2007

 2007.12.24_>>>_満月

「縁」

年末という感じがまったくしないまま、もう2007年も終わろうとしている。

現在私は「simple side.」という本の改訂版の制作の真只中だ。この改訂版では初めて日本語バージョンと英語バージョンの2册が同時に出版されることになった。そして、英語バージョンの方は来年2月にサンフランシスコで開催されるブック・フェアに出品される。それに伴って「せっかくなら作品も見てもらった方がいいんじゃない?」ということで、現地に住む「しのぶ」さんという方が動いてくださり、あちこち私の作品の写真やプロフィールを持ってギャラリーを探し回ってくれた。いくつかのギャラリーからいい返事を貰っていたようだが「全てしのぶさんの直感にお任せます」と託した。そして昨日、彼女がいいと思っていたギャラリーからOKの返事があり、会場が決定したとのメールをもらった。

私の母屋の隣に暮す「えいじ」と「まりこ」は4年前サンフランシスコから日本に移住してきた。ちょうど私がギャラリー「nociw」をクローズした年で、友達を介して知り合ったのだ。その時はまだ私達は高尾の住人ではなかった。彼らが高尾を選んだのは「もう、かつてのように都心では絶対に暮らせそうもない」と思ったからだった。私とNOBUYAはその頃ちょうどオオカミ犬「nociw」を貰い受けることになっており「高尾あたりに引っ越そうか?」と言っていた時で、つまりベストタイミングだったわけである。彼らの家にちょくちょく遊びに行くうち、すっかり「ここは、私達の暮らせる場所だね」と確信するようになり、そんな流れで2人のお隣さんが守備よく引っ越して私達が住むことにあいなったのだ。そんな2人がサンフランシスコで大の仲良しだったのが「しのぶ」さんと彼女の息子の「クー」だった。最初は求人情報を見てベビーシッターのためにアルバイトとして彼女の家で住み込みで働くうち、まるでどっちのきっかけが最初でこうなったのかさえわからなくなるほどにお互いに寄り添いあい、打ち解けあえる関係になっていったという。でも私は「しのぶ」さんが帰国した時に2度会っているのだが、ゆっくりと話す時間はほとんどなかったのだ。ただ、絵は「えいじ」と「まりこ」がファンになってくれていたお陰でちゃんと見てくれていて、2度目にカフェ・スローでの個展に来てくれた時、サンフランシスコ行きの話をしたら、ここまで整えてくれたのである。私のことなどまだよくは知らないというのに…。私は「えいじ」と「まりこ」に感謝した。

そして彼らは来年の1月5日に高尾を去る。次の行き先は奈良だ。彼らは出会った時から「もっと、ここよりも自分達らしい場所が見つかったら移りたい」そう言っていた。そして私とNOBUYAもいずれは互いの生地である北海道を目指している。だから「お互い旅の途中だね」とよく話していた。「でも、束の間だとしてもこうして隣同士で生活してるのは楽しいよ」と。もともと料理好きの「まりこ」は日本に帰ってきてからパンを焼き始めた。そして、今までパン屋さんで修行を積み奈良で自分のパン屋さんを開業する。「えいじ」は1年前から空師の仕事を始めて「これはオレの天職だよ」とまで言うようになった。もともと木が大好きだったから、より深い森を求めて奈良で面接を受けたらみごとに受かってしまったのである。着々と自分達の進むべき道を歩いてきたから、ベストのタイミングが訪れたのだ。私達は心から祝福した。2人の喜ぶ顔が見れて本当に嬉しい。隣にいなくなるのはちょっと淋しいけれど。「えいじ」が言っていた。「オレ達の今度の家はさ。古くて趣きがあってすっげえ広いんだ。ここで∀KIKOの個展ができるねって2人で盛り上がったんだよー」涙が出そうだった。結局人間は縁で結ばれているのだ。その縁に感謝して生きなければ罰があたるだろう。11月に行ってきた出雲大社は「すべての縁をつなぐ」といわれる聖地だった。だから私は祈る。

すべての縁がひとつになりますように…。


_ 2007.12.09_>>>_新月

「Harmonic Earth」

9月のござれ市で初めて出会った「けんたろう」と「ももえ」から依頼されたロゴマークが完成した。

彼らが地元の栃木でオープンしたヨガ+ヒーリング+ワークショップのスタジオのためのシンボルマークだ。その名は「Harmonic Earth」地球に、そして人にも優しい世界中の様々なライフスタイルを学び、実践し、楽しむ場所がコンセプト。3つの柱のそれぞれの活動がお互いに影響し合い、倍音(Harmonic)のように共鳴して、私たち地球(Earth)に生きる、生きとし生けるもの全てにとって、より快適な未来を提案できたらという願いのもとに誕生した。プレオープンはすでに11/11から開始されているが、本当のオープンは彼らの中では私のロゴが完成した時だと言っていた。

私はこの仕事を受けるにあたり、2人が実際に始める場所をこの目で見たいということと、2人と色んなことを腹を割って話し合える時間が欲しいと伝えた、そして2人が好きな場所があったらそこにも連れて行って欲しいと。2人は「そこまでしてもらえるのは逆にありがたい。」と言って喜んでくれた。10月の終わり、私はやっとそのための時間が取れたので2泊3日で彼らの元へと旅立った。2人はこの日のためにどういうスケジュールで動くのが一番いいかということを綿密に話し合っていたらしく、着くなり「今日は家でゆっくりしてもらって早めに寝て、明日は早起きして山登りをします。そのあとは温泉に入って疲れを癒してから家に帰って鍋をしましょう。」ということだった。

これから2人が住まい兼スタジオとして暮す場所はまだ、改装したてでクールな印象を受けた。「僕らも∀KIKOさんがやって来たお陰で急ピッチで準備を進めることができました。ここに泊まるのも実は今日が初めてなんです。」まだ家の勝手がつかめず右往左往していた2人だったが、それでもスタジオを始めるための大切な品々はすでに揃っていた。2人がインドで特注したというガネーシャの像や、ヨガの師匠の顔に似せて作ってもらったという像、師匠の写真、浄化のためのベル。そう、2人は2年間世界中を旅して自分達に必要なスキルを学んできたのだった。その旅の途中で私のHPを見て私の存在と絵を知り「日本に帰って自分達のスタジオを開く時は絶対に∀KIKOさんにロゴをお願いしよう!」と心に決めていたそうなのである。自分の知らないところでそんな意志が働いていたとはなんとも嬉しい限りだった。「実はまだお風呂のお湯が出ないんです。何とか今日までに間に合わせたかったんですが駄目でした。」その日私達はスーパー銭湯のような所へ行った。その時、ももえから彼女の生い立ちから現在までのいきさつを全て聞かせてもらった。お風呂につかりながら一生懸命に話すももえ。私も一生懸命に彼女の話に耳を傾けた。「なんてピュアで優しい子なんだろう。」私はそう思っていた。そういえば「ござれ市」で初めて会った時も彼女は涙を流していたっけ。「これで、何かが変わりそうな気がします。」と。

翌日は日の出とともに起きて外に出て洗濯物を干しながら、朝日に向かって合掌した。向かった山は那須にある朝日岳。標高は1800メートルくらいだっただろうか?2人も山登りが好きなようだが、実は私も好きである。ちょうど紅葉が始まってきた頃で山々の美しさといったらなかった。私達はゆっくりと山の景色を楽しみながら登った。この時は逆に余りしゃべらなかったが、その時間がとても愛おしいかった。山に言葉は無用なのである。一息ついた時、私は持ってきたインディアン・フルートを吹いた。たまらなく気持ちがよかった。すると鳥がいっせいに山あいから飛び立っていった。「鳥たちが共鳴していましたね。」けんたろうが静かに言った。降りすがら、けんたろうはターメリックのように黄色いチョークのような石を見つけて、嬉々として岩々に顔を描いていった。ももえが「何だか全部けんちゃんに似ている。」と言った。確かにみんなどこかトボけていてけんたろうに良く似ていた。山を降りると次は温泉が待っていた。2人が大好きな温泉だという。車を降りてしばらく歩きながら坂を下ると、まるで狐につままれたようにその温泉は現れた。本当に古くていい風情を醸し出している。中へ入るとちゃんと神々が祭られていて、それもまた私好みだった。そこにいくつかあるお湯の内、彼らが最も好きだというお湯は混浴だった。2人は私に気を使って別の湯を案内しようとしていたが「私はまったく気にしないよ。」と告げて3人で一緒に入った。出会って2度目で裸の付き合いをしてしまった。2人が心から喜んでいるのが私にも伝わり嬉しかった。そして本当にいい湯だった。

家に帰りみんなで鍋の準備をして夕食を共にした。もう明日は帰るという時間がきたのだ。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまい、けんたろうは何かもっと色々と説明をしておかなければならないんじゃないかと少々焦っているように見えた。けれども、もうその心配はいらなかった。この2日間で私は十分なほどの2人に関する大切なメッセージを受け取っていたからである。そのことを伝えると、彼はホッとしていた。「そうだった。∀KIKOさんには喋り過ぎる必要はないんでしたね。」「私達が外国の地で∀KIKOさんにこの仕事をお願いしようと決めたけれど、その時は∀KIKOさんはとても遠い存在で、まさか本当に実現するなんて思いもしなかった。それなのに今こうして一緒にお鍋を囲んでいる。不思議だな。願いは叶うものなんですね。」ももえが言った。その通りだと思う。私はちっとも遠い存在なんかではないし、むしろ自分の絵に対して喜んでくれる顔が直接見られることは、このうえない幸せだと思っている。2人にロゴの完成は伝えたが、彼らのリクエストで私が選んだ額に入れて欲しいとのことで、渡すのはまだ先になりそうだ。2人は見たいのは山々だがあえてその時間も楽しみに待っていてくれるという。私は今回の縁も神様から与えられた大切な贈り物だと感じている。そう思えるからこそ、2人のために、2人のことだけを思い全身全霊をかけてクリエイトすることができたのだ。

人々を通して伝わっていくエネルギーを想像すること。それが私の仕事です。


_ 2007.11.24_>>>_満月

「出雲大社」

はじめて出雲大社へ行ってきた。今、このタイミングでというのが不思議でならなかった。

それはギャラリー「nociw」時代からのファンで今では大切な友達となった「大谷悠介」と「亜希」の結婚の儀に招かれたからである。岡山県出身のゆうすけと茨城県出身のあきがどうして出雲大社かというと、ゆうすけがよく子供の頃初詣でで出雲大社を訪れていてゆかりがあったからだというが、何か彼の中でも「ここだ」という直感が働いたのだと私は思う。場所が場所だっただけに参列者も限られていて、ゆうすけとあきの親戚とあきの高校時代からの親友「はる」と「まゆみ」と二人の写真学校時代の親友「ゆうこ」と「たつなり」、たつなりの彼女の「ゆかり」。そして私とNOBUYAだけだった。二人の親友が招かれるのは当然だが、なぜ私達までも招待してくれたのか?「僕らにとって二人との出会いと存在は大きく、夫婦としての理想の姿だとずっと思っていたから、どうしても二人には参列してもらいたかったんだ」とゆうすけは言ってくれた。その二人の気持ちがとても嬉しくてありがたかった。

式の前日、出雲は雨と風で天候が大荒れだったという。でも、当日私達が着いた頃は、ウソのように空が晴れ上がり絶好の結婚式日和となっていた。緊張した面持ちのゆうすけと美しい白無垢姿の花嫁のあきがそこにいた。いつもとは次元の違う二人を見て「あぁ、今日は特別な日なのだな」と感慨深かった。いつもは神社へ参る時、賽銭箱にお金を入れて鈴を鳴らし、礼をして拍手をし、その前に広がる座敷と祭壇を遠巻きに眺めながら祈るのだが、今回はその座敷の中に通され儀式を見守ることになった。当たり前だがそこは非常に浄められていてとても神聖な空間だった。厳かに式が進む中、鈴を鳴らし柏手を打つ音がひっきりなしに聞こえてくる。一心にこちらに向かって祈る人々の姿が見えた。この出来事が同じ場所で同時に起こっていることに気づいた時、不思議な感覚に襲われた。玉串という榊の枝をそれぞれに持ち八の字を描くように交わってから祭壇の前で「誓詞」という誓いの祝詞を新郎が読み上げる番がきた。控え室で「間違わずに、ちゃんと読めるか不安だよー」とこぼしていたゆうすけだが、本番にはびっくりするほど大きな声ではっきりと神様に自分の言葉を告げていたのには感動した。その時ゆうすけの本当の姿を見た気がした。ニ礼四拍手一礼。普通神社では二拍手だが、ここではその様式も違っていた。二人が三三九度を酌み交わし、最後に参列した者全員で一緒に祝いの盃を飲み干した。

出雲大社は国津神系の神社の中心。伊勢神宮は天津神系の神社の中心である。私はこの二社のうちきっと先に伊勢に参るのだろうと思っていたのだが、出雲だった。これにもきっと意味があるのだろう。出雲の祭神は「オオクニヌシノミコト」つまりは大黒様だ。そしてこの日は一年に一度全国から八百万の神々が集まる「神在祭」の最中でもあった。たまたまこの時期に式を挙げることになったそうだが、何というタイミングだろう。まるで二人のために八百万の神々たちが集まってきたように私には思えた。二人の魂は本当にビックリするくらいきれいで曇りがない。今まで付き合ってきて、会う度いつもその純粋さに胸を打たれてきた。そんな二人のことを神様が放っておくはずはないだろう。きっと全員でお祝に駆け付けてくださったに違いない。

式が無事終わり、玉造り温泉という千年以上の歴史を持つ温泉地にある宿に向かった。そこで夕食を兼ねた祝いの宴が始まったのである。参列者を一同に会してまずは全員の紹介を新郎と新婦がそれぞれにおこなった。新郎側の最後に私達が紹介された。きっと親戚の方々も私達がいったい何者であるのかと思っていたであろうし、私達も本当は似つかわしくない場所にいることに少々恐縮していたのだが、ゆうすけがまた大きな声で皆に告げたのだ。「今回僕の友人の代表として招かせてもらった∀KIKOさんとNOBUYAさんの御夫婦です。僕が東京に出て一番影響を受けた人達です。人間が生きて行くうえで本当に大切なものは何なのか?そのことを芸術を通して教えてもらいました。お二人が今日ここに来てくださったことがどんなに嬉しいか計り知れません。」そのあと、ゆうすけの両親や親戚が代わる代わる目の前に現れて「教師やサラリーマンの多い固い家系の中で突然変異のように現れたゆうすけです。どうかこれからもよろしくお願いします」と言ってくださった。ゆうすけは二年後には地元岡山に帰りぶどう農家を始めることになっている。その夢を今年の正月に帰省して初めて両親に話した時は父親と大げんかになったそうだ。でも最終的にはゆうすけが本気であることを理解してくれ、今では応援してくれているのである。私はお父さんに言った「ゆうすけは本当に豊かな感受性を持った人間です。彼は必ず立派な農業家になるでしょう。どうか信じてあげてください」宴の後は温泉に入り、そこであきの親友やお母さんと裸で語り合った。

翌日は宿をチェックアウトして、ゆうすけの車に乗りNOBUYAと三人で再び出雲大社へと向かった。少し歩くとそこはもう海で、もともとの出雲大社があったという浜があり大きな岩の上に鳥居と祠があった。神様は海を通ってそこから現在の大社までやってくるとされていて、今でも大切な神事の時はこの浜から儀式が始められるそうだ。私達はその岩にむかって静かに手を合わせた。「まさか二人とこの場所に立てるとは思いもしなかったよ。ほんとに嬉しいな」ゆうすけが言った。私はぶらぶらと砂浜を歩いていき、とても美しい桜貝を見つけた。二枚の貝が開いて一ケ所で繋がっている。「まるで二人のようだな」と思い、ピアスを入れておくために持っていたフタが透明な小さなケースに蝶々のようなその貝をそっと入れてゆうすけに渡した。「これ、二人に。神様からの贈り物だよ」「うわぁきれいだな。ありがとう」そこからすぐの出雲歴史博物館の前まで送ってもらい私達は固くハグを交わした。ゆうすけがポケットからさっきの貝を取り出した。

二枚の貝はぴったりと重なり合いひとつになっていた。


_ 2007.11.09_>>>_新月

「あわい」

先日、高尾仲間の「さちよ」から読んで欲しいと渡された本「狐笛のかなた」を読み終えた。

この本が私の元へとやってきたきっかけは、先月の「ござれ市」にさちよが来た時、私の絵の中のある一枚を見て「今自分が読んでいる本の中の私のイメージとまったくそっくりなの!」と彼女が驚いたからだった。あまりの嬉しさに、さちよはその絵のコピーを買って「これから毎日家で見ることができると思うとなんて贅沢なんだろう」と言って帰っていった。翌日、アトリエに着いてみると、ポストに茶色い紙袋が入っていた。さちよからだった。「昨日言っていた本です。返さなくていいんで、時間がある時に是非読んでみてください。昨日はあまりにも興奮してしまって…」中には本と一緒に手作りのリンゴジャムとバジルペーストが入っていた。さちよはもともと四国は高松の人で、以前には地元で自分で作ったお菓子を出すお店のオーナーもしていたそうなのだ。息子の「なるき」が生まれたことや、だんなの「とも」がこっちの人でそばの板前をやっている関係で、友達のそば屋で働くためにみんなで出てきたらしい。そして縁あって今、私達はご近所さんとしておつき合いしているのだった。

ただ本を渡されるよりは、さちよの前振りがあったために、私はその本の存在が大いに気になってしまった。実は以前にもギャラリー「nociw」をやっていた時に、初めて入ってきたお客さんが絵を見て「ハッ」と驚き「私が子供の頃、母によく読んでもらっていた大好きなお話があって、その話を聞きながら自分で勝手に想像していた世界の絵がまさにこれとまったく同じなんです!」といきなり言ってきた人がいた。そして、その女性は何の迷いもなくその原画をそのままさらって行ってしまったのだ。それから数日後、再び彼女はやって来た。「あの時の本というのが、これです。お時間があったら是非読んで欲しいなと思い勝手に差し上げるために持ってきてしまいました」それは「銀のほのおの国」という本だった。

私は「狐笛のかなた」に手を触れて読み始めた。とたん、そのままするすると物語りに吸い込まれるようにその世界に入ってしまったのである。その中で一番気に留まったのが「あわい」の存在だった。「あわい」とは間のこと。この物語りでは「この世」と「あの世」の境目のような場所で人間には決して訪れることができないとされている。目で見る実体ではない世界だから、いつでもどこにいても行ってしまえる世界でもある。この「あわい」のような存在を私はいつも意識して過していたということに、この本を読みながら改めて気づかされた。高尾の数駅隣には「はざま」という駅がある。この駅に停車して駅員さんが「はざまー。はざまー」と言う度、私は毎回「はざまか…」と妙に感慨深く思ってしまうし、アトリエから駅に向かう道に川が流れていて、そこに架かる橋は「両界橋」といい、ここを渡る時も「両界か…」と必ず両方の世界ということを思ってしまうのだ。そう考え出すと、生と死、光と闇、男と女など二つの全く別の性質のように見えるものの間にも、「あわい」が存在しているような気がしてくる。物事にも善か悪かなんてきっぱりと割り切れるものなんてありはしないんじゃないかと思えてしまうのだ。ましてや人間が判断してしまえるほど、この世界は愚かではないはずである。

「銀のほのおの国」も「狐笛のかなた」も児童文学だった。子供の頃に読んでハマった本には確かに自分を丸ごとその世界に放り込んで自由に生きていたなと思う。そういう意味では私達はすでに「あわい」を行き交う者たちでもあるのかもしれない。

この本を贈ってくれたさちよに心から感謝します。


_ 2007.10.27_>>>_満月

「アイヌの翼」

台風の来た27日。高尾にあるカフェ「TOUMAI」で高尾仲間のアイヌの唄者「床絵美」のライブがあった。

よりによってこの日に限ってこんな凄い天候に恵まれたことを思うと、何か絵美らしくもあり、カムイの仕業のようにも思えてしまった。当日NOBUYAはスタッフとして早くからライブの準備に出かけて行った。ライブは7時からだったので、6時頃NOBUYAが迎えに来てくれてTOUMAIに辿り着くと、絵美のだんなの「Ague」がドア口に立っていた。顔を見ると緊張していると見え目が心無しか泳いでいる。無理もないだろう。7月に私の個展の中のライブイベントとして絵美に唄ってはもらっているが、絵美のソロライブとして本格的に活動するのはこれが初めてといえるくらい、記念すべき日だったからだ。

ちょうど一年前、TOUMAIの存在を教えてくれたのは、絵美とAgueだった。「∀KIKOの個展をやったらいいのにーって思ったすごく素敵なカフェを見つけたから今度ぜひ連れて行きたいんだ。」ある日二人に連れられてやって来たそのカフェは「えっ、高尾にこんな場所があったの?」と思えるくらい高尾離れしていた。どこかのリゾートっぽい雰囲気を醸し出していて、ゲストハウスを併設するカフェ・レストランのようでもあった。でも、私が感じた一番の印象は「お店で働くスタッフの心がなんてきれいなんだろう。」だった。メインのスタッフは二人、おいしいご飯を創る「タカ」と入口のお店で自らセレクトした雑貨や洋服を置く「ヒカリ」だ。その彼らのバイブレーションが気に入って、別の日にさっそくNOBUYAを連れて行った。すると、その時にめったに高尾には居ないというオーナーの「由紀」ちゃんがいたのである。なんとそこは由紀ちゃんの実家だった。由紀ちゃんのお父さんの夢が昔から「人が楽しく集える場所を創りたい」ということだったらしく、その夢を娘の由紀ちゃんが去年みごとに実現させたのだった。TOUMAIとはアフリカの言葉で「最古の人類」という意味らしい。私達は由紀ちゃんのことも、会うなり大好きになった。彼女は昔、アフリカ大陸横断バスというのを自分でチャーターして旅行者を募り何度もツアーを計画したりしていたかなりぶっ飛んだ女の子で、その後もその経験を生かして本を書いたり、写真を撮ったり、各地へ講演に呼ばれたり、はたまたオヤジ達をモロッコだのブータンだのと連れて行ったりしているのである。

今回のライブで一番骨をおっていたのは「海沼武史」だろう。彼も高尾の一員で写真家として個展などをやりながら、20年間やり続けてきている音楽に並々ならぬ愛と情熱を抱いている人間の一人である。その彼が絵美の唄と出会い感動し、彼女をプロデュースしていくことで自らの才能の新しい表現方法を見い出していったのかもしれない。この一年あまりの間に彼は絵美の中に残された多くのアイヌの唄「ウポポ」をレコーディングすることに力を注いでいた。そして彼の妻である「つくし」も絵描きなので、今回のフライヤーを製作したり会場のデコレーションをしたりと協力を惜しまなかった。この二人には私から言うのも変かもしれないが、絵美やAgueに心からの愛を注いでくれていることに対して感謝の気持ちでいっぱいなのである。

さて、7月の個展のカフェ・スローでのライブの時に絵美が初めて組んだミュージシャンの「千葉伸彦」さんが今回も登場することになっていると聞いて私は嬉しかった。あの時をきっかけに、絵美と千葉さんが繋がっていたのだ。私は何を隠そうあの時以来、千葉さんのトンコリと唄がとても気に入ってしまった。「これから絵美と千葉さん、いい感じで繋がっていくといいなー」と内心ひそかに期待していたのである。まだ、ライブまでは時間があったので、控え室の絵美に会いに行った。絵美はいつになく緊張していた。彼女は今、妊婦でもある。「今日はお腹が張っててね。フーッ。」「大丈夫。お腹の赤ちゃんもきっとこの日を喜んでいる筈、絵美は立派にやり遂げるさ。」心の中で私は何の心配もしていなかった。会場へ入ると、この天気の中本当に来てくれてありがとうと思ってしまうほどお客さんでいっぱいだった。アイヌの音楽に合わせてタカとヒカリが準備したアイヌ料理を皆がおいしそうに食べている。千葉さんのトンコリからライブが静かに幕を開けた。しばらく続いたあと、絵美が登場した。さっき控え室で見た絵美とはまるで別人のように背筋をスッと伸ばし堂々と唄い出した彼女。とてもきれいだった。そして驚いたのは二人の音が、前回とは比べ物にならないほど互いに寄り添っていたことだった。終わったあと千葉さんがこんなことを言っていた。「前回のカフェ・スローで演奏したことが音楽家としての自分にとっても、いい転機になったんです。絵美ちゃんと僕も進化しているでしょ?」まったくその通り。音とは互いに共鳴し合いながら永遠に進化し続けるものなのだろうと思う。ライブは静かな感動を呼び起こしながら、無事に幕を閉じた。最前列にいた中年の女性が何度も目をこすっていた姿が印象的だった。

そして今度は11月15日から12月10日までAgueの初めての個展が彼の中野にあるお店で開催される。彼はシルバーの魅力にとりつかれ、ずっと護符としてのジュエリーを創り続けてきた男だ。その彼の記念すべき日々がこれから待ち構えているのである。私達は嬉しくてしょうがない。だって彼と出会った時からずっとこの日を夢見てきたんだもの。本当に幸せだなと思えることは、自分を取り巻く最も身近な人々が幸せであってくれることだと思う。それは人として当たり前の感情だと私は思うのだ。

だからありがとう、みんな。そして輝いていこうぜ。


_ 2007.10.11_>>>_新月

「ジョセフ」と「ドン」

カナダから帰ってきて、早くも2週間が経つが今だその時の熱は冷めないままだ。

そのひとつには、今でもほぼ毎日のようにバンクーバーから、一通のメールがやってくるからである。その送り主は前回のひとりごとにも書いたアートショウに来たお客さんで、その二日前に親友を亡くしたという紳士「ジョセフ」だ。会った時に彼はひとことも口に出さずに、ただ私の絵を讃えるばかりだったが何と実は彼もアーティストだった。そのことを最初に送られて来たメールで初めて知ったのである。しかも、あの時は喪に服していたからか全身黒ずくめのスーツで、佇まいがあまりにもエレガントだったので、まるでどこかの伯爵かと思ったぐらいだったが、彼のHPにある子供の頃から現在までのPHOTOアルバムを見てみると、本当はすげーファンキーな、ぶっ飛びオヤジだったのである。そして出会った時そのままのとてもナイーブな人間だった。それは彼の作品を見れば全てわかった。絵描き同士なので話しをするよりも一瞬でことが済む。彼はアートショウの時にすぐにそれをキャッチしたのだろう。私達の絵は手法は全然違うのだが、どこかで繋がっていた。ソースが一緒だったのだ。彼もまたこの自然界や宇宙からパワーを貰っていたのである。私は今までにこういう感覚になったことはなかった。同じ地球人の絵描きとしてこれほどまでに「同朋よ!」と感じたことはなかったのである。カナダに暮すイギリス人「ジョセフ」。見つけてくれてありがとう。

そしてもうひとつは「ドン」のことだ。彼はアートショウの会場を貸してくれたオーナー「ジム」の友達で、アートショウの前日に私達がセッティングをしている時に丁度、東京で仕事をして戻ってきたところだった。私は彼を一目見るなりその瞳の澄んだ輝きに吸い込まれそうになった。いつか映画の中で見たことのあるネイティブの酋長の目と同じだった。彼はセッティングの風景を興味深そうに見ながら一眼レフでパシャパシャと写真を撮っていたので「きっと、カメラマンなのだな」と私は思った。その日は私達は話しをするわけでもなくただ互いの目を見ていただけだった。アートショウの当日、オープン早々「ドン」は友達を連れてやってきた。そして私のもとへとやって来て「ビューティフル!」と初めて声を掛けてくれたのだ。私は名前を聞いた。「ドン。DON。」と彼は応えた。そのあとは私が英語を話さず、彼も日本語を話さないので会話が続かなかった。それでもそんなことはどうでもいいという感じがして、ただ彼がこの空間にいることが嬉しいなと私は思った。彼は友達とストーンサークルの周りに腰掛けながら絵をじっと見つめていた。そして時折目が合うとあのすべてを内包したような微笑みを投げかけてくれるのだった。ショウが終わる頃、見回すともうそこに「ドン」はいなかったが、私は彼を忘れないだろうと思った。

そして、翌日。撤収作業に取りかかろうとしたその時、「ドン」が一人の日本人女性を連れてやって来た。「ドン!」と思わず私。ニヤッと笑う「ドン」。その女性は言った。「君にどうしても見せたい絵があるから一緒に来てくれと彼に言われて来たの。」その人は日本から今年の初めに移住してきた「ハラマキコ」さんというキュレーターだった。「ゆうべここでアートショウが行われたんだ。」「こんな危険な場所でどうして?」二人の会話をそれぐらいは聞き取ることができた。「とにかく来てよかった。とても素晴らしい作品ね。実はここから少し歩いた場所に、私がキュレーションを務めるギャラリーがあるの。そこはこの辺のスラム街とはまた違うオープンな場所だから、もし時間があったら是非寄ってみて。」彼女はそう言って名刺をくれた。私は「ドン」にありがとうを言った。そして「あなたはカメラマンなの?」と聞いてみた。彼は言った「いや違う。キュレーターだよ。」

撤収作業が終わって私達は「ジム」にさっきの名刺を見せてギャラリーへと歩いて行った。すると何とそこに現れたのは大きな交差点の角にあるガラス貼りの厳かな建物だったのだ。まるでちょっとした美術館のようなそのギャラリーの中へ入るとさっきの「ハラ」さんが仕事をしていた。「ありがとう。来てくれたのね。嬉しいわ。ここのコンセプトはアジアのアートを紹介していくことなの。あなたのアートをここを使って最大限に生かせる企画ができたらぜひ持ってきて。アートショウでは音楽もあったんでしょ?私もいつか音と一緒にやってみたいと思っていたのよ。ここはもともと鉄道の終着駅だった建物で、この交差点は東と西が交わるエネルギースポットでもあって昔は街の中心地として大いに栄えた場所なのよ。この交差点を挟んだ真向かいはネイティブのギャラリーで、よくうちと合同で企画を立てることもあるの」「ハラ」さんは一気に話してくれた。私はいきなりこんな大きな場所を使えと言われてもすぐには思い付かなかったが、この場所に流れるエネルギーは好きだと思った。そして真向かいがネイティブのギャラリーというのが大いに気になった。NOBUYAを見るとニヤニヤしながら「こりゃーおもしろいことになるぞ」という顔をしている。そして私にもここで個展を開いているビジョンは明らかに想像することができた。

私には今、どうしても描きたいという対象がある。それは私達の大切なパートナーであるオオカミ犬の「nociw」だ。2年間ずっとそばにいて彼女に気付かされたことがどれほどあることか。それは言葉にするよりも、私の場合は絵にする方が伝えやすい。そして何よりこれだけ純粋な命と接していて「どうして描かずにいられよう?」というのが私の素直な気持ちなのだ。しかも彼女の両親は別々にカナダから日本へやって来た。「nociw」は日本で生まれたが、彼女の中の血は100%カナダなのである。カナダのオオカミの血なのである。「ハラ」さんが「ジム」のところへ来た時、私の絵の入ったカードを渡そうと思って見てみたら「nociw」の絵のカードしか残っていなかった。それを彼女に渡しながら「nociw」に流れるカナダのオオカミの血のことを私はどうしても言わずにはいられなかった。彼女がそれを「ドン」に伝えると彼の目が一瞬キラッと輝いたのを私は見逃さなかった。そもそも自分が海外で最初に作品を発表することになったのがカナダだったこと。たまたまだったにしろ出来過ぎているような気がするのだ。まだ自分自身でも分かっていない必然性が潜んでいるような予感がじわじわとやってくるのである。私にとってカナダに「nociw」はかかせないものだ。イメージが形を創るものだとしたら、私はカナダでの個展に「nociw」の絵だけではなくnociw自身を自由に歩かせたいなと、そんなことを夢想してしまうのである。

今でも「ドン」は言葉ではなく、想念によって語りかけてくれている気がする。


_ 2007.09.26_>>>_満月

「Full Moon Art Show」

26日の満月。カナダのバンクーバーでアートショウに参加してきた。
その名は「Full Moon Art Show」

2005年に新潟のツアーで出会った「ヤス」と「キョウコ」。その「キョウコ」が今年の4月からバンクーバーヘワーキング・ホリデーで1年間の予定でカナダへと旅立った。旅立つ前に空港へ見送りに来た「ヤス」とともに我が家へ滞在した時「キョウコが向こうに居る間に三人で訪れることができたら楽しいね」という話になった。「ぜったい来て欲しい!待ってるから」と言って旅立って行った「キョウコ」。この話がやがて現実味をおびだし「ヤス」と日程を決めた頃、そういえばカナダといったらあのカップルも暮しているぞと思い出したのが「ユウイチロウ」と「ミチヨ」だった。彼らは2年間の世界旅行に去年の6月に出発し、10月にカナダに入ってからいまだに滞在していたのだった。「ユウイチロウ」は1999年に国立で開いた個展から、「ミチヨ」は2000年にギャラリー「nociw」をオープンしてからのファンだった。「nociw」をクローズする時に開催した個展「wor un nociw」で二人はそれぞれに同じサイズの原画を購入していた。まだ二人が付き合う前の話だ。その後二人が付き合ったという話を聞いて驚き、そしてとても嬉しかった。旅立つ前、二人は揃って「ござれ市」に顔を出し「行ってきます!」と言って旅立って行った。そして旅に出てからも折に触れ「ユウイチロウ」は度々私にメールをくれた。HPの「ひとりごと」をいつも楽しみに読んでくれていたのだ。そんな彼にバンクーバー行きの話しをしたところ、強烈に喜んでくれ「是非会いたい」と言ってきた。「じゃあ今回は久しぶりの顔に会って、大自然を満喫しながらキャンプでもしよう!」とNOBUYAと盛り上がっていた。ところが出発の2ヶ月ほど前に「ユウイチロウ」からのメールで「こっちでできた仲間に∀KIKOさんが来ることを知らせたら、じゃあせっかくだからこっちでアートショウを開いて作品をみんなに見てもらおう!という話が出ているんですがどうでしょうか?」ということだった。NOBUYAにもDJをやってもらいたいという。彼の周りの仲間達がみなアーティストなので、私の絵とNOBUYAの音を中心に現地のアーティスト達の作品とDJとライブでアート空間を創りたいとのことだった。私達は勿論OKした。それはとてもありがたいことだったし、将来海外で本格的な個展をやっていきたいと思っていた私にとって、海外で初めて作品を発表できる場を提供してもらえるというのはとてもいい機会だった。私のOKの返事をそれはそれは喜んでくれた彼はそれから仲間達と会場探しや、もろもろの準備を整えてくれた。

バンクーバーに着いた日に「キョウコ」が空港まで出迎えに来てくれていた。そのままバスに乗り彼女の暮す家へと向かう。半年ぶりに会う「キョウコ」は日本にいた時よりもやっぱり逞しくなっていて、とてもキラキラとしていた。四人で久々の再会を喜び合い一息ついた頃「ユウイチロウ」が今回一緒にショウをオーガナイズしていた仲間の「ワタル」と車で迎えに来た。1年3ヶ月ぶりに会った「ユウイチロウ」は想像していた通り日本にいた時とは別人のように弾けていてとてもいい顔をしていた。「ワタル」はもう9年カナダで暮していて、日本人なんだけど感覚はカナダ人という絶妙な感性を持ち合わせたアーティストで「ユウイチロウ」が言っていた通りメチャメチャいい奴だった。まずは彼らとアートショウの会場の下見へ行くことになったのだが、なんと途中でタイヤがパンクするというハプニングが起きてしまう。「ワタル」が車のトラブルバスターを電話で呼んだがそこはカナダ、1時間以上は待たされた。でもその間、初めて会う者同士のコミュニケーションが取れて互いの緊張が自然にほぐれ、終止笑顔で過すことができた。誰一人到着の遅さをとがめる者はいなかった。私は美しい夕焼けを眺めながらカナダの洗礼をありがたく受け取った。アートショウの会場としていくつかあった候補のうち最終的に決まったのが「ワタル」の友達のお父さんの「ジム」がオーナーを勤めるイベントスペースだった。そこはスラム街の入口にあって、そこから奥は危険地帯とされる場所だったが、スラム街になる前のこの一帯はバンクーバーの中心地として東と西が出会う鉄道も通っていたほどの活気に満ちあふれるエネルギースポットだったようだ。いかにも古い建物の赤い格子の扉を開けるとそのスペースはあった。アートがそこら中に溢れている倉庫のような場所だった。オーナーの「ジム」も私達の到着をとがめず、パンクしたことに笑って同情してくれた。「ジム」は想像していた人物とは全く違って、繊細でインテリジェンスな雰囲気を醸し出していた。アートと音楽が心底好きらしく、スラム化して安く売りに出されたこの建物を買い取って、アーティスト達に発表の場を与えていた。正直言って、その雑多なカオスのような空間を見た時の第一印象は「うわーっ。こりゃあ大変だぞー」だった。でも、もうやるしかないのだから、与えられた空間を精一杯自分らしくするために、私は想像力を使った。そして漠然と見えてきたのだ。「中心にはストーンサークルを作ってこの空間自体のエネルギーを浄化しよう…」私達は翌々日から4日間バンクーバーから数時間フェリーに乗って辿り着くことのできる「ソルト・スプリング島」へとキャンプに向かった。

フェリー乗り場で「ユウイチロウ」のルームメイトの部屋に滞在していた二人の旅人「ケイ君」と「タッ君」に出会った。彼らは前日ロッキー山脈へと旅立ったはずだったが、コインを投げてロッキーかソルトかを占ったところソルトと出たのでフェリー乗り場まで来たが船がなかったのでそのまま乗り場で野宿をしたのだと言った。仙人のような「ケイ君」は以前にもこの島で何週間かを過していたそうで一泊目は彼に案内してもらい、山の中でキャンプをすることにした。ソルトの港から島の中心地まではヒッチハイクで行くしか方法がない。この島には電車もバスもないのだ。ましてや信号さえもない。以前政府によって島に信号機を付けるという話が持ち上がった時、島の住民達が一斉に反対して瞬く間に中止になってしまったそうだ。住民たちの思いはみな一緒で「景観を壊すから」というものだったらしい。私達を乗せてくれた人はサンフランシスコから短期滞在できているという女性だった。島の中心は「ガンジス」と名付けられていて小高い丘が公園になっていた。多分インド帰りのヒッピーが命名したのだろう。総勢7名になっていた私達は分かれてヒッチをし、ガンジスの公園で落ち合った。スーパーマーケットで買い出しをしていざ山へと登る。その森は素敵だった。木々が全て大きくて日本の森とはスケール感が違う。しかも手付かずのままなので森に精気がみなぎっていた。「ケイ君」を筆頭にどんどん中へ入っていくと、木の枝で作られた住居跡らしきものが現れた。「これオレが作ったんだ。ここでしばらく真っ裸で暮しててさ。最高に気持ち良かったよ」と彼は言った。他にも木の皮で作られたイグルーのようなドーム型の住居にも彼は案内してくれた。そこはシャーマンが儀式を行うために作った神聖な建物だった。そこから少し奥へ入った場所に私達は自由にテントを貼った。ワタリガラスが2羽奇妙な声を上げて飛んで行った。その時、森の中にとても美しい赤い枝が落ちているのを見つけ、瞬間的に私は今回のアートショウの守神にしようと思い立った。夜、一ケ所に集まってみんなで夕食を取っていると、人陰が現れた。「いったいこんな山の中で誰?」と思っていると「ケイ君」の友達で「エドウィン」といってこの森の住人だった。年令は60代くらいだろうか?とてもきれいな目をした思慮深くインテリジェンスでお洒落な紳士だった。「ケイ君」がここで暮していた時に知り合ってから、彼の哲学的でスピリチュアルな話を聞くことをいつも楽しみにしていたようだ。「エドウィンがね。みんなに我が家へ遊びにおいでよと言っているよ」「ケイ君」が言った。私達はお言葉に甘えて「エドウィン」の家を尋ねた。ティピのように貼ったブルーシートのまん中に美しくて大きな赤い木がそびえ立っている。私はハッと気がついた。「さっき拾った枝の木だ」そして彼に木の名前を訪ねると「これは、アビュータスといってとても美しい聖なる木さ。数も少ないから貴重なんだよ」私は「エドウィン」の素敵なセンスに感動して私の絵を見せると、彼はとても喜んでくれ、あくる日彼の絵描きの友達を紹介してくれた。

翌日からは「ワタル」の友達の島の人気者でデッド・ヘッズの「ジェイ」の家の庭でキャンプをすることになった。丁度「ジェイ」の誕生日で彼の地元の友達がぞくぞくとお祝に駆け付けていた。「ジェイ」の家の回りには湖と森に囲まれた雄大な自然が広がっている。私は到着するなりそわそわして「ミチヨ」を誘って森に入った。「ミチヨ」とは今まで、個展の時などに少し話をするぐらいでしかなかったので、こんな風に接したのは初めてだった。しかも彼女も日本にいた時とはまるで別人のように輝いていた。「ファンとして、∀KIKOさんの作品を海外で発表することのお手伝いができて本当に嬉しいです」彼女は言った。私は胸が熱くなった。ここの森は本当にとてつもなく豊かだ。苔が異常に鮮やかでファンタジーの世界にいるような気分になる。私達は夢中でストーンサークルのための石と苔を集めた。「ジェィ」の家へ戻ると納屋に置かれていた木々に目が留まった。それはなんと「アビュータス」だった。私は「ジェイ」にアートショウに使いたいから少し分けてくれないかと聞いた。「どうせ薪にしようと思ってたから構わないさ」と彼は言った。やがて太陽が沈み、庭には火が焚かれた。いつの間にか火を囲んでみんなが集まり、音楽を奏でたり、歌ったりしながら夜が静かにふけていった。満天の星空は信じられないほど輝いて時折流れ星が落ちていった。

アートショウの前日、会場のセッティングが始まった。運び込まれた木々を見て「ジム」は「アビュータス!バンクーバーには生息しない美しい木だよ」と喜んだ。そして出来上がったストーン・サークルに手をかざし「ベリーナイス!ソルトの石は相当古いものなんだ。そのエネルギーはとても神聖で高いんだよ」と言った。やがて絵の位置が全て決まって、あとはライティングが重要だなと思っていると、なんと「ジム」が自ら動いてコードを見えないようにしながら、絶妙のポイントにライトを次々に仕込んでいってくれたのだった。私はその時、彼は全部分かっているのだということを理解した。分かっていながら若者達に自由に表現させてみせているのだ。本来は美意識がもの凄く高い人間だったのである。今回は「ジム」の中に眠っていた何かに火が着いたようで、より美しく見せるために、彼が一番動いてくれたのだった。当日、私達は会場に着いて驚いた。ゆうべとは明らかに違っている一つのことに。それは、ストーンサークルに天井からまっすぐに一筋の光りが降り注いでいたのだ。「ジム」を見ると、彼はいたずらっ子の目をしてただ微笑んでいた。

「ワタル」の友達のジャズミュージシャンのライブでアートショウは幕を開けた。そこにNOBUYAのDJの世界が序々に広がっていく。彼も本当にリラックスしていた。カナダ人の耳が肥えていることに感激していたが、彼らもまたNOBUYAのプレイをDJでありながら完全にオリジナルのスタイルを掴んでいると絶賛していたようだ。私の絵に対する反応も日本では味わったことのないほどストレートで感動してしまった。英語をろくに話せない私と分かっていながら、人々は真剣に自分の心の核にあるものを伝えてくれていた。私は思った。自分がたとえ何も喋らなくても、絵を見せただけでこうして向こうからフレンドリーな笑顔でやってきてくれる。本当にアートには国境がないのだと。様々な世代の様々な人種の人達がいた。みんなは自然にストーンサークルに集まっていった。そしてゆっくりと踊りながら絵を存分に味わい尽くしていたようだ。そして誰もが「バンクーバーに来てくれてありがとう!」と言ってくれた。絵を見せてくれたお礼にどうしても貰って欲しいと言って大切な石をくれた美大生、2日前に親友を亡くしてショックを受けていたが、絵の前に立った時、その友達の魂と完全にシンクロすることができたという老紳士、感動で興奮しきっていると伝えに来た車椅子の人。みんなに「ありがとう」と言われ、私の方がありがとうなのにと涙が込み上げてきた。屋根裏部屋のような天井近くにDJブースを構えていたNOBUYAも上から会場を見下ろした時、人々のあまりにもピースフルなバイブレーションに打たれて何度も泣きそうになったと告白した。ショウが終わる頃、ふと見ると「ジム」が気持ちよさそうに絵を見ながら踊っていた。私も踊った。この場を創ってくれたすべての魂を想いながら私は踊り続けた。

翌日の撤収の日。着いてみると「ジム」はまだゆうべのままのライティングで自分だけの時間を楽しんでいたようだった。別れ際、彼はコップに一杯の水を持ってやって来てこう言った。「ここから4時間くらい行ったところに、ホットスプリングとコールドスプリングが湧き出る聖なる場所があって、これはそのコールドスプリングの水なんだ。太古の昔からこの水はネイティブの人々のパワーの元として、とても大切にされてきたんだよ」自分と同じ価値観で世界を見ている人間にこの地で会えたことに、私は心から感謝してその水を飲み干した。ハグをするとギュッと抱き締めてくれた彼。「また、いつでも戻っておいで。本当に美しい時間をありがとう….」

日本に帰って来てからも、あの時、絵を通して出会った人々といまだに繋がっている感覚が残っている。目には見えなくても確かに存在しているエネルギー。改めてその尊さを知ったカナダへのアートトリップだった。


_ 2007.09.11_>>>_新月

「厄払い」

アトリエから一番近いところに住む「ヤマシン」と「クミちゃん」が遊びに来た。

「クミちゃん」は今年、女の最初の厄年だそうで厄払いに行ってくるのだと言った。「そういえば∀KIKOさんは厄払いとかって行った?」二人に聞かれ、私は「そうだ。そんなこともあったなー」と最初で最後の厄払いの記憶を思い返した。丁度「クミちゃん」と同じ年の時、自分ではまったくそういうのを気にしてはいなかったのだが、同い年の友達がそういう事をすごく気にするタイプで「厄払いしたいから一緒に行こうよ」と誘われ「じゃあ、ついでにしておくか」くらいの気持ちで明治神宮へと足を運んだ。厄よけ祈願というのを申し込む際にお札を選ぶのだが、そのお札は大、中、小と大きさが異なっていて値段もそれに伴っていた。「祈りに値段の差があるのも不思議だなー」と思いつつ、私達は一番小さなお札を選び申し込んだ。「しばらくここでお待ちください」と通された部屋には結構待っている人がいて「へぇーこんなに毎日人々が祈願に訪れているのか」と、ちょっと驚いた。時間がきて「皆様お待たせしました。本殿へお進みください」と促され、神棚の前に座る。ほどなくして、巫女さんたちの舞いが舞われ、本命の厄よけ祈願が始まった。祝詞献上が終わり、一同神妙な面持ちで頭を垂れ神主が振る祓いの草で浄めてもらう。「はい。これで厄払いが終わりました。みなさま出口へお進みになり、お札とお品物をお受け取りください」渡された手提げ袋の中にはお札と神餅といわれる祭壇からおろしたお菓子、そしてお神酒が入っていた。「何かわからないけど、とにかくこれですっきりしたよ。来てよかった」と友達。「うん。そうだねー」と私。「ようは気の持ちようってことだよな」と思いながら帰り道、広い参道を歩いていると、途中に公衆トイレがあったので入ることにした。出てきて最後の鳥居をくぐり、原宿駅で切符を買おうとしてハッと気づいた。手提げ袋がないのだ。

友達はこの後、美容院に予約を入れていたので先に行ってもらって、私は一人もと来た道を戻ることにした。「きっと、あのトイレだ。多分そのままあるよ!」友達も「まったく∀KIKOなんだから」と笑い飛ばしながら去って行った。例のトイレまで戻って使用したドアを開けるとなんとそこには、何もなかった。「あー。きっと見つけた人が親切に社務所まで届けてくれたんだな」社務所へ言って聞いた。「あのー。お札の忘れ物届いていると思うのですが」「何も届いていませんよ」「…….」「ちょっと待ってください。念のため他の場所にも内線で確認してみます」「やはり、どこにも何も届いてはいないとのことです」「ま、まさか…」付き合いで来たとはいえ、さすがの私もいい気がしなかった。なぜかどうしても「このままじゃヤダ!」という自分がいた。とりあえず「わかりました」と言って社務所をあとにして、とぼとぼと歩いていた私の目にお守りやおみくじを売る店に立つ一人の巫女さんが映った。私は何を思ったか、つかつかとそこへ歩いて行き、その巫女さんに「あの、トイレでさっき祈願したお札やお神酒なんかが入っている手提げを忘れてしまったんです。届いてないでしょうか!」と聞いていた。聞いても無駄で勿論そんなものは届いてはいなかったのだが、その巫女さん、じっと私の話に聞き入り「もし、自分だったら超ブルーになります。そんなの絶対イヤです。ちょっと待ってください。私が何とかします!」ときっぱり言い切ったのだ。とたんに光りが天上からパーッと差してきたような気分だった。「私は今大学生で、巫女のバイトをしているんです。こんなことは規則ではやってはいけないことで、バレたら大変な目にあいますから慎重に行動しますね。いいですか20分、そう20分後にあの大きな木の影で落ち合いましょう。私はどうにかここを抜け出して、あなたのためにお札に自分で祈祷をして持ってきます。祈りの仕方はいつも見てますから心得ています。心を込めて祈りますから…」「わ、わかりました。ほんとに、ほんとにありがとう!」私は心が急にそわそわしてきて、すぐにその場を離れた。待っている間、私はずっと思っていた。「本当だ。神様は確かにいる」と。

約束の20分後、待ち合わせの場所に彼女は現れた。急ぎ足でキョロキョロと周囲を気にしながら。「無事終わりましたよ」「どうやって抜けて来たの?」「仮病ですよ。突然起こった腹痛です(笑)」彼女の手にはさっき私が忘れたのと同じ手提げ袋が握られていた。中を見るとお札の他に、さっき見た物よりももっとたくさんの品々が入っている。「ありったけのありがたいものを詰め込んできました。御利益の特別サービスですよ。今年はきっといい年になりそうですね!」私の目には涙が浮かんでいた。人のあたたかさに真直ぐに触れた思いがしたからだ。裸になった人間の心は等しく神様の領域にあることを知った。

その年、私には突然のスポンサーが現れ、ギャラリー「nociw」をオープンすることになり、今の自分へと繋がっていくのである。


_ 2007.08.28_>>>_満月

「皆既月食」

我が家のオオカミ犬「nociw」に新しい姉妹ができた。

この間、北海道への帰省の旅で青森にいる「nociw」の姉妹「セロン」の所へ寄った時「彼女たちに妹ができたって知ってる?」と言われ驚いた。「セロン」の飼い主である「堤家」のパソコンに送られてきた画像を見てビックリ!生まれたばかりの二匹の子犬は黒いボディに所々白い毛がアクセントで入っていて、nociwの生まれた頃にそっくりだった。旅から帰ってきてメールをチェックすると、こっちにもちゃんと届いていて「しばらくは我が家にいますので、よかったら会いにきてください」とのこと。あっという間に子犬は成長してしまうので「やっぱり今のうちに会っておきたいね」とNOBUYAと意見が一致してnociwの親と子犬たちが暮す山梨へと向かった。nociwの両親「ウルフィー」と「ラフカイ」の飼い主「かっちゃん」と「ちえちゃん」は去年、東京の山奥から山梨に引っ越して二人で炭の仕事を始めた。まったくのゼロから出発したというのに今では結構忙しくしているようで、お邪魔にならないように私達はキャンプをすることにした。標高1500メートルにある山荘のキャンプ場にテントをはり、何日間かそこをベースキャンプとして寝泊まりして、温泉に行ったり山登りをしようということになった。滞在中には満月と皆既月食も重なっている。誰もいない山の麓で火を焚きながら眺めるのも最高だろうと思ったのだ。

二人が暮す家は、また二人らしいとてもユニークな所だった。長屋門といって昔、お蚕を育てていた館の門に当たる場所で台所も外だし、トイレも風呂もない。が、そんなことは一向にお構いなしの逞しさなのだ。まるでアジアの屋台という感じ。「トイレはその辺の茂みに行ってね。あ、大の方だったら一応声かけてねー」と笑顔のちえちゃん。「お風呂がないからこの前土砂降りの雨が降った時、今だぁーって二人で裸になって体を洗ったんだー。気持ちよかったよー」といった塩梅だ。さて、例の子犬たちは本当に可愛いかった。仮の名前は二匹の個性を表現して「たわし」と「やんちゃ」と名付けられていた。「たわし」は見た目がまん丸で毛がツンツンしていて確かに「たわし」のよう。愛嬌があって人なつっこい。「やんちゃ」はホントは気が小さいんだけど、やんちゃっぷりを見せつける。二匹でじゃれあう時はいつも決まって「やんちゃ」が上。だから「たわし」は寝技がうまい。nociwを見て「やんちゃ」は逃げ出したけど「たわし」は一緒に遊んでいた。nociwが小さい姉妹と遊ぶ姿が微笑ましかった。二人は姉妹だということが互いにわかるのだろうか?「ウルフィー」と「ラフカイ」もとても元気そう。犬達の家族像。それはそれは素敵な光景だった。

急に雨が降り出した。テントをはりっぱなしにしてきた私達は気掛かりだったが「なるようになれ!」という気持ちで今を楽しむことにする。「かっちゃん」がおいしいカレーを作ってくれた。他にも旅人のような彼らの友達が二人来ていたので、みんなで外でご飯を食べる。灯りは裸電球一個。懐かしい時代へとタイムスリップしたかのような気分を味わった。このまま雨かと思っていたら、しだいに空が晴れてきた。「あっ、月食が始まった!」みんなで空を見上げる。こんなにきれいな月食を見たのは記憶の中でも初めてだ。赤く怪しげに浮かぶ月がすっぽりと闇に包まれた。空には満天の星がきらめいている。「わーっ流れ星だー!」大きくて明るい光が目の前をよぎっていった。キャンプ場にいなくても、彼らの家自体がすでに標高600メートルの地点にあったので、大気も澄み心が踊った。「今回はこういう流れだったんだねー」とNOBUYAと顔を見合わせて笑う。月は新月から満月の状態へとだんだんと満ち始めた。普通は15日間かけて見る光景をたったの何時間かで見ていることが不思議だった。「あの月が満ちたら帰るね」地面に座って、ただただみんなで月を眺めた夜。ベースキャンプへ戻る途中、6頭の鹿の親子が悠々と車の前を横切って行った。

いろんな命の営みを想い、生かされていることに感謝する。


_ 2007.08.12_>>>_新月

「帰郷」

お盆を前に先日ひと足早く田舎に帰ってきた。昨年同様車で北海道を目指す旅。親子三人の珍道中だ。

夜の11時に高尾を出発。行けるところまで行こうと張り切って出たが、仕事をしてきた疲れもあって、NOBUYAもヘロヘロになり途中のサービスエリアで夜を明かすことに。朝、目覚めると気の効いたことにドッグ・ランが設けられていたので、nociwを連れて行く。今までドッグ・ランという所に行ったことがないのでどんな感じなのかなーと期待に胸を膨らませて入ってみたが、結局他に犬がいなくて、いつものように一人で走り回ることに。しかも足首だけ出していた私はブヨ蚊に狙われ四ケ所も刺されてしまい、みるみるゾウの足になってしまった。痒いのなんのって。

岩手の一関博物館で現在アイヌの作品展が開催されていて、そこにAgueのシルバーの作品も展示されていると聞いたので、せっかくだから寄ってみようということになる。久々に見るアイヌの伝統的な工芸品とともに、新しい感覚を持った作家達の作品が並ぶ。ショウケースに飾られたAgueの作品達はとても堂々としていた。未来の大人達が同じようにこれらの品々を驚きと尊敬の念を持って眺めているイメージが浮かび、私はとても嬉しくなった。「今日はここら辺で一泊しよう」車に宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を乗せてきた私達は、いざ花巻温泉へと向かった。ゆうべは車の中で寝て疲れが残っていたので、ちょっと贅沢をして宿をとろうということになった。まだまだ先は長いし。nociwを車に残しておくのは忍びないので、一緒に泊れる宿を探す。すると一軒だけあったのだ。ペット可の宿が。私達は小躍りしてさっそく受け付けを済ませた。仲居さんが「ペットは原則としてお部屋に入るまでは抱いて運んでください」と言った。私達は一瞬ドキッとした。「えっ。21kgのnociwを抱いて運ぶのか」と。しかも通される部屋は三階だった。古い宿なのでエレベーターなんてない。「まー仕方ないかー。泊れるだけありがたいんだから」とNOBUYAがnociwを車から抱きかかえ玄関に連れてくると、担当の仲居さんは明らかに驚きの表情を浮かべ固まっていた。そして次に指を口元に当て「とにかくついてきて下さい。さぁ、早く」と先を促した。私は不思議に思い、もう一度受け付け書を見てみると、なんとそこには「ペット可(ただし小動物)」と書かれているではないか。私達は「ヤバイ!」と感じ、とにかくその仲居さんの後を追った。部屋に無事辿り着き、安堵のため息を漏らす。あとは出る時に細心の注意を払って何ごともなかったように去ればいいのだ。私達は三人で泊まる初めての温泉宿を満喫した。

朝、そのまま青森の大間で函館行きのフェリーに乗るために直行した。が、午前中の便に乗り遅れ夕方にやっと北海道上陸。時間的に余市に着くのが夜遅くなってしまうので、近場のキャンプ場で一泊することになった。あくる日、早朝に出発し、やっとお昼頃に我々の故郷へと到着したのだった。今回の帰省の目的はもちろんお墓参り。お盆の頃に帰ったのは何年振りだろう。お婆ちゃんの家に挨拶に行ったら「お墓のまわりが草ぼうぼうで、もうすぐお盆がやってくるというのにどうしよう」と漏らしていたので「明日はお墓の草刈りと掃除とお参りをすることにしよう!」と決める。考えてみれば、お墓の掃除をしたのも初めてかもしれない。ゴシゴシとお墓を磨く行為は明らかに自分を磨く行為でもあるなと思った。最後に水で洗い浄めた時はお墓が「あー気持ちいいー」と笑っているように見えた。そして私達の心もスッキリしたのだった。札幌の山奥に引っ越した妹夫婦の家にも泊まりに行った。東京から札幌へ行ったというのに山から山へと辿り着き、私達の住んでる環境と変わらないことを笑った。結局、価値観が一緒なのだ。翌日はもう帰路の途へ向かうために北海道を後にしなければならない。帰りは青森の三沢に住むnociwの姉妹「セロン」に会いに行くことになっていた。セロンの飼い主の「たかしさん」と「やよいさん」は「お腹を空かせて来てね」と夕食のごちそうをほのめかす言葉をかけてくれた。函館の市場で彼らへのお土産に朝とれたての新鮮な「つぶ」と「ぼたんえび」を買い、昼食に「塩ラーメン」と「いか刺」を食べて港へと急いだ。と、急にどしゃぶりの雨が降り出した。我が家の中古で買ったポンコツのミニキャブバンは雨にはめっぽう弱かった。NOBUYAが「ヤバイ!」と言ったその時、案の定車がエンストを起こし止まってしまったのだ。交差点の曲がり角を曲がっている途中の出来事だった。雨で視界がどんどん悪くなる「た、頼む。お願いだ。かかってくれ!」NOBUYAの顔が次第に青ざめてきた。私は手を合わせ祈ることにした。「神様。どうかこの状況をお救いください」すると「コンコン」と窓ガラスを叩く音がした。開けると手ぬぐいを頭にまいたメガネのお兄さんが現れ「トラブりましたかね?」とニッコリ笑顔で話しかけてきたのだった。その人と一緒にずぶ濡れになりながら後ろから車を押し安全と思われる所まで運んだ。「二時十分のフェリーに乗るんです」「ひやーっ。ギリギリですねー」「交差点の居酒屋の人ですか?」「いやー郵便配達員です。やっぱり見えないかなーハハハ」配達の途中でその人もバイクを置きっぱなしにしていたので「とにかく仕事に戻ってください。本当に助かりました。ありがとうございました」と言って別れてからエンジンをかけると、車は元どおりに走り出した。フェリー出港まであと十分。とにもかくにもこうして再び青森へと舞い戻ったのだった。

一年振りに会うセロンは逞しく、そしてとってもお茶目になっていた。最初は車からなかなか降りてこなかったnociwもしまいには昨年のように、プロレスをしたり金魚の糞のようにくっついて、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと仲むつまじく遊んでいた。たかしさんとやよいさんの友人の「河田さん」という人もたまたま来ていて、この人は山できのこや山菜をとるマタギをしているのだが、この時期は青森の海に「しじみ」をとりにきて東京の料亭などに送っているそうで、とれたてのしじみをたらふく御馳走になった。臭みがなく色艶のいい今まで食べた中で一番おいしいしじみだった。やよいさんの手料理やケーキもいつもながらにおいしかった。たかしさんの熱血教師ぶりを伺わせる面白いエピソードの数々。この人は本物の教師だ。「教師になってる奴らで俺のようなふざけた奴もいないだろう」という言葉に確かに「そうかもね」と納得する。「職場に仕事を持ち込まない」というのが彼の主義だが、自分が高校生だったら間違い無く大好きになっていただろう。セロンとnociwの戯れに終止笑いが絶えない素敵な時間を過ごさせてもらった。私達がこの家を後にする時、セロンは泣きそうな顔をしていた。本当に人間みたいに豊かな表情を見せる彼ら。ここでしか言えないという親バカぶりを披露する私達。一年に一度、いろんな絆で結ばれた家族にこんなふうに再会できることの幸せを改めてかみしめた今回の旅だった。

ありがとうみんな。また来年も会いましょう!


_ 2007.07.30_>>>_満月

「聖なる島と聖なる山」

先日、登山家の「由美子」と彼女の息子の「そうすけ」と彼女が大学の研究所で出会い友達になった「真衣」とで江の島の「江島神社」へお参りに行って来た。真衣とは2003年、由美子が企画した「白山」登山で一緒になり、その後一度ギャラリー「nociw」へ来てくれて以来4年振りの再会だった。私の江島神社参拝も今年で五回目。おととしまでは一人で来ていたが、去年は由美子のファミリーとそして今年はそうすけと真衣との四人でと、ふとした流れでこうなっているのだろうが、何かとても縁を感じさせる組み合わせだなぁと思った今回の参拝だった。四年前と違うことは由美子には「そうすけ」という息子が、真衣には「ちはや」という娘が、そして私には「nociw」というオオカミ犬がいることだ。ちはやはこの日お婆ちゃんに預けられて来なかった。そうすけはこの前会った時よりも、さらにやんちゃっぷりを増していた。私には真衣があれから結婚をして出産をしているとはとても想像ができなかった。しかも出産は信じられないくらい安産だったらしく「あっ」という間に一人で産んだという話には本当に驚いた。なぜなら白山に登った時は、何度も高度の影響で具合が悪くなり、立ち止まっては「苦しい」と言って、真っ青な顔をしながら儚げに息をしていたからである。「女とは本来、強い生き物なのだ」彼女を見てそう思った。

いつものように、三つのお宮をお参りして海へと降りる。四方を海に囲まれた「江ノ島」は古くから「龍神」と「弁財天」の伝説があり多くの僧侶が修行をした霊場として人々の信仰を集めてきた聖地だ。そんなふうに感じながらこの島を歩いている人は果たしてどれくらいいるのかはわからないが、同じものを見ても見る側の感じ方で幾らでも豊かなものを見つけられるというのは実におもしろいことだと思う。波打ち際の岩の上を歩いていると、突然大きな鳥が頭上を横切って木の枝に留まった。トンビがその周りを旋回している。「何の鳥だろう?」由美子と話していると「鷹かな。たぶんタカ科の鳥だと思います」と真衣が言った。彼女の旧姓は「鷹取」。娘の名は漢字で書くと「千隼」。「千のハヤブサ」だった。

白山の頂上ではご来光は拝めなかった。辺り中霧が立ち込めていたのだ。それでも私達は山小屋を出て頂上に辿り着き、そこに鎮座する「白山神社」の「奥宮」である小さな祠へお参りした。標高2.702メートルの白山は「富士山」「立山」と並んで日本三霊山といわれている山であり、祭神は「ククリ姫」という女神で、懐にはたくさんの川の源流を抱き「龍神」が棲むとされる水の豊かな山である。頂上で参拝を済ませた私達はゆっくりと下山をすることにした。しだいに空が晴れ上がってきた。「白山」は桃源郷のような山だ。あちこちで美しい高山植物が咲き乱れている。下山も中盤に差し掛かった頃、なにげなく空を見上げた私は驚いた。何とそこには、くっきりと見事な虹がかかっていたのだ。みんなに知らせ、さっそくその場で休息を取ることにした。「雨上がりでもないのに不思議だねー」由美子が言った。私はあまりの感動でただじっと虹を見つめていた。すると周りにあった雲がどんどん形を変えていき、さっき山小屋を降りたところにあった「白山神社」で見た絵の中の「ククリ姫」の顔になり、笑いながら「フーッ」と虹に息を吹きかけたのだ。そのことを、なぜか私は黙っていた。というより、かたまっていたのかもしれない。その時、自分の中に浮かんだイメージは「ご来光の代わりに神様がくれた贈り物」だった。そしてさっき、神社で引いたおみくじに書かれていた言葉「あなたが信じ、歩いて来た道は正しい。その行いは将来必ず実を結ぶであろう」というメッセージの具現化だと感じたのだった。ただただ「ありがたい」という気持ちが込み上げ、私は手を合わせていた。

無事下山をして、疲れを癒すために温泉に浸かり、腹ぺこのお腹を満たすために、たらふくご飯を食べて東京へ向かう夜行バスに乗った。早朝、バスは池袋駅に着きJRのホームで始発の電車を待っていた。その時、ホームの端からゆっくりと歩いて来る人陰があった。朝靄の中から現れたその姿はなんと老婆だった。「あんた。白山に登っておったじゃろ?」「は、はい。登っていました」度胆を抜かれたその言葉に私が以上に驚いていると「わしも登っておったんじゃ」なんとそのお婆さんも一人で、決して楽には登れないあの山を登ってきたのだと言った。聞くとお婆さんは以前から「白山信仰」に厚く、家の近くにある「白山神社」へのお参りは毎日かかしたことはないという。だが、自分も年をとった。(その時で八十八歳といっていた)生きてる間に一度でいいから白山に登り本宮へお参りをしたいという強い思いがあったのだという。頂上では私も高山病で頭とお腹をおかしくしていたので「体は大丈夫でしたか?」と思わず聞いた。すると「一歩、一歩、ゆっくりと自分のペースで登っておったら、いつのまにか頂上へと着いていたんじゃよ」とお婆さんは言ったのだった。「それよりあんた、あの虹を見たかい?あの虹は下りることに必死で足下しか見ておらん者には決して見えなかったものだ。あれはククリ姫から空を見上げた者への贈り物じゃよ。いやぁーきれいだったなー」私は最後の最後にその時白山へ登ったことの意味を悟ったのだった。不思議なことにその時、自分の中で「もう一度登りたい」という気持ちが自然に込み上げていた。

焼け付く太陽のもと、潮風が時々頬を撫でる江ノ島を歩きながら真衣がふと言った。「あんな苦しい思いをしておきながら、白山へはなぜかもう一度登りたいと強く思うんです」その時がいつか来るという予感が龍を思うように私の体を熱くさせた。


_ 2007.07.14_>>>_新月

「CRYSTAL」

個展も無事終わってホッとしているところ。

でもすぐに「ござれ市」があるので、これが終わったらやっと少しゆっくりできるかなーと思っている。去年のカフェ・スローでの個展は五日間しかやらなかったので「あっ」という間に過ぎてしまった覚えがあるが、今回は二週にまたがっての開催で、中一日カフェ・スローの定休日もあったので気持ち的にも体的にも随分と楽だった気がする。今回のテーマはズバリ「CRYSTAL」で絵もクリスタルを描いたものオンリーだったので、私の今までの個展とは一風違った展覧会になった。しかも実際のクリスタルとそのクリスタルを描いた絵とを一緒に展示して販売をしたのだ。

そのクリスタルはMARKが私のためにとひとつひとつ丁寧に選んでくれたもので、出所はスイス、インド、そしてチベットだった。約一年前から少しずつ製作に取りかかり、じっくり、どっぷりとクリスタルの世界に入っていった。時々「ハッ」と、自分はどうして今クリスタルを手に絵を描いているんだろう?と不思議に思うことがあった。「いや。でも自然の成りゆきでこうなっているのだから、とにかく天にまかせよう。描くことが私の仕事なのだから」と何も考えずに、ただただ描く日々が続いた。結局この行為自体が自分にとっては必要なものだっだということが今となってはわかる。

私は絵を描いている時に一番の自由を味わうことができ、何処へでも旅をすることができ、誰とでも会うことができる。その最中の時間は無限で広大だ。そう、それは夢を見ている時ともよく似ている。今は夢なのか、現実なのか時々どっちなのかがわからなくなる感覚。結局それはどっちの世界も繋がっているから別々ではないという結論に私は達するのだが、そのことがよりリアルに感じられたのが今回の製作過程だった。言葉ではうまく言えない。だから私は絵を描いている。

お客さんの反応がとてもおもしろかった。胸がいきなりドキドキしたり、体じゅうが急に熱くなりだしたり、自分でも知りえない太古の記憶のようなものが浮上してきたという人も何人かいた。理屈ではなく、ただただ細胞が感応してとめどなく涙を流す人達がいた。そんな人々の奇跡のような表情を目の当たりにして、この世界の神秘に改めて深く感銘を受けた命を知った。

次から次へと美しいものをほんとうにありがとうございます。


_ 2007.06.30_>>>_満月

「オキクルミカムイ」

満月の日に只今「カフェ・スロー」で開催中のEXHIBITION「CRYSTAL」のスペシャルライブイベントをやった。

「NOBUYA」のDJと「EMI」の唄と「千葉さん」のトンコリ。「アイヌのしらべ」だ。実のところ、今回はライブイベントは無しの予定だった。というのもギャラリーを押さえることはできたが、カフェ・スロー側でライブの予定がすでに埋まっていたからである。だから「それもありだなー」と自然に思っていた。ところが一ヶ月前にカフェ・スローの「マミー」こと「間宮くん」からメールが届いて「ライブが急にキャンセルになったので、∀KIKOさんの個展中だし、そちらで何かライブをやりませんか?」と聞いてきた。そして私は「ハッ」と思ったのだ。「そうだ。EMIに唄ってもらおう!」そのまま歩いて彼女の家まで行った。(7分もあれば着くんでね)意外なことに「EMI」は即答した。「うん。いいよ。いつか一緒にやりたいって言ってた夢がもう叶ったねー」そうそう。そんなことを前に私達は話していたのだった。「EMI」のOKを貰い早速「MARK」と「NOBUYA」に伝えた。「NOBUYA」は逆に驚いていた。「えーっ。でもあと一ヶ月しかないのに絵美ちゃん大丈夫なのかなー」とついつい家族を思う気持ちで心配になったようだ。「EMI」は「OKI」のバンドで「マレウレウ」という女性のコーラス隊の一員として、海外での公演の経験もあるし、普段でもアイヌ関連のイベントに呼ばれてしょっ中唄ってはいる。でも、たった一人で「床 絵美のライブ」としてお客さんからお金をもらい、少なくても一時間という枠で聞かせるというのは初めてのことだっだ。「NOBUYA」は「構成はどうするのか?」と問う。「ちょっと待って!まだ浮かばないから」と「EMI」。一ヶ月前にはまだまったくの白紙状態の中で私は一人「いやー楽しみだなー」とほくそ笑んでいた。

「絵美ちゃん。ちゃんと考えてるかなー」とその日から「NOBUYA」は毎日そのことばかりを口にした。そりゃあ自分も関わるライブだから真剣に考えて当たり前だけど「EMI」には逆にそれがプレッシャーとなるので、しばらく放っておくしかなかった。「EMI」を信じていた私は「大丈夫。大丈夫。何とかなるからさ」と「NOBUYA」を励ます日々が続いた。ある日「EMI」が「実は今回一緒にやってみたい人がいるの」と言ってきた。その人はミュージシャンでアイヌ音楽研究者の「千葉伸彦さん」ある頃から憑かれたようにアイヌ音楽の虜になり何十人ものアイヌから伝統的な唄や、弦楽器「トンコリ」を学び「トンコリ」の教本まで出している人だった。「EMI」は何度か会ったことはあるが、ちゃんと話したことはまだないと言った。「いつもOKIとかとはやっているけど、千葉さんはまた別の音色を持っていると思うから自分のためにも、そういう人とぜひ一度やってみたいの」連絡先は阿寒の実家に聞けばわかるとのことだった。数日後、やっと電話が繋がった。彼は今なんと「劇団四季」でギタリストを務め多忙を極めていた。にもかかわらず、引き受けてくれたのだった。しかも引っ越しの真っ最中だというのに。ただすぐには都合がつかず打ち合わせができるのがライブの一週間前くらいだろうとのことだった。

「千葉さん」の快諾を得て「EMI」のやる気もじわじわと高まり、唄とトンコリの練習に励む日々が続いた。長女の「りうか」を保育園に預けてから長男の「かんと」をだんなの「Ague」に見てもらい、「Ague」が仕事にでるお昼頃まで私達の母屋へ来て一人、川の音を聞きながらアイヌのことにいそしんだ。短い時間だけれども「心が癒される」と彼女は言った。私達は「EMI」が「EMI」でいられる時間を提供できたことが嬉しかった。なぜなら唄っている時の「EMI」が一番好きだったから。何かの想いに夢中でいると月日はあっという間に過ぎるもので、ライブの日が迫ってきた頃「EMI」がやっと焦り始めた。(笑)ある時電話がかかってきて「あ、あきこぉ-。あ、あのぉー千葉さんがなかなか捕まらなくてさーだんだん心配になってきたんだよねー。なーんてこんなこと主催者に言うもんでないかー。ははははは」私もつられて「ははははっー。大丈夫大丈夫。自分を信じていればなーんにも問題ないからね!」と励ました。私にはこの日は「とにかくみんなで楽しい時間を共有している!」というビジョンしかなかったので、どんなに心配事を浴びせられても、ちーっとも怖くなかったのである。ライブまであと一週間を切った頃、やっと「千葉さん」と電話が繋がり、母屋で初顔合わせとなった。アイヌの伝統音楽を受け継ぎ、本当に真摯にアイヌと向き合っている一人のミュージシャンの姿がそこにあった。一目で好感が持てる人物だった。あとは残された少ない時間の中で二人がどんな世界を創りあげるのか本番を待つことにした。

当日。緊張した面持ちで現れた二人はでも、とてもいい顔をしていた。六時に「NOBUYA」のDJがスタート。私は二階のギャラリーでお客さんを迎えていた。下から響く心地よい音を聞きながらライブの始まりをワクワクして待った。「ムックリ」が鳴った。「始まった!」「ムックリ」とは竹でできたアイヌの口琴のこと。彼女は「ムックリ」の名手でもある。「そっかぁー。これできたかーっ!」はやる気持ちを押さえ、しばらくしてお客さんがはけた頃、私もやっと下へ降りた。「おおーっ。やってるやってる。いいじゃん!」さすがに幼い頃から舞台慣れしている彼女は、唄えば唄うほど、水をえた魚の様に、どんどんと輝きを増していった。その姿はとても美しかった。初めて聞く「千葉さん」のトンコリと唄も私は大好きになった。「この二人いいかも!」また私の中で楽しい妄想が膨らんでいった。演奏はいたってシンプルだ。今どきこんなシンプルなライブなかなかないんじゃない?というくらい原始的ですらあった。「縄文の時代の宴もきっとこんな感じだったんだろうなー」と私は思った。そして素晴らしかったのは、聞いているお客さん。みんなの手拍子、「立ってください」と言われれば立ちあがり、「唄ってください」と言われれば唄い、「踊ってください」と言われれば踊る。「なんて素敵な人達なんだろう!」私は感動で胸が熱くなった。そして、こんなにも暖かいファンに支えられて生かされていることに感謝した。

アイヌに文化を教えたとされる「オキクルミカムイ」が舞い降りた満月の夜。森羅万象にイヤイライケレ。


_ 2007.06.15_>>>_新月

「水」


精霊の声に導かれ

ちいさな滝にたどりつく 


この水を飲みなさい

この水を飲みなさい


豊かにあふれる水の力が

私のすべてを洗い流す


水は命の源

生まれる前に包まれた場所

水は命の源

この星を青く染める絵の具


おいしい水を ありがとう

おいしい水よ ありがとう


_ 2007.06.01_>>>_満月

「simple side.」

この間、お札を取り替えに神主をしている友人の住む富士吉田まで行ってきた。

朝、急に思い立ち電話をすると「午後一時から来客があるが、その前だったら構わないから一緒に吉田のうどんでも食いましょう!」ということになった。高速に乗って着いたのが十二時ちょい前、NOBUYAと一緒にお祓いを受け、それぞれ参拝を終え、「朝、ちゃんと祈祷を済ませてありますから!」と新しいお札を渡された。時計を見ると十二時三十分。「もうすぐ一時だから今日はこれで」と帰ろうとしたが「ちょっとくらい待っててもらっても平気だからさ。うどん食いに行きましょうよ!」という運びとなった。

彼「泉心さん」と会ったのは五年ほど前。私達は当時、まだ今のように湧き水生活ではなかったので、おいしい水を求めて二週間に一度は富士の裾野まで水を汲みに行っていた。最初はめったに人と出会わなかったのだがいつからか、マスコミで紹介されたとかでだんだんと人が増え、私達は人が来そうもない曜日や時間帯を選ぶようになっていった。そうまでしてもわざわざ行っていたのはその森とそこに立つ小さな小さな神社が好きだったからだ。そしてある日、神社を掃除していた「泉心さん」に出会った。「最近人がやけに増えてゴミも増えました」とぼやいていた彼の側で一緒にゴミ拾いをしていると、彼が話し掛けてきた。「いつも来るんですか?」私達は応えた。そしてその時は丁度、癌末期を迎えていた友達のお母さんに持っていくための水を汲みにきていたのでそのことを伝えると、「玉川温泉って知ってますか?癌にもとても効果があるといわれている。そこの温泉水をたまたま昨日友人からもらったから家に寄ってその友達に持って行ってあげてください」と言ってくれたのだ。そのまま私達は家に呼ばれ、気づいたら祭壇のあるとても清浄な間に座ってゆっくりとお茶をすすっていた。

正直「泉心さん」を見た時はとても神職についているとは思えなかった。髪はボサボサでアースカラーのミリタリージャケットを羽織りハーレーにまたがっていたのだ。「泉心さん」はこうなったいきさつを手短に話してくれた。本当はアーティストになろうと思って高校卒業後すぐに東京へ出た。そして絵を描いたり写真を撮ったりしてそれなりに表現活動をしていたそうだ。ところが、どういうわけかいつも自分が病気になったり事故にあったり、身内に問題が起こったりしてことごとく田舎に引き戻されてしまう。「なんなんだいったい?オレはどうすればいいんだ!」やりきれなくなった彼はいったん田舎に帰り、たった一人で修行を始める。日の出とともに起き湧き水で禊ぎをし、瞑想をする日々が何ヶ月も続いた。そんなある日、富士山のてっぺんから雲がみごとな龍の姿になって晴れ渡る空へとみるみる登っていった。それを見た瞬間、「あぁ自分は神職につくのだ」という覚悟を決めたのだという。「その写真がこれです。いつもカメラを持ち歩いてたから、ここぞという時に撮れました」写真を見ると、本当に優雅にそして力強く龍が天を泳いでいた。

吉田のうどんは固い。固ければ固いほどいいという人もいる。それがNOBUYAだ。この辺りでもとびっきり固いというお店に私達は連れてってもらった。久々に食べる吉田のうどんはやっぱりおいしかった。「つい、この間までね。京都に行ってたんです。お茶屋の伊衛門に招待されて。舞妓さんと芸妓さんに囲まれてお茶を頂いたんだけど、それはそれは贅沢な時間だったなぁー」「泉心さん」は言った。そこでとても印象的なことがあったという。それは芸妓協会の会長を務めているという一番偉い芸妓さんが最後の最後に締めで舞いを舞った時のこと。さっきまで挨拶をしていた会長さんは、とんでもない婆さんだったらしいのだが、いざ舞いを始めるやいなや妖艶な美女に変身して、それはそれはたいそう美しく心から見愡れてしまったのだという。客席からも「ほんま。きれいやなー」「ウソみたいやー」「別人ちゃうかー」とため息のような感嘆の声が上がっていたそうだ。「何を言いたいかというとね、オレはその時、人間の計り知れない力をまざまざと見せつけられたんです。人間ってすげーっと久しぶりに感動した瞬間でした。」

「simple side.」にスポンサーが現れた。人間に感動させられっぱなしの私です。ありがとう。


_ 2007.05.16_>>>_新月

「十年」

最近、友達と会っていると「十年」という言葉がよく出てくる。
十年間が「あっという間」だったと。

私にとって十年前は本当に大きな節目の年だった。表参道に出てアーティストとして表現活動を始めた年。ストリートで自分の絵をさらけ出してみるというやり方が私には一番会っていると思った。これだったら私にもできる。あとは興味を持った人だけが、立ち止まって勝手に作品を見てくれるのだ。「よし!これだ」そう思いついたとたん、いても立ってもいられなくなり、次の日から路上に座って絵を広げていた。その最初の日のことはよく覚えている。京王線で新宿へ向う途中、調布で一人の女の子が乗ってきた。丁度通路を挟んで真向かいに腰を降ろした彼女は、じろじろと私の喉元を凝視していた。あまりにもこっちを見るから私もつられて彼女を見ると、私と同じくらい大きな荷物。「まるで私みたい」と思ったが、たいして気にも止めずに終点新宿で人の波に呑みこまれていった。JRに乗り換え原宿で降りて、ゆっくり表参道を歩きながら「さーて、どこで始めようか」と考えていた時、「あっ、さっきの人だ!」と声を掛けられた。視線を向けるとそこには確かにあの京王線で会った「さっきの人!」が座っていた。あの女の子だ。路上に広げた布の上には旅先で見つけた石や彼氏と作ったアクセサリーが並べられていた。「僕が彼氏です。」とにこやかに挨拶をしてきた男の子。周りで店を広げていた彼らの仲間たちがニコニコと寄ってきた。今日から店を広げるつもりだと言うと「じゃあ、俺達のスペースを少し空けるからここでやるといい!」と言ってそそくさと場所を作ってくれた。彼女たちの隣だった。その子はさっき私の喉元をじろじろと見ていたわけを聞かせてくれた。「そのペンダントがあまりにも素敵だったからじっと見ていたの。いったいこの人は何をやっている人なんだろう?って。みんなにも話したんだ。そしたら何とここにやってきたじゃない!」私は当時お気に入りだった水晶をヘンプの糸でくるんでいつも首に下げていた。

丁度その頃、自分の中で「ハッ」と気づいた事がひとつあった。それは「自信」ということの本当の意味について。「自信」とは自分を信じること。自分は自分を決して裏切らない….。そんな考えが急に沸き上がってきて「そっかぁー。そうなんだ」と私は一人で納得し感動した。そして「これからは自分を信じて生きよう!」そう堅く心に刻んだのだった。それが十年前。そんな生き方を選んだ時から次々に新しい出会いがやってきた。「simple side」を一緒に作った「志岐奈津子」と出会ったのもこの年だった。彼女との出会いは生涯忘れられない出来事のひとつだ。初めて会った瞬間からお互いの詩と絵に心を動かされ、夢中でクリエイトして、たった一ヶ月の間で出来上がってしまった「simple side」。この時二人は「創らされた」という思いに満ちていた。「せっかく形になったんだから、みんなにも見てもらおう」と翌年、自費出版に踏み切り、まずはひとつひとつ手渡しで届けることから始めた。あの時、表参道の路上で足を止めた人達がこの本を買ってくれた最初のお客さんとなった。

あれから十年。「simple side」は自分のために買った人が次は自分の大切な誰かに贈り、贈られた人がまた別の大切な誰かに贈るという形で輪が広がっている。この本も三度の増刷を重ね、今また十冊ほどを残すばかりとなった。今度増刷する時には叶えたいひとつの夢がある。それは日本語と同時に英語を載せること。もっと世界に向けて発信しようと思ったからだ。そう考えると、どんどんイメージが湧いてきた。「今度はもうひと回り小さいサイズにして、バックパッカーが持ち歩けるようにしよう!」「いつかは「ヒンディー語」や「スペイン語」なんかにも訳されちゃって地球の上で世界中の人達が見ていたら素敵だな….」なんて、もう夢は膨らむばかりだ。そんな「simple side」だが、まだ増刷のメドはまったく立っていない。今回も自費にするのか、それとも出版社との出会いがあるのか?実は現在、ファンで元出版社にいた方が直感を頼りに「この人は!」という人物を探してくれている最中だ。私はといえば、今はただ自然にゆだねてみようと思っている。どういう形であれ宇宙の法則にのっとって最も適切な方法が導いてくれるだろうと信じているから。

「自信」それは私にとってかけがえのない「光」である。


_ 2007.05.02_>>>_満月

「人間」

大倉山記念館での「文水」と「MARK」との展覧会「Garelly 002」を終えた。

今回のテーマは「人間」だった。「人間」だったためか、訪れた人々を見て、いつになく「人間」を意識した6日間だった。お腹の中の胎児から90才の長老の方まで幅広い人間層のひとたちが作品に触れてくれた。始まる前に「文水」は苔を、「MARK」は石を見つけるために私の生きる場所、高尾へやって来た。「RED DATA ANIMALS」の動物達の絵の下にひとつずつ、その石は置かれた。何人かのお客さんが聞いてきた。「置いてある石と絵がそれぞれとても良く似ているのはどうしてですか?」なるほど彼らの言う通り石と絵はとても良く似ていた。中庭には「文水」の世界が佇んでいた。消え行く動物達を見た後に辿り着く「人間」へと立ち還る場所として。そこに置かれたテーブルと椅子。テーブルを貫いて立つユーカリの木とそこに這う苔や草花たち。そして道具たち。傍らに置かれた数冊の本。賛美歌集。「文水」の提案で毎日私達はバラの花びらをそこに散らせた。その時間が私はたまらなく好きだった。花びらは自由に風に任せて舞いながら日々の人間の営みを彩っていった。

「久しぶりに公園に散歩に来て、ふとギャラリーを覗いてみたら、そこには素敵な空間が広がっていて、驚きとともにとても幸せな気分になりました。長生きしてよかった。ありがとう。」と言ってくださったご老人がいた。「普段はこういう場所に来たら、ぐずってすぐに泣き出すのに、こんな穏やかな表情をするのは初めてです」とびっくりしていた、赤ちゃんを抱いたお母さん。「この絵はね。走りながら見るとすごいんだよ」と言って回廊をぐるぐる回りながら目は絵を凝視していた子供。入口の水晶を「きれーい」と言って触りながらひたすら見つめていた子供。中庭の椅子でぼんやりと気持ちよさそうに、ただ瞑想にふけっていた大人。

「こんなにリラックスしたのは、ギャラリーnociwへ通っていた以来です」と言っていた古くからのファンの人達。今回懐かしい顔ぶれにたくさん出会えた。カップルでnociwに通っていて、結婚した「さおり」さん。何年ぶりかに会った彼女の中には新しい生命が宿っていた。会うなり涙を流して喜んでくれた彼女。結婚の記念に絵を自分達へ贈った彼らは今度生まれてくる子のために絵を選びたいと言ってくれた。

当たり前だけど時を経て、みんなそれぞれに成長していた。EXHIBITIONは行う度に私自身をも成長させてくれる。一緒に表現をしている「文水」や「MARK」やかけがえのない仲間達から力を貰い、大切な宝物であるファンの人達から大きな力を貰って、また自分に還った時に、再び描き出そうというエネルギーが内側から溢れ出てくるのだ。そこには感謝の気持ちと愛と喜びが伴っている。それが私の原動力。

「人間」は可能性。少なくとも私はそう信じている。


_ 2007.04.17_>>>_新月

「種」

種をまいた。

うちの母屋の大家さんは年期の入ったお百姓さんだ。先日、自分の畑のはしっこに「お前達もここで好きな野菜を育てないか?」と言われ、もちろん「やるとも!」と即答した。先にこっちに移り住んでいた隣人の「えいじ」と「まりこ」も畑をやっていたので「いいなー」と密かに私達は思っていたのである。去年の10月に1年3ヶ月かけて母屋が完成し移り住んできて、この頃やっとこっちの暮しにも慣れてきたところだった。大家さんも頃あいを見計らっていたのだろう。でも、嬉しかった。プロの目で見て私達にも少しは見込みがあると思ってくれたからこそ、声を掛けてくれたに違いなく、その優しさを思うと感謝の気持ちが込み上げてくる。

種から野菜を育てるのは初めての経験。ワクワクした。私達は何の種を播こうかとあれこれ思いを巡らせた。ふと、種について一緒に語り合うってとっても素敵なことだなーと思った。毎日食べる野菜。かつてはスーパーで売られているのを買うのが当たり前だった。山へ越してきてから、農家さんの畑へ行って直接買うことが多くなり、作ってる人の顔が見えるって、こんなにも安心感を覚えるものなのかーと心から感動した。そして、いよいよ今度は自分達で育ててみる番がきたのだ。これは意識が変わる出来事だった。現実の世界では大手の種会社が種の世界を牛耳っていると聞く。「F1の種」を作って自分達の種がどんどん売れる仕組みを作り、必要のない遺伝子組換え作物を世に送り出していると。しかし、その一方で「F1の種」もまた大地に癒されて、いずれはもとの生命エネルギーを取り戻すという話しも聞く。

自然には叶わないはずだ。なぜなら私達が自然に抱かれて生かされているから。そんな当たり前のことを本当に理解していれば、利己的な目的のために、地球や人類にとってなんの得にもならないばかりか、かえって害にしかならないことを、わざわざ膨大なエネルギーを使って成し遂げようなんて思いもつかないだろう。

大倉山でのEXHIBITIONが間もなく始まる。今回のテーマは「人間」だ。会場を一緒に創る仲間達と昨日、雨の音を聞きながら「ミーティング」と称する「飲み食い会」をやった。彼らを見ながら私は思った。「まず自分という平和な世界がここにあって、その最も近い外には彼らとの世界がある。その世界はとても平和だ。じゃあ、もうちょっと外の世界。例えばご近所さん。うん。平和だね。それじゃあ、今日出会う人とは?そうやって関わっていくものたちとの繋がりこそをまず、その度に本当に大切にしていけばどうなるだろう….。」複雑なものの見方の方が主流になっているように思われるこの世界で、私みたいな単細胞人間はまだまだアウトサイダーのようだ。でも私はシンプルにしか考えられないようにできているんだから、仕方がない。

私達はみなひと粒の種である。


_ 2007.04.02_>>>_満月

「まんだら」

山梨の友達の所へ行ってきた。その友達はミュージシャン。

「KURI」という名前で夫婦で活動していて、そこには我が家のオオカミ犬「nociw」の姉妹「ウルル」がいる。最近犬同士で遊んでない「nociw」を思い、たまには姉妹でスキンシップをとらせてあげたいと連れて行った。出迎えてくれたのは夫の「かっちゃん」。妻の「みほちゃん」は1年前からイギリスで音楽の腕を磨くために修行している。

実はこの二人、以前から山梨に暮しているのだが、借家住まいの生活からもっと自由になるために、2年前から自分達の家造りに着手した。まずは見晴しのいい気に入った山を探し、その土地の所有者に掛け合い、「この森を少し切り開いて自分達で家を建てていいか?」と聞いて了解を得て、下草を刈って最低限の木を切り倒し(もちろんその木も利用する)「かっちゃん」と大工の友達のたった2人だけで、脚立とロープとを駆使したとても原始的なやり方にこだわって造ってきた。実はまだ半分くらいしか完成してないが、住んで食べるという最低限の生活はできるようになっている。基礎的なものはできているので、あとは「かっちゃん」1人で完成させていくつもりらしい。その間「みほちゃん」はイギリスの地でライブ演奏をしながら音楽の繋がりを作り、この夏はイギリス最大のオーガニックフェスティバルとフランスでの音楽フェスティバルに「KURI」としての出演を決め、「かっちゃん」も行ってくることになった。日本でも1人であちこちに出向きライブをやりながら、ツアーのない日は家造りに励む。そんな「かっちゃん」がほんとうに偉大に思えた今回の訪問だった。

なにが凄いかってまずは水。水道なんてもちろん通っていないので、山の中をくまなく歩き水脈を発見した。ちょろちょろと岩の隙間から流れる清水に出会った時の嬉しさといったらなかったらしい。「これで生きていける!」と。でも実際にそこから長い長いホースをひっぱって家の蛇口から勢い良く水が出てきた時の感動といったら、それはもうとてつもない喜びだったという。そしてトイレ。これはただの「ぼっとん」にはせずにアメリカからコンポスト式の移動トイレを取り寄せ自分の排泄物をタンクに詰め醗酵を促す有機材を使い、いっぱいになったところで家のまわりに播き、そこを畑にして野菜を育て、その野菜をつんで料理をして食べているのだった。もうここだけで完結している完璧な生活の循環。ゴミがでない。お金がかからない。そしてどんどん健康になっていく。そんな彼らの生きざまにただただ感動しっぱなしの私達だった。

「いずれここが完成したら、この場所でアルバムを作りコンサートをして訪れた人達に自分達の生活を丸ごと味わって欲しいと思ってるんだ。人間こんなにシンプルに生きれるんだってことの一例としてね。社会に対して不平を言ってるだけじゃ何も変わらないけど、やろう!とまず自分自身が本気で思えば自分の生活は変えられるってことさ。お陰で安かった生活費はますます安くなったし、余計なエネルギーを使わなくなった。その分音楽や自分の好きなことに夢中になれる時間が増えるんだ。いつか自分達が死んでも誰かがまたここを使っていけばいい。そうやって人間の営みが自然と調和しながら健康的に循環していくというビジョンを僕らは見てるんだよ。」友達に心の底から尊敬の念を抱いた日。

帰り道、私とnobuyaは将来の夢をずっと語り続けていた。


_ 2007.03.19_>>>_新月

「雌オオカミと神話を孕んだ女」

今回の「ござれ市」。先月に初めて現れたフィンランドマニアの「金子」さんという人が再びやって来て言った。「私ごとでなんですけど、実は最近本を読んで、あぁ∀KIKOさんに一脈通じるところがあるなぁーってすごく思ってね。まぁこういう本なんです。」と差し出されたのは、世界的に活躍するフィンランドの歌手「アルヤ・サイヨンマー」の「サウナ」という本だった。

フィンランドはサウナ発祥の地でもあり、子供からお年寄りまで誰もが日常的に楽しんでいるという。彼女も子供の頃からサウナに慣れ親しみ体と心のバランスを取ってきた。母親からは「サウナはとても神聖な場所だから、入っている時は邪悪な考えを抱かないように。そう教会と一緒なのよ。」と教えられてきたという。

日本ではあまりピンとこない話かもしれないが、ようするにネイティブアメリカンのスウェットロッジのようなものなのだろう。フィンランドの神話「カレワラ」の中でも神々にとって、とても重要な位置を占めるサウナ。自分用に作る「ビィヒタ」という霊力のあるとされる白樺の葉を束ねたもので体のあちこちをピシーッ、ピシーッと叩くことで自分の中に宿る邪気を追い払い、自然の中から選んできた特別な石を熱してその石の下で燃え盛る火を「キウアス」と呼び崇め、その火に熱せられて舞い上がった蒸気は「ロウリュ」といって人間の体に聖なる活力としてしみ込んでいくと信じられてきた。そして体の悪いところが実際に癒えることもあるのだという。つまりサウナは浄化の場であり、神々と交わる場でもあった。これがもともとのサウナの源だったのだ。

彼女が子供の頃は公共のサウナで混浴のところもあったそうで、サウナで他人から「背中を洗ってください。」と言われたなら、それを断るのは失礼にあたり、そのかわり洗ってあげると次は自分も洗ってもらえるというルールがあったのだという。結婚する時には「結婚サウナ」というのがあって花嫁が花婿の家族全員の体を洗い、自分には嫁になる資格があるということを示すというしきたりもあったんだとか。ようするに、肌と肌の触れあいを通してコミュニケーションをとることを非常に大切にしている国なのだ。これは日本の温泉や入浴にかかわる文化とも共通すると思う。サウナの火は薪で作り、そのかまどには精霊が宿るとされる。この本の著者「アルヤ・サイヨンマー」はそんな神聖なサウナの中で「雌オオカミと神話を孕んだ女」に出会い「サウナ」という神話を旅していくというのがこの本の核だった。この「雌オオカミと神話を孕んだ女」というフレーズが、「金子」さんがいうところの私と一脈通じる部分だったそうなのだ。「自分自身のルーツとその背景と、そして自分自身の歴史を活用しなさい。そこにあなたの神話の道があるのだから。」そう、私達はみな一人一人が神話なのである。

奇しくも最近また「nobuya」と一緒にお風呂に入るようになり、「いつか北海道で暮すようになったら自分達のサウナ小屋を作りたいね。」と話していたところだった。かつてのフィンランドの大統領も旧ソビエトの国防大臣がフィンランドとの共同軍事演習を持ちかける度に、その大臣をサウナに誘い、何度も何度もサウナには一緒には入ったけど軍事演習は一度も実現しなかったというエピソードがある。裸の付き合いをしてともに浄化されていけば、意識もぐんぐん上昇し、お互いにとってポジティブな話しか出てこないのは当然だろう。そういう意味でも神々が宿っているというのはうなずける。本物のサウナがもっと広く世界に浸透すればいいなぁと思う。私達といえば、お風呂上がり、ハーブの香りのするオイルでお互いの体をマッサージすることにしている。本当に触れあうことの大切さを最近改めて実感しているのだ。そんな時は決まって我が家の雌オオカミ「nociw」が「ワタシも仲間よ。」と甘えに来る。

そして三人で遠吠えをして「我ら同志なり!」と愛を確かめ合うのだ


_ 2007.03.03_>>>_ 満月

「命」

ギャラリー「nociw」時代からのファンでいてくれている「竜也」と「佳世」の夫婦に新しい命が生まれる。

去年の夏頃、二人がわざわざアトリエまで尋ねてきて、妙にかしこまった顔をして言った。「誕生してくる子供のためにどうしても∀KIKOに絵を依頼したい。それが私達の願いなの。」と。私は勿論快く承諾した。「nociw」のそばにあったお店、当時の「no.boom」で働いていた「佳世」に恋をしてバイト代をすべて「no.boom」でのコーヒー代につぎこむほどに足げく通っていた「竜也」。その恋が見事に実り、結婚する時は私と「nobuya」が保証人として婚姻届に判を押した。二人の愛を見守ってきた者としてはとても深い縁を感じている。秋の個展での「サヨコオトナラ」のライブがお腹の子にとっての初ライブとなったと言ってはしゃいでいた二人。今年の正月の展覧会に現れた時の「佳世」のお腹はビックリするくらい大きくなっていた。年明けから実家である長野で産むために里帰りをすると言った「佳世」に私はひとつのお願いをした。「丸一日お腹の子と一緒に過す時間が欲しい。」と。そうなのだ。生まれて来る子のために描き降ろすのは初めてのことだったので、その子のことをもっとよく知りたい。感じたいという自然な思いが込み上げてきたのである。「佳世」も「竜也」も「そこまでしてもらえるのは逆にありがたい。ぜひ来てほしい。」と言ってくれた。そして2月20日に一泊で「佳世」が生まれ育った家にお邪魔することになった。連れ添いがいた。「nociw」でともに貴重な時間を過した「mio」と「nori」と「モッチー」だ。子供のために買ったばかりのピカピカの「竜也」の新車に乗ってみんなが迎えに来てくれた。このメンバーとこんなにゆっくり過すのは「nociw」をクローズして以来のこと。あれからもう3年も経つなんて信じられないくらい、会うと妙にリラックスするのだった。とんと御無沙汰していても個展には必ず顔を出してくれるかわいい奴ら。彼らにはどれほど感謝しているか計り知れない。

高速に乗りサービスエリアで飯を食いながら笑う。すっかりドライブ気分の私達。「佳世」の家へ到着すると、この日を心待ちにしていてくれた「佳世」とお父さん、お母さんが暖かく迎えてくれた。入る時、まず表札が目に留まった。「下島」と書かれたその表札は陶器でできていて絵心のあったお祖父さんが手作りしたものだという。何とも味があって可愛らしい。そして玄関を入ると目の上に大きな仏陀の顔の像が掛けられていた。こちらを穏やかに見つめている。この像は「佳世」が生まれた時からあったそうだ。お母さんに聞くと玄関に大切にしまわれていたこの像の出所を書いた紙を見せてくれた。昔だったから簡単に貰ってこれたものの今となっては博物館に所蔵されるような代物だった。そして「竜也」はお坊さんだ。まるで「佳世」の行く末を暗示していたかのように私には感じられた。お祖父さんは教育者として国から勲章を貰うほどの立派な人だったようだ。そしてお父さんとお母さんも学校の先生だった。二階にある「佳世」が使っていた部屋。その外の細長い廊下には本棚が設えてあって、優れた日本の児童文学がずらりと並んでいた。みんなで見た「佳世」の幼少時代のアルバム。いつも決まってとびきりの笑顔で幸せそうに映っている「佳世」。その女の子はまるで童話の中の主人公のようだった。私は一人の人間が誕生して育っていくうえで最初の家庭環境がどれほどまでにその後の人生に影響を与えていくのかをこの時しみじみと感じずにはいられなかった。「佳世」の家はお祖父さんの愛に満ちあふれた本当にいい気が流れていた。

「竜也」の提案で一晩お世話になるお礼に、みんなで晩ご飯を作ってお父さんやお母さんにも食べてもらおうということになり近くの地場野菜を売る「およりてファーム」というマーケットに買い出しに行った。簡単でおいしい鍋にすることにして大家族のようにみんなではふはふ言いながら食べた。お父さんも嬉しくていつもよりお酒がすすんだようだった。そのあと近くにある「天空の城」という温泉へ行った。その隣に「長姫神社」という神社があるのだが、なんとそこでは昔「竜也」の曾お祖父さんが神主を務めていたのだという。縁とは不思議なものだ。「竜也」と「佳世」はよく「ご先祖さまが私達を引き合わせてくれた。」と言っていたが「本当にそういうことなのだな。」と思った。翌日改めて神社をお参りした時、ふと足下を見ると黒っぽい石の中で一つだけ白く光っていた石が目に入ったので、その石を拾いあげてそっとポケットに忍ばせた。そして家で待っていた「佳世」にその石を洗面所できれいに洗ってから差し出した。すると「佳世」も「竜也」も驚いて「赤ちゃんが生まれてからの儀式に「お食い初め」といって一生食べ物に困らないように子石を噛ませるというものがあるんだけどまさにそれにぴったりだよ。ありがとう。」と言った。私はそんな儀式があったなんて知りもしなかったから逆にびっくりした。

前の晩、横になりながらまどろんでいる「佳世」のお腹に手を当ててしばらくの間、お腹の子とコミュニケーションをとろうと思った。心の中で話し掛けるとゴロゴロと動いて返してくれる。そのうち私まで気持ち良くなって自然に唄をうたっていた。「佳世」を見るとうっとりとした顔をして目を閉じている。どれくらいの時間が経っただろう。しばらくして「佳世」が口をついた。「今ね。∀KIKOの手がお腹の中に入ってきてこの子に触れていたの。なんだかすっごく気持ちが良くって幸せだったんだ。∀KIKOは何だか私よりこの子に近い気がするな。」今回はるばるここへ来て本当に良かったと思った。別れを惜しみつつも帰路の途につく時間がきた。予定日は三月三日の満月だった。絵はビジョンが来るまで待つことにした。

そして三月三日。美しい月が天に登った。我が家のオオカミ犬「nociw」がいつもの満月よりも異常に興奮状態になっていたので、その気を静めるために夜11時頃、私達は防寒の準備をして森に入った。そこは月明かりに照らされて神秘の空間となっていた。「nobuya」は録音の機材も忘れなかった。「こんなとっておきの時間は音を録るには魅力的だからね。」いつもお参りするお地蔵さんの元へ行き、お水を替え「佳世」と生まれて来る子の無事を祈った。静かなせせらぎが聴こえる川辺に佇みしばらくの間その美しい月に酔いしれた。「nociw」は一人山の方へと登ったり降りたりしいる。その時、私には突然ビジョンが降りてきた。「そうか。そういうことだったのか……。」これでやっと描き出せる。「nobuya」を見るとヘッドホンをしながら満足そうに微笑んでいた。きっといい音が録れたのだろう。こんな贅沢な時間を愛する者達と共有できて私は嬉しかった。あとは「佳世」からの連絡を待つのみだ。あなたが命を生み出すことに尊敬の念を込めて私も作品を生み出したいと思います。待っててね。ありがとう。


_ 2007.02.17_>>>_ 新月

「黒の國の扉」

17才の親友「モモ」の卒業発表を見てきた。

彼女は今、自主学校「遊」の12年生。いわゆる高校3年生だ。自主学校「遊」というのは今の言葉でいうとフリースクールというのかな?有名なところでいうと「シュタイナー学校」のようなエッセンスを持った、既成の学校とはちょっと違ったユニークなカリキュラムで子供たちがもともと持っている感受性をさらに伸ばすための教育に力を入れているところだ。といっても「遊」は今回の卒業式が学校始まってなんと第2回目。とても若い学校なのである。「モモ」の両親である「志郎さん」や「啓さん」が心ある彼らの友人知人らと力を合わせて育ててきた学校なのだ。ようするに親も先生で先生も親というような、両者の境目のない環境で子供と親と先生がひとつにならなければ決して存続できないという状況の中で今日までやってきたのである。そうして迎えた第2回目の卒業式。今回卒業するのは2名。その一人が「モモ」だった。

「遊」では学年末にも、その年で学んできたことを知らせる発表会がある。通信簿なんてものはない。その代わりに「きれいなノート」だったかな?子供たちが自分自身で色づけして作ったノートに各先生方からの愛のあるメッセージが書かれているのだった。「モモ」が10才くらいの頃に一度、学年末の発表会を見に行ったことがあった。その時は学校全部の生徒で演劇を披露してくれた。私は「モモ」の役への没入のしかたを見て驚いた。他の子供たちのあまりにくったくのないおおらかさにも。小学低学年の時に一般の学校から編入してきた「モモ」はここで自分を表現する喜びというものを知ったのだと思う。「モモ」の卒業発表は自ら原作・脚本・衣装・演出・監督・舞台美術・挿入歌・作詞・作曲を手掛ける演劇だった。出演は学校の生徒たちともちろん自分。そして「モモ」が敬愛する「わっち」先生もとてもぴったりなハマリ役で登場した。その演劇のテーマが「黒の國の扉」だった。

ひとは恐怖だという
ひとは無だという
だがここは
何もかもを含み
何もかもを包む國
そして
漆黒にきわまるとき
五彩の美が現れる
すべての色は黒の中に溶け込み
ここですべての色は尽きる

「あるところに全てがまっくろの國がありました。天も地も黒。食べるものも着るものもなにからなにまでまっくろくろです。この國の民はこの中で何不自由なく暮しています。ですがこの國の姫は厳しい家来に高い塔の上に閉じ込められていました。そしてこの國にはお姫さまだけが知らない、あるひとつの扉がありました…。」そんな言葉で始まったこの物語。その扉のむこうには色の秘密が隠されていて、生まれてこのかた色を知らなかったお姫さまが「モモ」演じる門番や唯一その扉を開けることができるピエロや色の精霊たちによって新しい世界を知るというストーリーだった。「モモ」が1年前、卒業発表のテーマを決める時に、一番興味を惹かれたのが色だったそうだ。「色ってなんだろう?」調べれば調べるほどその世界は深くてとても一年じゃあまとめきれるものではないと思ったという。そして「モモ」なりに自分の問いかけを演劇という作品に置き換えて発表することにしたのだ。「モモ」はこの春から文化服装学院という服飾系の専門学校へ進み服作りの勉強を始める。彼女が本気であることは、今回の衣装を見れば一目瞭然だった。様々な色にあふれたその衣装たちには「モモ」の喜びが溢れていたから。ニコニコしながら衣装を作っている「モモ」の幸せそうな顔が浮かんできた。彼女の夢は「プロとして舞台衣装を作ること!」だという。「そんなの叶うにきまってるよ!女優にだって歌手にだってなれるよ!なろうと思えば何にだってなれるよ!」と私は大声で叫びたかった。それくらい、舞台美術も音楽もセリフも歌も本当に素晴らしかったから。昔「モモ」の母親の「啓さん」が言っていた。「この学校を作った私達にもまだこのことが失敗か成功なんてわからない。だってまだ実験中のようなものなんだもの。ここを卒業していった子たちが社会に出てどういう生き方をしていくかによって初めて結果が出ることだから。失敗したらモモちゃんごめんね。って言うしかないわね。ハハハハハ。」

その「モモ」もついに「遊」を卒業する。おめでとう。そしてありがとう。


_ 2007.02.02_>>>_ 満月

「山のしごと」

高尾に「高田さん」という宮大工の棟梁がいる。みんなは彼のことを親しみを込めてただ「棟梁」と呼ぶ。

最近、この「棟梁」が自主的に働いている「山のしごと」をお手伝いさせてもらっている。「棟梁」の仕事を知ったのは高尾仲間の「つくし」と「たけし」からで、彼らが「棟梁」と出会ってその仕事に感銘を受け、一緒に働き始めたのがきっかけだ。彼らは効率だけを追い求めた現代社会がもたらした弊害、それを見直すためにこそ、若者に森に入ってもらいたいと願っている。

「棟梁」は九州の山のてっぺんで暮していた本当の山師の息子で「この木は今後どういう風に育てていけば、いい木材が取れるようになるか?」そういうことが見える人だという。宮大工としては昭和天皇の神社作りの中心人物として頼み込まれたが「大工村を作る!」という壮大な夢のために、あっさりと断ってしまったとか。今、地元の木材のみでその技を揮うべく企画をあたためている最中だそうだ。そんな「棟梁」と一緒に山に入り、彼が一本一本の木を見てそこから何を読み取るのか?木の活かし方を知り、森の育て方を考える。そんな学びの多い「山のしごと」。実際には何をするかというと、下草を刈ったり、木を切ったり、倒木や枝を整理して一ケ所に集めて積み上げていったりという作業だ。そうすることによって杉の木に光が十分に届き成長を促してくれる。登山者にも歩きやすい森ができる。用意するものは、軍手、なた、のこぎり、金鋏み、そしてお弁当。朝10時に「つくし」と「たけし」の家に集合し、そのまま歩いて現場へ。そこで「棟梁」の指示を受けて仕事を開始する。「まずは下草を刈るんだ。それがこの仕事の土台。それから他の木や枝を間伐していく。社長がきちっとしていればその会社は栄え、だらしなければ廃れる。というのと同じなんだよ。」「きれいな仕事をしなさい。美しいというのはすべてにおいていいことだから。」「複数の素人で森の中で刃物を使い作業しているにもかかわらず、怪我人が出ないということがどういうことかわかるかい?それは山の神様が守って下さってるということなんだよ。」作業をしていてふと気づくと側に「棟梁」がいて、そんなことをいきなりズバッと言ってきたりする。私はその言葉を聞くたび「あぁ。彼は本物なのだ。」と思うのだった。

昼食は「棟梁」おすすめの日当たりのいい場所へ移動して食べる。一緒に働いた後のみんなの顔は抜群にいい。始める前よりもずっとリラックスしている。よそん家のお弁当を覗き込んでお裾分けしてもらう。これが実にうまい。「ガハハハ」と大声で笑う。「おかあさーん」と大声で泣く。犬がいて子供がいて大人がいて。みんなが勝手気ままに森の中のランチタイムを満喫している。これってとても贅沢で楽しいことだ。ふと、私は思う。「縁て不思議だな。」と。このメンバーはたまたま近くに住んでいたからこそ出会った仲間たちで、そして「棟梁」の仕事を通して何かを感じているからこそ、こうして集まってきている仲間たちなのだ。でも地球上の同じ場所に同じ時期に居合わせて暮し生きている。そして、自分達にとって一番身近な自然との関わりを共に持ち始めたのだ。

高尾に越してきて、湧き水を飲み、薪ストーブで体を暖め、畑にお邪魔して直接野菜を買わせていただき、ご飯を食べる。というシンプルな生活になった。そしてnociwを連れて散歩する森。絵を描くこと。そのすべてが私の中では一直線上に繋がっている。「山のしごと」はその生活の中にまたひとつ新しい気づきを与えてくれるきっかけだった。「ストン」と心の中に気持ち良く落ちる何かがあったのだ。私はいまだかつて、こんなに生活をエンジョイしたことはない。自然に対して畏怖の念を持てば持つほど向こうから近づいてきてくれているような気がする。そのことが絵にも反映しまた日常にも反映していく。それはすべてが循環しているから。

そして棟梁は今、本気の魂を持った弟子を探している。


_ 2007.01.19_>>>_ 新月

「星」

私は星のかけら

この地球という水の星に

宇宙時間でいえば一瞬の出来事のように

生まれ死んでいく人間です


私は星のかけら

この地球という水の星で

たくさんの命に支えられ生かされながら

喜びや悲しみを味わう人間です


私は星のかけら

この地球という水の星の

美しさや楽しさやはかなさを

伝えるために生まれてきた人間です


私は星のかけら

宇宙はひとつのいのち

私は星のかけら

ありがとう 

水の星


_ 2007.01.03_>>>_ 満月

「お犬さま」

3日は御嶽山に登って神社に参拝してきた。

ここ御嶽神社のお札がnociwにそっくりの黒い狼だったので、今年はそのお札をいただきにいこうと思ったのだ。どうして狼が祭神なのかというと、昔ヤマトタケルノミコトが御嶽山で道に迷った時に狼が現れて、道案内をしてくれたからなのだそうだ。それだけ狼の多い山だったらしい。もちろんここには今でも熊はいる。nobuyaとnociwと3人で登った御嶽山の標高は高尾山よりも少し高い900メートルちょっと。山頂に着いてお参りをしてお札を買うために並んでいたら、巫女さんが宮司さんの耳元で囁いているのが聞こえた。「あそこを見てください。お犬さまが来ていますよ!」nociwのことだった。宮司さんは「おぉっ。」という顔をしてすぐに私達に話し掛けてきた。「その犬は何という犬種です?」「ミックスになるんですけど狼の血が入っているんです。」「あぁ。やっぱり。どうりで似ていると思った。実はその子のご先祖が我が神社のご祭神なんですよ。」「えぇ。知ってます。だから今日お札をいただきに来たんですよ。」…….宮司さんの話を聞いてみると実はその狼というのは黒い狼と白い狼の二対の狼とされていて、なるほど絵馬やポスターには確かに白と黒の狼が並んで描かれていた。またもや去年の10月に死んだnociwの友達のホワイトシェパード「ユタ」とnociwとの関係を考えさせられる。陰陽はどこまでもつながっているのかもしれない….。

山頂にはちらほらと人もいたが、ケーブルカーで帰る人達が多かったので、帰りの山道は人にはほとんど会わなかった。やっとnociwのリードを外して解放してあげると一目散に森の中へと駆けていく。nociwはここが気に入ったらしい。この山には本当に大きな木が多くてびっくりするほどだ。みんな気づいているだろうか?この山の懐の深さに。空はだんだんと濃いブルーに染まっていった。満月が木々の間からうっすらと白く辺りを照らし出している。nociwの黒い体が闇に溶けて区別がつかない。左前の白い靴下をはいたような足だけが時たま浮き上がって見えた。首に付けたチリンチリンと音を奏でる鈴がnociwの音。その時、私の中で何かが弾けて「美しいなぁ。」そう思ったら胸の奥から唄が聴こえてきた。溢れ出るままに口ずさんでいたら「いいねえ。その唄。下に降りるまでずっと唄っていなよ。きっと山が喜んでくれるから。」とnobuyaが言った。

翌日、大倉山記念館で行うMARKと文水とのコラボレーション展の搬入を迎えた。セッティングに1日かけることができたので、初めのうち、みんなが出払ってしばらくの間私だけになった時間があった。セージを焚いて回廊をまわり、今回メインとなる中庭の中心のポイントにそれを置いて風にまかせた。その時ふと「そうだnociwを呼んでこよう!」と思い立ち、回廊をぐるっと回らせ、中庭へと導いた。nociwは不思議そうに空を見上げていた。記念館の外に立っている大きなヒマラヤスギにカラスが飛んできて3度鳴いた。私にはそれが合図のように思えて今回の流れを祈った。そして7時間後。セッティングが終わり私は再び同じ場所に立っていた。

そこには生まれたばかりの庭があった。木々の間から円い月が嬉しそうに微笑んでいた。

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