めてキャンプの準備を始めた。すると一組の、小さな子供を連れた若い夫婦が尋ねてきた。「あのー。和尚を知ってますか?」「えっ?」なんでも彼らは、この遺跡に暮らしているという面白い和尚の噂を聞きつけて、彼の話を聞くためにここまでやってきたのだと言った。「僕たちも今日は、この辺にテント張らせてもらうんでよろしく!」「よ、よろしく…。」彼らはなんと「中村」からやって来ていた。私達が温泉に行って戻ってくると、「和尚」と中村から来た家族が火を囲んで夕食をとっていた。「居酒屋和尚へようこそ!」茶目っ気たっぷりの和尚が招待してくれた。朝、自ら海に潜って採ったという貝が焼かれ、いい匂いが漂っていた。他にも煮こごりやカレーといった様々な品々が並んでいる。おまけに中村から来た夫婦は豆腐屋とパン屋だった。まるでみんなが今日初めて会ったとは思えないほど、とても自然に話に花が咲いていた。確かに和尚の暮らしぶりはおもしろかった。以前は禅宗の僧侶としてお寺に入っていた頃もあったようだが、今ではアウトローな坊主として、こういう生き様を表現しながら色んな人々と出会って日々研鑽を積んでいた。一日の生活を見ていると、夜遅くても、朝は誰よりも早く起きて火を起こし、身の回りの掃除をして、まずは一日分のお茶を薬缶で作るというところから始める。アウトサイドでも雲水のスピリットで生きている本当に素敵な人だった。私は絵描きで、これから個展のために屋久島に向けて出発するのだと話したらペットボトルに作り立てのお茶と、おにぎりと貝のお弁当まで持たせてくれ「成功を祈っています。いってらしゃい!」と笑顔で見送られたのだった。帰りは佐賀で個展をすることになっていたので、行きはダイレクトに九州を縦断して屋久島に直行することにした。途中、ちょうど阿蘇山を通っている時に友達のミュージシャン「奈良大介」から電話が鳴った。そういえば四国で繋がった「楽音楽日」は奈良ちゃんが一年で一番多くライブをやっているところだった。結局、動く所その先々で仲間との繋がりを確認し合ってる気がして嬉しくなった。今回はわざわざゆっくりと屋久島に向かうために道中は二度フェリーに乗った。我が家のオオカミ犬「nociw」もだ。けれど、鹿児島ー屋久島間は今までで時間が一番長く、彼女はよく頑張ってくれた。フェリーが着いたら「KENTA+NAO」が迎えに来てくれている筈だった。が、いない。電話をすると時間を間違えていたらしい。「おおーっ!おかえりーっ!」「ノチューっ。よく来たねーっ!」再会がめちゃくちゃ嬉しかった。2月に東京で会ってるから、たった4ヶ月ぶりだったのだが。まずは、彼らの家でちょっと休憩してから永田の舞踏家「虫丸」家で昼食に呼ばれた。虫丸さんは翌日から韓国、そしてフィンランドへと舞踏の遠征に出かけることになっていた。そして、ここにはnociwの息子「ドン」が暮らしている。さっそく田んぼの側の鶏小屋に繋がれたドンの元へと会いにいった。彼は大きく立派に育っていた。が、「甘えん坊で目立ちたがり屋!」という奥さんの「ひろみん」が言うとおり中身はなんにも変わってなかった。兄弟の中で一番我慢を強いられる環境にいるかもしれないドンだが、散歩の時の風景や、その分たくさんの人達に愛されて育っているのが垣間見れて、本当にありがたかった。個展でお世話になる「くみ」ちゃんの所に挨拶に行った。「よろしくお願いします!」「どーもっ。∀さんの絵をここに飾ってもらえるなんてすごく嬉しいっ。ありがとう!」くみちゃんとは昨年、屋久島で初めてやった個展で会った時に、少し話をしたくらいだったのだが、その後東京に戻ってきてからメールをもらい、「本当にいい作品というのは、本当にいい人間から生まれてくるものなのだと知りました。」と書かれていて、私にはその言葉がずっと心の中に残っていた人でもあった。今回の個展会場は永田にある「OHANA CAFE」。この場所に決まったのは「NAO」がある満月の日に森の祠で「今回、∀にぴったりの個展会場はどこでしょう?」と想いを巡らせていると、「くみちゃんのところ!」という声を聞いたからだった。翌日セッティングが終わった時には、くみちゃんが大興奮して「NAOちゃん本当にありがとう。この場所を選んでくれて!」と何度も言ってくれていたが、NAOは「いやいや私じゃないんだって!私はただ動かされただけだから。」と言っていた。オープニングの日、予想に反して雲行きが怪しくなってきた。「龍神様がきてるからじゃない?」誰かが言った。「ま、雨というのも浄化だからね。」そう思って、すべてを受け入れる姿勢でとにかく楽しもうと心に決めた。すると空が今度は晴れてきて、面白い形の雲をたくさん見せてくれた。個展に辿り着いた人が言った。「今、車で向かってきたらこの場所の上空だけ龍みたいな雲が渦を巻いていたよ!」目の前の海が輝き出し、NOBUYAのDJとともにオープニングパーティーが始まった。大人も子供も犬も、みんな踊った。海に向かってあんなに踊ったのは本当に久しぶりだった。ただただ気持ちよくて自分が「今、ここ。」にいることに感謝しながら踊った。NOBUYAもそんなみんなを見て、たいそう満足げだった。今回、屋久島のみんなのことを思ってずっと描き続けてきたフラッグの新作を初めて発表したのだが、屋久島の仲間達はとても気に入ってくれたようだ。「なーや」もクリスタルボウルの演奏を「この旗に捧げるつもりでやりたい。」と言ってくれた。屋久島に着いた日、スーパーで声を掛けられ振り向くと私の誕生会に突然現れて歌をうたってくれた「かな」がいた。「えっ。何でここにいるの?」「このタイミングに合わせて屋久島にきちゃいました!個展のオープニングには一緒に泊まってるゲストハウスの子たちを大勢誘って行きますからね!」彼女が言った通り、永田のみんなが驚くほどその日は人が集まっていたそうだ。「神様が連れてきた桜なんじゃない?」KENTAがニヤニヤしながら言った。夜には月も顔を出して深夜には、それがnociwの目とそっくりになっていた。その日来てくれていた「徳州会病院」に勤める「まさみ」ちゃんは会期中に再びやってきて「あのオープニングの翌朝病院の窓から、もの凄くはっきりとした虹がかかっていたんですよぉーっ!」と興奮気味に話してくれた。今回、屋久島で私の絵に運命的に出会ってくれたという人達がいた。その中でも「はな」ちゃんという6才の女の子は自分の貯金で絵を買ってくれた。なんというか胸の内が「キューン」となる感覚を味わった。「この絵のどこが気に入ったの?」という問いには「アリスの世界だから!」という答え。嬉しかった。子供達に言葉はいらないのだ。それにしても屋久島に暮らす人々の私の絵に対する反応というのがおもしろい。海外で個展をした時のリアクションにとても似ていて楽しいのだ。誰もが個性的なので反応の仕方もまたおもしろく、こっち側から見てて本当にワクワクする。つまりは、やりがいがあるのだ。ガイドをしている「みき」ちゃんは、あの後、仕事で森をガイドしていると「何度も森の中から∀さんの絵が現れてきたんです!」と興奮気味に話してくれた。それと、東京や横浜からわざわざ駆けつけてくれたファンの方達がいたのも嬉しかった。しかも屋久島の中でも超ローカルな町の、パッと見ではちょっとわかりずらいかもしれない場所だったのにもかかわらず、探して来てくれてありがとう。カフェを手伝っていた「ひろみん」が「来年は∀と行く屋久島個展ツアーとかにした方がいいんちゃう?」と言い出して、それを聞いた屋久島の仲間達はガイドも多いので「それいいね!」と異常に盛り上がっていたので、ひょっとしたら来年はそんなことになってしまうかもなのであった。個展のあと、満月のあくる日に「益救神社」で行われた「手作り市」にも参加した。この市は「KENTA+NAO」が今年の2月に初めて「ござれ市」に来て感動し「屋久島でもこういう市があったらいいな!」と思い立って帰ってから即実行に移し、実現することになったもので、屋久島仲間の「なーや+たかえ」夫妻も加わって4人が実行委員となり営まれていた。私が参加したのはまだ第2回目だったが、今後この市がずーっと続いていって、屋久島の未来が笑っている姿を想像すると嬉しくなった。と同時に、この屋久島の4人の仲間達に深い尊敬の念を抱いた。宮司さんが現れた。彼は新作のフラッグの絵をしばし眺めたのちこう言った。「両手を出してください。今からその手にタマを乗せます。」私は言われるまま両手を差し出し、そして目をつぶった。「はい。タマが乗りました。そのタマが見えますか?」「はい。見えます。」「それはどういうタマですか?」「フワッとしていて、黄色みを帯びた白いタマです。」「はい。それではそのタマを体に入れてください。」「は、はいっ。」「はーい。これでタマ入れが終了しました。これからあなたには、ますますのご加護があるでしょう。」突然のことで驚いたが「そ、そうなのかー。」というありがたい思いでいっぱいだった。そして宮司さんは言った。「これからは、神様のためにだけ絵を描いていけばいいでしょう。その行為は必ずあなた自身に還ってくることになります…。」この時私は、何故か、もの凄くスッキリしたのだった。そして「この道でいいのだ!」と真に確信できたのである。宮司さんが去ったあと、すぐにNAOが飛んできた。「見てたよー。すごいことだよ。わざわざタマ入れをお願いしに益救神社に来る人たちもいるのに、宮司さん自らなんて!」その夜、空には私の体に入ったタマと同じ月が浮かんでいた。佐賀は、高尾で元隣人だった「えいじ+まりこ」夫妻の、まりこの実家での個展だった。彼らは高尾から奈良に移り住んだ後、息子の「さら」が生まれたこともあり、九州へと帰ってきたのだ。実は今回の旅の最初に奈良に寄った時はまだ彼らも奈良にいて、私達の移動中に佐賀へと移り住んでいた。今年も屋久島に個展に行くことを知ったまりこから「帰りにぜひ家にも寄って個展をして欲しい!」とラブコールをもらい実現することになったのだ。人の家で個展なんて初めてのことだったけれど、家族の皆さんがすべていい人達でほんとうに気持ちがよかった。まりこの実家は「江見」といって、ぶどうなど果物の袋を製造している会社で、家は二世帯で12人の大家族。毎日がお祭りのように賑やかだった。個展は2日間は「毛利」さんというヒーラー兼シェフの自然料理が振る舞われ江見家の知人・友人の方々が大勢集まり、最終日の1日が一般公開となった。この日に屋久島の森の旅人「KENTA+NAO」のお客さんが来てくれたのは嬉しかった。離れたばかりの屋久島からみんなの愛が伝わってきた。采配を振るっていたのはお母さんの「美千子」さんだ。お客さん一人一人に「まずは、絵をじっくり見てくださいね。」と言ってくれたりして、なんだか涙が出そうだった。それに甥っ子、姪っ子たち。それぞれに気に入った絵があって、お母さんにおねだりしたりして…。撤収の作業の時は何も言わず、黙って片づけを手伝ってくれて、最後の夜は一緒に踊った。えいじ+まりこは阿蘇に土地を買って家を立てることになったそうだ。「だから来年からは阿蘇で個展ということになるね!」まりこが嬉しそうに言った。「どうしてここまでよくしてくれるんだろう?」2人の愛も大きすぎて、ただただ感謝しかないのであった。そして本当に幸せそうな彼らを目の当たりにして、私は嬉しかった。最後の立寄先は岡山の「ゆうすけ+あき」夫妻の所だった。彼らはぶどう農家をしながらカメラマンをしている。岡山に移ってから初めて彼らの家を訪れるので私達は楽しみにしていた。東京にいた頃よりもうんと健康そうに見える二人が笑顔で迎えてくれた。「いやーっ。おつかれさまーっ。」「旅の最後がここでよかったよー。」ほんと、ここに来て初めてやっと気が抜けたような気がした。二人の暮らし振りはよりシンプルになっていた。大好きな写真の仕事もできて充実しているようだった。今回立ち寄ったのはフラッグの新作の絵を複写してもらうために預けていくという目的もあった。「うわーっ!すごいね。コレ。」ゆうすけが言った。以前二人の結婚式に出雲大社に呼ばれて参列した時、あのしめ縄がどうしても心に残って離れなかった。そして、描きたいと思ったのだった。フラッグの中央にはそのしめ縄が横たわっていた。「僕ね∀が出雲大社に来たら、絶対インスパイアされて作品を描くと思っていたんだ。これは僕が想像していた通りの絵だよ。やっぱり直感って凄いね!」ゆうすけは興奮していた。「この絵を複写できるなんて、なんて幸せなんだろう!」私にはそんな風に思ってくれるカメラマンの夫妻に出会えたことが、何より幸せだと思った。短い滞在の間、せめて私達にできることをしようと神棚の掃除をした。NOBUYAが外へ出て新鮮な榊の枝を見つけてきた。見違えるようにきれいになった神棚が笑っていた。3人で手を合わせる。「今日から毎日、このお水をかえるよ。」ゆうすけは神妙な顔でそう言った。後日、彼から改まった手紙が届いた。「2人が家にやってきたら風向きが変わるという予感がしていたんだけど、実際あの日から滞っていた農地交渉がスムーズに行き始めてすべてが順調です。」「よかったな。」と思った。佐賀の個展の一番最後のお客さんは、78才の女性カメラマンだった。その人が「あなたの作品やあなたの背後に、どうも龍の気配がするのよ。」と言った。彼女はよく空に羽ばたく雲の形をした龍を写真におさめる機会に恵まれるそうだ。聞くと70年代の屋久島に頻繁に通っていたのだという。その当時の益救神社の宮司さんとも親しかったらしい。結局ずっとつながっていたのだ。私とNOBUYAも旅のはじまりから2人でよく龍の話をしていた。「神社巡りをしながら屋久島へ辿り着いたんです。」とそのカメラマンに話すと「それじゃあ、龍だってついてくるわよ!」と笑っていた。「日本列島の龍の、頭とシッポが入れ替わって、今は頭は屋久島でシッポは北海道なんですよ。」と宮司さんは言っていた。そして「屋久島やこの益救神社を題材にしたあなたの絵のポストカードを7枚セットにして、ここの神社に置いたらいいと思う。おもしろいことになりますよ。」と言っていた。まるで夢のような話だけど確かにそう言っていたのだ。私はその言葉をおおいに真に受けて、いつか7枚の絵を神様に奉納したいと思っているのである。龍神様ありがとうございました。
 
_ 2010.04.28_>>>_満月

「巡礼者」4月20日。我が家のオオカミ犬「nociw」の子供達が1才の誕生日を迎えた日。私の夫「NOBUYA」も二度目の誕生日を迎えた。その日は、アルバムジャケットの絵を手がけた「タテタカコ」のニューアルバムのリリースライブに招待され、高尾の仲間「taba」の車に乗って渋谷へと運んでもらった。彼女のお陰であっという間にライブ会場に着いた私達はすっかり夢心地だった。「こんなにスムーズに渋谷の街中に出られるなんて、まるでどこでもドアみたいだね!」入り口付近に立っていたタカコのマネージャーの「村ちゃ」が、すかさず私達を見つけて中に案内してくれた。「どうぞ、こちらへ。」関係者以外立ち入り禁止と書かれた2階へ上がり「どこでも好きな所に座ってゆっくりしてってください!」と言われ、我らは大はしゃぎ。さっそくNOBUYAはビールを買いに行った。「来てくれたんですねー。嬉しいです!」と「タカコ」がやってきた。「あのー。nociwさんは来てますか?」「うん。来てるよ。駐車場で待ってる。」「わぁーっ。じゃあ終わったら会いに行ってもいい?」「もちろん!」「やったぁーっ!」タカコはとても嬉しそうだった。タカコのライブの前に彼女が大学時代から好きだったという「小谷美紗子」さんのライブがあり、そのあと休憩時間になったのでトイレに急いだ。案の定、女子トイレは長蛇の列だったが辛抱して並んでいると、何やら血相を変えた村ちゃがタカコを引き連れて目の前からやってくるではないか「あ。∀さん!」とタカコ。わけもわからずその場でハグをする。「今、トイレ待ちなんだ。」と言うと「控え室の方のトイレ使って。」と促されたので「ラッキー!」と思い、彼女について行った。用を足して控え室をのぞいてみると、なんとタカコが泣いていた。「ど、どうしたの?」「∀さんに会ったら安心しちゃって…」「???」再び心をこめてハグをした。そんな状況で私ができることといったら、それぐらいしかない。彼女は「あーっ。落ち着いたぁー。もう大丈夫」と言って笑顔を見せた。翌日もらったメールに、あの時は本番前に力が入らなくなってしまい、そんなタカコを見かねて村ちゃが「∀さんのとこ行こう!」って誘ったんだそうだ。そしたら、すぐにあそこでバッタリ会って…。もう、タカコや村ちゃのことを家族だと思っているNOBUYAは、自分のことのようにテンションが上がって、タカコの出番までにはすっかり出来上がっていた。しかも、この日のタカコはバッチリ決めてくれたのである。そのライブは一枚のアルバムを丁寧に味わうように流れていった。これからこの新作を一年かけて、じっくり歌っていくのだという気合いが込められていて、今までに二度見た彼女のライブとは明らかに何かが違っていたのだ。本当に最高だったのである。だからNOBUYAの飲みっぷりにもさらに拍車がかかり、彼はまさに上機嫌だった。ライブ終了後、しばらくしてタカコが「nociwさんに会いたーい!」とやってきたので駐車場まで連れていった。しっぽを振り振り喜ぶnociw。「ずっといい子でしたよ。」と駐車場のお姉さんが言った。「nociwさーん!今日は車でお留守番でごめんねー。」一生懸命nociwに話しかけてくれるタカコ。「あのー。みなさん、打ち上げは来れないですか?」時計を見ると10時。駐車場は12時までだった。「いこうぜ。いこうぜ!」と調子に乗っているNOBUYA。「じゃあちょっとだけね。」私達はまたライブ会場へと戻り、その先を歩いた居酒屋へと誘われるままついて行った。そこでは、今回のレコーディングスタジオで一緒だったミュージシャンの「達久」や「石橋えいこ」ちゃん、アーティスト写真の撮影の時に一緒だったカメラマンの「名和」ちゃんなんかもいて、またまた盛り上がった。ライブ会場で、すでにしこたま飲んだにも関わらず、NOBUYAは気分がいいもんだから、まだ飲み続けていた。あっという間に時間は過ぎ、12時10分ぐらい前になって、慌てて店を出た。もう、まっすぐには歩けないNOBUYAをtabaと両側で支えながらなんとか歩き出した。「NOBUYAさん、ホントに大丈夫?」心配してくれたタカコと村ちゃが店の前で、いつまでも見送ってくれていた。tabaと二人、必死に歩いて何とか12時ジャストに駐車場に辿り着き、渋谷をあとにした。帰り道は早い。高速だとなおさらだ。NOBUYAは後部座席にどかっと倒れこんで寝ていた。nociwは居場所がなくて助手席の私のところにきていた。「ねぇ。トイレ行っていい?」tabaが言った。「もちろん。私も入ろっと。」石川のPAで休憩することにした。トイレから出てきてみると、車の後部座席のドアが開けっ放しになっているのに気がついた。「?」と思い前方に目をやると、なんと駐車スペースの後ろの道路でNOBUYAが立ちションをしているではないか!「ったく、しょーもないヤツだなー。」と呆れて見ていると、用を足し終わったのだが、Gパンのボタンがうまくはめられずにいるようだった。そして靴もちゃんとはいてないせいで、その場でよろけて転んだのである。その瞬間、2tトラックが高速から勢い良くこちらの道路に入ってきたのだ。当たりは暗いし、まさかこんな道路に人が倒れているとは思わないだろう。そのままのスピードで走ってきたらトラックは間違いなくNOBUYAを轢いてしまう!一瞬、時間の流れがスローモーションになった。よく、事故にあった当人がスローモーションの感覚を味わったという話を聞くが、自分じゃなくてもそれは起こるのだなと知った。そしてなぜかその時、私は「生と死は本当に隣り合わせなんだな。」としみじみ思ってしまったのである。そしてハッと我に返り「のぶやぁーっ。あぶなーいっ!!」とまっすぐ駆け出して彼をなんとか道路脇まで引き寄せることができた。その時トラックは、真下に人影があることに初めて気づいたといった素振りで「ギョッ!!」とした顔で身を乗り出して走り去っていったのだ。NOBUYAは相変わらず酔ったまま意識がない。tabaがあとから戻ってきたが、あまりにも今体験したことがリアルすぎて車の中でもそのことは話せなかった。翌朝、二日酔いだと言って起きたNOBUYAに夕べの出来事を話した。まったく何も覚えていないという。なんという幸せなヤツだ。けれど「そうだとしたら、オレは生かされたってことだよな。」とポツリ。「オレは昨日、一回死んで生まれ変わったんだ!」と時間とともに段々と事の重要性を噛み締めてきたようだった。そして「ありがとう。お前はオレの命の恩人だな。オレも、もう一度もらった今回の生を精一杯生きるよ。」とポジティブな言葉が出てきたのだ。本当に幸いだった。連れ合いが死ぬということがどういうことか?いつかはその時がくるにしてもまだ早い。私達にはまだ一緒にやるべきことがたくさんあるのだ。そのひとつはまず、今回の屋久島個展。NOBUYAもDJプレイが待っている。そのあとは九州でも初個展が決まった。運転できない私のせいでNOBUYAばかりに運転手をさせているのは申し訳ないが、NOBUYAも今回の旅は相当楽しみにしてくれている。私の母方のルーツでもある四国にも初上陸するし、私の原画を丁寧に複写し続けてくれている「ゆうすけ」と「あき」が暮らす岡山にも寄る予定だ。九州もゆっくりと回ろうと思う。nociwのために、ほとんどはキャンプ生活にするつもりだが、これも私達らしくて最高に楽しいだろう。絵と音でその土地土地で表現し、人々と交流しあう。それは私達が一番求めていることだ。今回の件が起こったことで改めて、お互いこの肉体が終わるその時まで、生涯をかけて表現し続けていこうと話し合った。「ART WORK IS LIFE WORK」それこそが、私達の巡礼の形だから。
 
_ 2010.03.30_>>>_満月

「タテタカコ」この、不思議な音の名のアーティストのことを初めて知ったのは、あの日の夜だった。我が家のオオカミ犬「nociw」が生んだ6匹の子犬、その中でたった一人7ヶ月もの間、私達とともに暮らした「ドン」。忘れもしない彼が屋久島へ旅立った日。去年の11月の、個展の搬入日の前日のことだった。メールをチェックすると、彼女のマネージャーから「今度出すアルバムのジャケットを∀さんの絵でお願いしたいのですが…」と仕事の依頼がきていたのである。「どうやってここにつながったのか」という、いきさつを知っておどろいた。昨年、長野で参加した超ローカルな市「ひだまりマーケット」で大鹿村の「アキ」さんという人が絵をとても気に入ってくれた。そのアキさんがマネージャーの「村ちゃ」と知り合いで、私の絵のポストカードを彼に渡したのだという。メールの最後には締めの言葉として「僕の直感なんですが。」と書かれていた。タイミングよく、私の個展も始まるのでそこでミーティングをすることになった。「はじめまして。」そこにはマネージャーというイメージからはほど遠い素朴でシャイな「村ちゃ」と、また、イメージしてたのとは全然違った「タテタカコ」という一人のミュージシャンがいた。彼女は長野の飯田を拠点に全国で活動している。村ちゃもタカコも飯田の人だ。だからか、最初からすごくホットする感じがあった。そしてすぐに「NOBUYAを二人に会わせたいな。」と思ったのだった。村ちゃとNOBUYAは絶対合うだろうなと思った。12月の暮れに地元の飯田でライブがあるというので、NOBUYAに「見に行こうよ!」と誘った。案の定、彼らは意気投合し、初対面だというのにやたらと飲んで喋りまくっていた。そしてその夜は彼らの事務所に泊まらせてもらったのだが、この日はnociwと彼女の子供のラマもいた。村ちゃは「あーっ。タテが喜ぶだろうなぁ。動物大好きなんですよ。」と言った。「そうなんだ!」「そーっ。この前、∀さんの個展に行った時も車にnociwさん乗ってて、わぁーっ!って思ってたの。また会えて嬉しい!」と彼女は本当に喜んでいた。初めて聞いた「タテタカコ」のライブはピアノと歌で独自の世界を貫き進む戦士のようにも見えた。「なんてピュアな魂なんだろう。」と思った。ライブの凄みのある圧倒的な感じとは違って、普段の彼女はとても普通の感覚を兼ね備えた謙虚な人だった。でもやっぱり「人間というよりは動物に近いな…」と思わせるものがあった。自分と同じ匂いがするのだ。翌朝、別れ際に「来年、1月に小淵沢で今度のアルバムのレコーディングをするんですけど、よかったら遊びに来ませんか?」と二人が誘ってくれた。「ぜひとも!」私達は喜んでそのお誘いを受けた。そのスタジオは「星と虹のスタジオ」といって、同じ名の歯科医院の後ろにあり、まるでペンションのような建物だった。あたりには気持ちのいい森が広がり、八ヶ岳を見渡すことができた。その名のとおり夜は星空がとてもきれいだった。このスタジオのオーナーで歯医者さんの先生は北海道の利尻島出身の方で、一目見て「わーっ。おもしろそうな人だなー。」とわかるオーラを放っていた。もともとは音楽も嗜む自分のためのスタジオとして作ったものだったらしいが、この環境と先生の人柄に惹かれてミュージシャン達が集まってくるようになり、今はレンタルスタジオとして機能しているとのことだった。この日はnociwと子供のニマが一緒だった。二匹はベランダのデッキにつないで、夜は車の中だなと思っていたらタカコが先生に聞いてくれて、なんと犬達も中に入ることができた。「先生、犬は中に入れちゃ駄目ですよね?」との問いに「なんで駄目なの?」と言ってくれたそうなのだ。「ありがたい!」私達は感謝した。「昨日、先生に北海道の余市出身の夫婦が来るんですよって言ったら、北海道出身と聞くだけで、なんだか親近感が湧くって言ってましたよ。」と村ちゃが嬉しそうに笑った。「はい。じゃーいきまーす!」ピーンと張りつめた緊張感の中、私は思わず息を止めた。レコーディングに立ち会うのは生まれて初めてだった。NOBUYAを見ると楽しくてたまらないという顔をしている。ミキサーの「アセ」さんは、すっごくひょうきんなナイスガイで普段は馬鹿なことばっかり言ってるけど、いざ仕事となると真剣そのものだった。彼は「ナツメン」というバンドのギタリストでもあるが、ミキサーとしての腕も買われ業界では引っ張りだこらしい。その日はタカコも村ちゃも、ちょっと疲れが溜まってる顔をしていた。前日も別の曲のテイクで深夜遅くまでかかり、ぐったりしていたところに突然先生が現れて酒盛りになったのだそうだ。「もー今日はやめたーっ。」と切り替えると、それはそれで気晴らしにもなったようだが、疲れは残っているのだろう。そこに私達人間二人とオオカミ犬二匹の登場にあいなったわけである。あの時から「流れがホント、いい方向に変わりました。」と村ちゃが言ってくれた。さすがにレコーディングの時は、ニマには車に入っててもらった。まだ彼女は子供でバタバタと落ち着きがないからである。でも、nociwはコントロールルームに入っても、もの音ひとつ立てずにじっと座っていてくれるから立ち会えることになった。ガラス越しに見えるピアノとタカコ。村ちゃの目が怖いほど真剣だった。何度も何度も挑むタカコ、そこに容赦なくメスを入れる村ちゃ。私とNOBUYAは「今時、こんなにもひたむきに作品に向き合っている人達がいたのか!」と感動し泣いた。無事その日のテイクは終了し「おつかれさまー。」と乾杯する頃には朝方になっている。そうやって倒れるように寝て、また目覚めたらクリエイトする。村ちゃはみんなより早く起きてご飯をせっせと作ってくれるのだった。それがまた美味いのだ。なんか「オレたち家族だぜーっ!」っていう感覚を味わえて楽しかったな。「彼らは体育会系ですからねぇー。」アセさんが言った。その言葉の中には彼らに対する深い愛が込められていた。2日目、この日はアセさんの妻でミュージシャンの「石橋えいこ」ちゃんと、ナツメンのバンドのメンバーでもあるドラマーの「達久」。そして「エンビー」というバンドの方達がやってきた。今回のアルバムに参加するためである。村ちゃが「よかったら今日も泊まってってください。」と言った。私達は帰る筈だったがNOBUYAが「わぁーっ。すげーおもしろそう。もう一泊しない?」というのでお言葉に甘えることにした。えいこちゃんと達久と4人で近くの温泉に行く。「私達は前のりなんですよ。今夜やるのはエンビーで私達は明日なんです。」その夜は人数も多かったので、私とNOBUYAとえいこちゃんと達久とnociwとニマは1階のリビングルームにいた。1階とレコーディングルームの2階を仕切る板が通される。一応遮音されるのだが私語は禁物。ニマもずいぶんと状況にも慣れて、おとなしくしてくれるようになったから車に入れなくてもよかった。しばらくして板がはずされ村ちゃの顔が覗いた「今録ったの聞きます?」「わぁーい。聞く。聞く」私達は喜び勇んで階段を駆け上がった。エンビーからはボーカルとドラムの参加だったが、それがとてもカッコよかった。タカコのピアノはドラムみたいだから、凄くマッチしていた。エンビーの彼らは好青年だった。というか、参加ミュージシャン、スタッフすべてが本当に気持ちのいい人達ばかりだった。そのことも村ちゃとタカコの人柄を表しているなと思った。3日目。NOBUYAはなんと「ねぇ、もう一泊しない?」と言ってきた。えいこちゃんと達久のテイクも聞いてみたかったのだ。私は仕事があったので「じゃー私は一人で電車で帰るから泊まっていきなよ。」と言ったのだが結局、彼も帰ると言った。このままでは帰れなくなると思ったのだろう。それくらい楽しかったのだ。別れ際タカコが「すみません。色々もっと話したかったのに、こんな状況で。あの、今度そちらに遊びに行ってもいいですか?」と聞いてきた。レコーディング中はそこに集中するのが当然なので気にしてなかったが、確かに彼女と話をもっとした方がいいなと思いその時間を作ることにした。我が家に立ち寄ってくれたのは、都内で仕事をしてきた帰りだったせいで、また二人ともぐったりと疲れていた。とりあえずご飯を食べさせてお風呂に入ってもらったら、少し元気になった。でも、さすがに寝てなかったようでバタンキュー。翌朝は「あーっ。ぐっすり寝たーっ!」と顔色を取り戻していた。みんなで森へ散歩に行ってnociwと戯れる。結局二人は二泊していって、その2日間は初めてじっくり、ゆっくり話ができた。その中で感じたのが二人のnociwに対する接し方だった。村ちゃは「タテさんは好きだよなー。」と言っていたけれど、彼も相当な動物好きだ。特にnociwに、二人とも格別の愛を抱いてくれているのがわかった。朝目覚めると二人の間に川の字になって寝ているnociwがいた。夜の間、布団を出たり入ったりしていたそうだ。「ねぇ、入れておくれよ。」と彼女が来るたび、二人が布団をガバッとめくっていたという。「nociwさんと寝てるとね、すごく気持ちがいいの!」「隣に寝てるんだけど、絶対犬じゃない!」二人は口々に彼女を褒め讃えた。nociwもそのことをちゃんと知っているようで、自分が二人に対して何をすべきかを心得ているようだった。タカコと一緒に温泉に入った。「こうやって、一緒にお風呂に入って、ご飯食べて、寝るって、それだけですごく近く感じるね。」「そうそう、ものすごい安心感がある。もしもワシがウンコ漏らしても絶対大丈夫っていう!」「ハハハハ…」私にとってもこの時間は今回、自分の仕事をする上でとてもたくさんのことを教えてもらった貴重なものとなった。今は、そのアルバムの最終音源を毎日聴いている。DJ NOBUYAが「こんなに繰り返して何度も何度も聞けるアルバムは、本当に今では珍しいことだよ。」と絶賛しているのだ。それはレコーディング風景や音に対する思い、その人となりを見てきた者として情が入っていることも確かだろう。でも、そのことを抜きにしてみても、やはりこれはいい作品に仕上がっていると私も思う。タカコの音のスピリットが、いい意味でとても伝わりやすくなっているのだ。これはタカコの魂と村ちゃのバランス感覚の結晶である。参加ミュージシャン達のエネルギーも大きいだろう。彼女は今回初めて、他のミュージシャンがレコーディングに参加したのだと言っていた。そして、アルバムのジャケットを描き下ろしてもらうということも、初めてのことだったそうだ。このアルバムのリリース記念ライブは4月20日。この日はなんと、nociwのベイビーたちの誕生日でもある。本当に、神様はちょうどいいタイミングでギフトをくださるものだ。タカコに貰った手紙の言葉。「出会ってくれて感謝です。ありがとう。」私も同じ気持ちだよ。
 
_ 2010.03.01_>>>_満月

「魂の戦士」2010年が明けてからというもの、高速でいろんな使者が訪れる。屋久島からの訪問者「KENTA+NAO」は1月末にやってきて、一旦NAOの実家の川崎に帰ったが「聖地参りをし忘れた!」と言って高尾山に登るために再び舞い戻ってきた。「じゃあ丁度ござれ市も行きたかったから、その時に!」ということで2月のござれ市にやってきた彼ら。最初KENTAの顔が見えて「あぁ、来たな」と思ったら「カシャーン」という音が聞こえた。NAOが中々現れない。「もしや…」という予感的中で、なんと、お皿に当たってしまったらしいのだ。彼女は「わーい。またみんなに会えたーっ!」という嬉しさの余り、興奮して足下がまったく見えなくなっていたようだ。少々の傷が発見され、弁償することになったが、周りの業者のおやじ達の「業者価格でいいんじゃない?」という言葉に救われて、なんとか持ち合わせで事が済んだ。今振り返ると、この出来事が今回の旅のスタートだったように思う。NAOも楽しみにしていた「ござれ」に来て早々、こんなことが自分の身に起こるなんて!と思っただろう「あれは完璧イニシエーションだった」と言っていた。そのあと彼女は境内にある高幡山へ登り、八十八カ所参りをしていくうちに「お地蔵さん」達から「大丈夫。大丈夫」と励まされどんどん元気になっていったのだという。ひとつの事柄が起こった時、それをネガティブにとるかポジティブにとるかはその人の気の持ち方次第だが、NAOはもちろんそれを大切なメッセージだととらえ、その事に気づかされて、むしろラッキーだと思ったようだ。「このお皿、なんか不思議だねぇ…」買うことになったお皿は2枚あって、その2枚は色や形はとても似ているが年代と絵柄と金額がまったく異なっていた。その古い方の、高い方のお皿の絵柄がどうも私達を引きつけて離さなかった。そのお皿は江戸時代のものだと言われたという。しかし、その時代にしてはやけにスペイシーな感覚を私達に抱かせた。中央に立つ人物のようなその姿はとても宇宙人ぽかった。「あれっ。これ不思議じゃない?」誰かが気づいて言った。それは四角いお皿で、四つの面に2~3cmくらいの壁があるのだが、その3つにはそれぞれ同じ模様が入っているのに、1面だけまったく何も描かれていないのだ。デザインとしては不可思議だ。「描き忘れたのかなー?」「うーん…」とにかくその日から、彼らが帰る3泊4日の間、そのお皿はずっとテーブルの上に置かれ、NAOのエピソードとともに、ひとしきり話題に登った。私には、みんなに見つめられながら自分のことを話されているその皿が、多いに喜んでいるように思えて仕方なかった。翌日はnociwを交えた5人で、高尾山参拝の旅に出た。久々に参道を歩いて思ったことは、私とNOBUYAが高尾に移り住むずっと前に、よく登っていた頃よりもゴミがうんと減っているということだった。そして客層もずいぶんと若者達が増えていた。しかも「美と信仰」を無意識に大切にしているような若者達が…。そのせいか山に満ちる気も整然としていた。この日がたまたま平日で、人も少なかったせいもあるかもしれない。「高幡不動と高尾もつながってるね」彼らは言った。そうなのだ。気づいてみれば、導かれるままに置かれたポイントで表現をしている自分がいた。高尾山は東京にとって、とても重要な役割を果たしている。それだけは確かのようだ。「高尾と屋久島には何か似たものを感じるよ。だからオレたち出会っているんだろうな」「これはほんの入り口にしか過ぎないかもね」二人は言った。5人で過ごす最後の日。NOBUYAの直感で富士山の麓へと出かけた。2人もそんなにそばで富士山を見るのは生まれて初めてだと言って喜んだ。まずはnociwの散歩を兼ねて森の中にひっそりと立つ小さな神社を訪れた。ここはかつて、私達が高尾に移り住むまで、月に2度はお水を汲みにきていた場所だった。今はありがたいことに、家の蛇口をひねると地下から湧き水があがってくるので、もう水を求めて方々探し回ることはなくなったが、10年くらい前まではお水を汲みにきた人々が静かにお参りしながら過ごしていた聖地だった。ところが、どこからか噂を聞きつけて人々が大勢集まってくるようになり、いつの間にか人々が去ったあとには大量のゴミが残るようになってしまった。そうしてその場のゴミ拾いをしている時にその神社を守る神主と知り合うことになったのだ。「この神社は富士山参りの第一番にあたるところで、昔はここの泉で身を清めてから山に登っていました。年々このようにゴミが増え続けるばかりでは、一旦水を閉じなくてはならないかもしれません」それから数年後、訪れてみると水は閉じられていた。「今はこれでよかったのかもしれないね」森は静けさを取り戻し、浄化されていた。それ以来私達はまた、ちょくちょくここを訪れるようになった。毎年この神社のお札を神棚に飾らせていただいてもいる。何よりこの森と神社が大好きだからだ。私達は大きな山桜の元でしばし休息をとった。あたりは真っ白な雪。真っ黒なnociwとのコントラストが美しかった。私は無我夢中でフルートを吹いていた。光がとてもあたたかい。「この場所は∀の世界そのものだね。すごく同じエネルギーを感じるよ」KENTAが言った。自分が得ているこの感覚を、理解してくれる人がいて嬉しかった。そしていよいよ浅間神社へ参拝することになった。私達も最初に訪れた時に感じたあの、圧倒的なエネルギーを彼らもまた、感じているようだった。「オレたちも結構、いろんな神社はお参りしてるけど、こういう感覚になったのは初めてだわー。母なる子宮に帰ってきたっていう感じかなぁ。人それぞれ神社とも相性があると思うけど、オレたちにはめちゃめちゃ合うね!」しばし社内を歩いた。ここのご神木は何度みても魅了されてしまう。そして滔々と流れる水の音。その時私には、あるひとつのハッキリとしたビジョンが見えた。いつかそれを絵にする時がくるのだろう…。本社脇の全国の神々が祀られている祠を眺めながら、みんなの元へと帰ろうとして歩いていると、ひとつの祠の御幣だけがゆらゆらとゆれているので、そこで立ち止まってじっと見つめていたら真後ろから、神主さんと巫女さん達の笑い声が聞こえた「あの子さ、絶対おもしろいよね!日本人?」「いや違うでしょう!」左右を見渡しても人影がない。私は聞こえなかった振りをして、そそくさとその場を通り過ぎた。待っていたみんなに話すと「駄目じゃん!バレたら。オレたちは隠密なんだから」と叱られた(笑)神様の世界は本当にファンタジーだ。夕日がきれいだった。車窓から見える富士山に「きぁーっ。富士山、富士山」と大興奮のNAO。「今、バッチリ拝めるところに連れて行ってあげるから待ってな!」NOBUYAが得意げに言った。「わぁーっ。すげーっ!」湖が鏡になって、水面に逆さ富士が映っていた。私達は思わずフェンスを乗り越え、湖のそばへと降りたった。引き寄せられるままに、水の中へとそっと入ってみる。すると自分の柱から水の波紋が起こり、それがどこまでもどこまでも…目の前の富士山に向かって広がっていくのだった。それは幻想的な風景だった。時がそこだけ止まってしまったかのように。手を合わせ、美しいものを見せて頂いたことに感謝した。「富士山は屋久島のお母さんだよ。ありがとーっ!」NAOが叫んだ。「屋久島を離れてから、今回の旅は浄化の旅だと思ってずっと進んできたけど、いやぁーこの富士山を見て本当に癒されたよー」KENTAがしみじみ言った。NOBUYAの直感は大成功だったようだ。KENTAが「ねぇ。さっきケータイに送った写真見た?」という。見てみると水面でシンメトリーになった富士山の真ん中に私がぽつんと立っていた。水に入っていたからか、浮いているようにも見える。「何これサイコー!!」「な。おもしろいだろ、コレ。宇宙人とUFO!」「ハハハハ」そしてNAOが言った。「ねぇ、見て。このお皿のまるで水鏡になったような山のような形」「あれっ!そっくりじゃん。その真ん中に立つ何者かといい…」そしてKENTAが言った。「オレずっと思ってたんだけどさ、この皿の模様とあの∀の絵の模様そっくりじゃない?」「おおおっ!確かによく似ている」それは私が「火」というイメージで浮かんできたシンボルのような模様だった。「ははぁ。これでわかったぞ。皿に一カ所だけ模様が入ってない訳が」「この絵がここに入って完結するんだよ!」「おおおっ!」私達は訳の分からない異常な盛り上がり方をして今回の旅を終えたのだった。「あれは一体なんだったんだろう?」今でもあの時の、富士山と溶け合ったような感覚をハッキリと思い出す。KENTAからメールが入った「あのNAOの皿を売っていたおじさんの真後ろに居たお地蔵さん、次回のござれ市の時そこに、お供えと般若心経を捧げて欲しいんだ!」始動開始だ(笑)。
 
_ 2010.01.30_>>>_満月

「誕生日」屋久島からソウルメイトの夫婦「KENTA+NAO」がやってきた。NAOがお母さんの手術で実家の川崎に帰ってくることがメインだったようだが、屋久島で「森の旅人」というガイドをやっている二人は「屋久島の流木を磨く」というワークショップもやっていて「今回、旅行会社の企画で東京でもやるので、そのついでに高尾でもできないかな?」と言われ、私はその話をそのままnicoの「taba」に投げたのだった。その話は着々と進みついに、満月の日に私達は森の中の会場で再会を果たした。昨年3月、屋久島で個展やイベントをやった時、オーガナイザーだった「なーや」の強力な助っ人として紹介された二人。その夫婦のやり取りが私とNOBUYAにそっくりだったので私達は大笑いした。お互い初めて会ったとは思えない懐かしさで、別れた後はもっと強い絆が結ばれた感じだった。そして十ヶ月ぶりの再会。なんだか笑いが込み上げてきた。「この日が以外とすぐきたね!」ワークは大成功で、木=魂をただただ磨いていくごとに、参加した人達のキラキラとした笑顔がこぼれ出して素敵な光景だった。ダンスあり、おいしい森のランチあり、DJありと体と心が癒されたアートな時間だった。翌日は私の誕生日で、仲間達が我が家でお祝いしてくれることになっていた。その彼らがほとんどワークショップに参加していたので、その日もそのまま母屋に集合になり、明日も集まるというのに大騒ぎになった。ちなみに本番では藤野の「haka」が宮廷料理人と称しコース料理を作ってくれることになっていて、高尾のtabaはデザート担当であった。「今日は前夜祭だからこのへんで一旦引き上げよう!」と、みんなが帰ったのが深夜の3時頃で家に泊まることになっていたKENTAとNAOが「誕生日おめでとう!」と第一声を上げてくれたのだった。渡された箱の中にはKENTAが磨いた屋久杉の手製のネックレスが入っていた。「オレ達が来たタイミングが丁度∀KIKOの誕生日なんてすごく嬉しいよ」二人は言ってくれた。私にもそれは同じだった。なぜか出会って以来、常に二人のことがハートに浮かんで、その度に大切なメッセージを運んできてくれるような気がした。それから4人で倒れ込むように寝て、朝ゆっくりと目を覚ました。あまりにも私達がのんびりしているのでnociwが「散歩を忘れてるよ」と催促して、いつものお山へと出かけた。気持ちいい風に吹かれながら「私達は今、遠い日の記憶の糸を辿っているのではないか?」というような気さえした。母屋に戻ってランチを食べて、あとは夕方以降訪れるであろう人々を待つだけとなった。3人がスーパーに買い物に行っている間に、クリーンアップ担当の私は掃除をして清めて…。外に出てみると可憐な椿のつぼみや梅の花が咲いていたので、それらをちょいと頂いて部屋に飾った。すると帰ってきたKENTAの手には花束が、NAOの手にはポットに入った小さな花たちがゆれていた。「屋久島にある花と高尾にある花を混ぜ合わせたかったんだ。オレ達の選んだ花を見て、花束にするのが難しいなーってオヤジさんがぼやいてたよ(笑)」花のエネルギーが加わり一気に部屋が華やかになって、パーティーが始まるぞ!という雰囲気に満ちてきた。それはいきなりやってきた。気づくと、たった一間しかない小さな母屋に人間とオオカミ犬を合わせて「18人いる!」と誰かが叫んでいた。そこには「初めまして!」の顔もあった。前日のワークショップで出会った「phoka」は、以前一度だけござれ市に来たことがあると言って、その顔を見て私も思い出した。「この日がくる直前にhakaさんと出会って、∀さんもくるよって聞いて絶対来たいって思ったんです」ワークショップでは二度目の左手の直感で、自分にしっくりくる木と出会えたらしく嬉々としながら磨いていた。そんな流れで前日も母屋に来ていたのに、この日はなんとバンドの仲間を二人連れだってカムバックしたのだ。そしてライブを聞かせてくれた。それはまるで神様からの音の贈り物だった。いつのまにかみんなが一体になっていて、心地よかった。それは、母なる地球の歌。命の歌だった。「これは友達が作った歌で、この歌をどうしても歌いたくてウクレレを始めたの」彼女は誇らしげにそう言った。そこにNOBUYAのDJが海の音とともに入ってきた。この日はライブでミックステープを一本作って「これがオレからのプレゼントさ」と渡された。そこに居合わせたみんなのエネルギーがいっぱい詰まった貴重な一本となった。時に「THIS IS IT」を観ながらのダンスタイムとなり(2夜連続!)マイケルが大好きなNAOはキャーキャー言いながら踊りまくっていたのだった。「サムゲタン」を筆頭に宮廷並みの料理もデザートも、何もかもが最高で手作りの愛をたくさんいただいた。すべてをみんなと分かち合って笑い、踊った。アートな夜。KENTAが言った「次はまた近々、屋久島で∀の個展だな!」高尾と屋久島がつながった。