2006

 2006.12.20_>>>_ 新月

「京都へ」

小旅行に行ってこようと思う。京都に住む叔母に依頼された絵を届けがてら。

私の母の一番下の弟、つまり私の叔父は高校生の修学旅行に北海道から京都へ行った時、京都の地を踏んで「ここが俺の住む場所だ。」と瞬時に感じたという。その思いはずっと色褪せず、高校卒業後すぐに京都の大学へ入りそこで叔母と出会い、大学卒業後結婚した。その結婚式の時、私は病院の中だった。小学校4年から中学校1年までの4年間、腎臓の病気で入院生活を送っていたのだ。親戚がみんな揃って京都で行われる結婚式のために北海道をあとにした。初めての旅行気分に浮かれる妹を羨ましく見送った記憶がある。お祝に駆けつけることができない私はせめて何か心のこもった贈り物をしようと、その時ベッドの上でハマっていたフェルトで作る人形をプレゼントすることにした。2匹の犬が相合い傘の下で笑っていて、その傘から「結婚おめでとう」と書いた紙がたなびいているというもの。二人が病院へお見舞いに来てくれた時にそれを渡すと、とっても喜んでくれた。私が東京へ出てきて学生生活を送っていた時に一度長期でお邪魔させてもらったことがあったが、泊めてもらった部屋にその人形が飾られていた時は、なんだかちょっと照れくさかった。

その時一人娘の真理子ちゃんは、確か3才くらいだったっけ。お爺ちゃんの御葬式で久しぶりに会った彼女は高校生になっていて子供でもなく大人でもなく不思議な感じがした。御葬式のあとしばらくして真理子ちゃんから手紙が届いた。彼女から手紙を貰ったのは初めてだったので私は驚いた。便せん3枚くらいにびっしりと丁寧な文字で書かれたその手紙には、進路について迷っているといったことが書かれていた。親の期待に答えて進学するべきか自分の好きな道を歩むべきか。私は親の期待なんて無視して自分の好きな事をやるべきだと返事を出した。だって自分の人生なんだし、出来なかったことを人のせいにしないためにも、今自分が一番やりたいと思うことを胸をはってやった方が気持ちがいいに決まってる。大切なのは自分を信じてあげることだよって。私がそうやって生きてきて何の悔いもなかったから。辛かったり、苦しかったりしても自分で選んだんだから頑張れるよと。その後、母に真理子ちゃんはパティシエになるためにフランスに留学したと聞いた時は「やった!」と心の中でガッツポーズをした。その彼女も今は京都のマンションで一人暮しをしているとか。どんな女性になっているのか会うのがとても楽しみだ。

叔母が私の絵にとても興味を持っていると聞いたのは今年になってからだった。まさか直接絵を依頼してくることになろうとは夢にも思わなかった。「おばちゃんね、あきちゃんの絵見てるとすごく和むんよ。なんか優しい気持ちになれるんやわ。」嬉しかった。今まで親戚の中で妹や従兄弟を別にしてそんなことを言う人はいなかったから。母は女だから何があっても応援してくれるが、父は私が絵描きになってることも知らずに何年も会わないまま他界しているし、義理の父は私が絵を描いてご飯を食べていることを全く理解できずにいる。そんな中で身内から純粋に絵を感じてくれる人間が現れたことが何よりも嬉しかった。

一人の人の為に絵を描くことができるというのは、とってもありがたいことだ。その人のことだけを思って、その人が幸せになることだけを思って描く時間は私にとってはたまらなく幸せな瞬間である。絵も結局はエネルギー。どんなエネルギーをそこに注ぎ込み、見る人を通してどのように伝わっていくか。画面に留まっているように見えてもそれはひとつの生き物だともいえる。そんな絵描きとしての私にもっとも大切なのは己の魂を磨くことだ。だからまたひとつ新しい自分に出会うために行こうと思う。

京都へ。


_ 2006.12.05_>>>_ 満月

「ゴンとリズ」

アトリエの前のストリートを4軒ほど行った所に秋元さんという女性が一人で住んでいる。彼女は今、2匹の犬を飼っていてその名は「ゴン」と「リズ」という。

「リズ」は今年の春頃から秋元さんの元で暮らし始めた。この近くの小仏川の草むらに捨てられていたのを秋元さんが見つけてからだ。歩くこともままならなかった「リズ」をとりあえず動物病院へ連れていくと、体じゅうに癌による腫瘍が発見された。秋元さんの想像によると、たぶん元の飼い主は最初とてもこの犬をかわいがっていたが、病気であることを知り、どうしていいかわからずに散歩に連れていくのをやめ、ただ寝かせていたが、だんだん悪化していく様を見ていられずに何処からかやってきてそっと草の茂みに置いていったのだろうとのことだった。可愛がられていたとわかるのはとても人慣れしていたからだという。「リズ」という名はエリザベス・テイラーの成れの果てという意味で秋元さんが名付けたものだ。秋元さんはまず、歩くことを忘れてしまった「リズ」に少しずつ散歩の楽しさを教えていった。最初は体がガタガタ震えて一歩が踏み出せなかった「リズ」もだんだんと歩けるようになった。病気の方は腫瘍を全部取り出すとなると大手術となり、ほとんど病院生活になると医者に言われたため、あえてそうはせずに最後まで家で面倒を見ることを彼女は選択した。日に日に元気を取り戻す「リズ」の姿は近所の犬好きの住人にとっては注目の的となった。

「ゴン」は最初から秋元さんが飼っていた犬だとばかり思っていた。それが実は違うということを、つい最近になって初めて秋元さんが語ってくれた。「ゴン」の一番最初の飼い主はそれはそれはこの犬を可愛がり、目に入れても痛くない程の愛情を注いでいたが、ある時自分が癌と宣告され余命がもう幾ばくもないことを知らされる。飼い主は遺書をしたためた。「自分が死んだら、どうかゴンも一緒に火葬して欲しい。この犬は私なしではもはや生きられないだろうから。」しかし、残された親族はそうはしなかった。かといって誰一人自分が引き取ろうと言う者はなかった。それでもしょうがないだろうと、とりあえず親族の一人が引き取ることになったが、飼い方がわからずに次々と親戚中をたらい回しにされる。そうこうするうちに元の飼い主の姪がアメリカからアメリカ人のダンナを連れて帰国した。彼女は唯一自ら進んで「ゴン」を飼いたいと申し出た。ダンナは軍人だったので暮らす場所は横田基地の中だった。ある日。「ゴン」がちょっとした隙にリードなしのまま表へ出てしまった。でもしばらく名前を呼ぶと自分から帰ってきたという。けれどもダンナさんは許さなかった。「このままでは家に置いておけない。どこかよそへやろう。」「ちょっと待って。でもちゃんと帰ってきたじゃない。」二人の会話を「ゴン」はしっかりと聞いていたに違いない。再び踵を返し外へ飛び出して行ったのだ。基地を抜けて国道16号を渡りいつの間にか福生の駅へと歩いていた。基地の中には線路がなかったので「ゴン」は向かってくる電車を不思議そうにじっと眺めていたという。電車の車掌さんが気づいて急ブレーキをかけたが遅かった。その瞬間「ゴン」の足が空中高く飛んでいったのだ。踏切でその一部始終を見ていた人が血まみれになった「ゴン」を抱えて近くの動物病院へと運んだ。普通、動物病院では身寄りのない怪我を負った犬は保健所行きなのだという。けれどもお医者さんが「ゴン」を覗いた時、彼は目で「生きたい。」と、確かに訴えかけてきたのだそうだ。「よし。わかった。」とりあえず、飼い主が現れるまで病院で世話をすることになった。基地の中の姪御さんはその事実を知りながらも、もうどうすることもできなかったのだろう。飼い主が一向に現れないのを見かねて今度はその動物病院は新聞に里親募集の広告を出すことにした。こうなったことのいきさつと「ゴン」の足が一本ないことを添えて。

その新聞の記事をたまたま見たのが秋元さんだった。「ゴン」は秋元さんの元でみるみる元気になっていったそうだ。まるで最初から一緒にいるかのように二人は深い絆で結ばれた。しばらくして彼女の元に若い男女が尋ねてきた。「ゴンが元気でやっているかどうか、それだけ見に来たんです。」そう言ってそそくさと帰ろうとする二人を不審に思って問い正してみると、何とその二人は動物病院の人達だったらしく、規則では患者の動物と関わりを持ってはいけないことになっているので素性を隠していたのだそうだ。「何もいいじゃないの。そんなの気にしなくたって。さ、さ上がって。」話を聞くと「ゴン」は病院のみんなから愛され診療のない時は病院のベッドで横になり患者が来ると場所を空けて患者の様子を伺うという生活をしていたらしい。ほとぼりが冷めた頃、元の飼い主も改めて秋元さんを尋ね「ゴン」の生い立ちを話して言ったんだそうだ。初めて「ゴン」に会った頃、秋元さんはゴンの足のことを、「昔は負けん気が強くてよく電車に向かっていったのよねー。」と話していた。秋元さんの「ゴン」を愛する気持ちがそう語りたかったのだろう。

「ゴン」と「リズ」。ともに最初の飼い主から離れ秋元さんの元で同居することになった縁。人間に裏切られもし、救われもした数奇な犬生。「リズ」は三日前から散歩と食事を拒否している。今日、犬小屋ののれんをめくってそっと中を覗いて見ると、白内障でほとんど見えなくなった目をカッと見開いて「リズ」は静かに呼吸をしていた。まるで僧侶が自分の死期を悟り、自ら食を断ち瞑想に入っていくかのように、その姿はとても威厳に満ちそして美しかった。


_ 2006.11.20_>>>_ 新月

「共存」

18日に青山にあるギャラリー「共存」のウィンドウを「文水」「MARK」とともに飾った。三人でやる三度目の共存。今回の絵も今回のために描いた作品で、私は初夏の頃には絵を仕上げ、二人にその写真を送っていた。しかし一向に文水のサトウさんからの連絡がなく「いまいち乗り気じゃないのかなー?」なんて思っていたら、先月いきなりメールが来て「そうじゃなくて、ただずーっと考えていただけなんだ。遅くなってスマン。近々そっちへ行くからよろしく。」とのこと。その一言で事態は急速に動きだし、実現することとなった。

サトウさんの頭の中では、今回の素材は高尾で探せるかもしれないという思いがあって、まずは一人で下見にやって来た。私達が高尾に越してから彼がやってくるのは何と初めてのこと。去年から散々「来なよ。」と誘っていたのだがやって来ず、自分で「行こう。」と思うや否や向こうからそそくさとやって来た。「サトウマナブ」とはそういう人だ。「∀KIKOの絵もMARKの石も出来上がっているものじゃない?僕の役割っていうのはそこに植物でどうライブ感を出すか?ってことなんだけど、生かすも殺すもその最後のエッセンスにかかってるわけでそれがけっこうプレッシャーなんだぜー。」と彼。「そうそう。責任重大だよ!」とけしかける私。とは言っても文水の仕事に関しては私もMARKも全く心配などしていないし、毎回気持ち良くできるに決まっていると心底そう思っているのだ。事実一回目も二回目も見事に結果オーライだった。

でも三回目の今回は今までとは何かが違う、そう感じさせるものになった。

あの日。サトウさんとnociwと三人でアトリエを出発し森へと歩いた。私とnociwがいたせいで彼は気分がざわざわしてゆっくり落ち着いて物色できなかったかもしれないが、私は彼とnociwと一緒に自分が暮す森を歩いているということがただ嬉しかった。去年、私が頭頂にハチの洗礼を受けた天神さまでお参りをして「いいものがきっと見つかりますように。」と祈った。どんどんどんどん沢に沿って森を歩き、最後にnociwが大好きな湧き水がある広場へと辿り着いた。夕方の日射しがとても優しくて美しくて、私達はしばし山の斜面に腰を降ろして、ただボーッとその淡い光りを見つめていた。この散歩の中でサトウさんはちゃんと見つけていた。使いたいと思うものを。改めてもう一度、今度は素材をピックしに来ることにしてこの時はひとまず引き上げることにした。帰り道を歩いていると森の中からNOBUYAが車でやってきた。完成したばかりの母屋へ招いて薪ストーブの炎で飯を食った。男二人はビールがすすむ。二人ともなんだかとても嬉しそうだった。

私達は丁度十年前にサトウさんがやっていた「文水」という花屋で出会った。あの頃はしょっ中会っていた気がする。一緒に初日の出を拝みに高尾山へ登ったこともあったっけ。正月、雪の中のキャンプにも行った。沢登りをしてサトウさんが川へ落っこちたり….。でもやっぱり焚き火を囲んで過した時間が一番印象に残っている。サトウさんもNOBUYAも火が大好きだから。いつまでも火を魚にビールを飲んでいられるのだ。その後、サトウさんはお店を持つことをやめたり、私がギャラリーをオープンしたり、クローズしたり、それぞれにやるべきことをやり続けて月日が過ぎていった。昔のようにしょっちゅう会うことはなかったが、お互いに自分の信じる道をちゃんと歩いていたことだけは確かだ。だから今回のよなことが起こりえるのだから。「∀KIKOとまさか一緒にやることになるとは思いもしなかったよ。あまりにも近くにいたからさー。」彼は言った。でもね、サトウさん。この間、十年前にあなたから貰った手紙を偶然見つけたんだけどこう書いてあったよ。「いつか君とは一緒にやる時が来る。何かとてつもなく凄いことを。その時はきっと来るから覚悟してて!」

素材を運ぶ日はNOBUYAもMARKも彼の彼女のCHICOも集結した。サトウさんが選んだものたちはどれも本当に彼らしいものだった。大きく二股に別れた倒木。美しい苔で覆われた朽ちた木。そう。この森を最初に訪れた時、私も苔の豊かさに目を奪われた。MARKもしっかり苔のついた石をチョイスしている。「都会のショウウインドウの中でこの苔の美しさは一日しか持たないかもしれないけど…」サトウさんは言った。でもみんなは分かっている。このエネルギーこそが大事だということを。私とNOBUYAには知らされていなかったが、みんなはちゃっかりお弁当を持って来ていた。CHICOとサトウさんの作ったおいしいお弁当をみんなで頬張る。遊んでくれる人間がたくさんいてnociwはおおはしゃぎで広場をぐるぐると走り回っていた。

搬入当日。MARKがウインドウの中をセージで浄めてくれていた。高尾の森をその中へと少しずつ入れていく。いい香り。森の中にいる時よりも際立っているようにさえ感じる。不思議な感覚。サトウさんが必ず用意する丸いガラスの花瓶に水をはっていつものようにMARKが選んだクリスタルがそっと入れられた。覗くとたくさんの虹が見える水入りの水晶。今回はそこに苔のジュータンの上に咲いていた可憐な植物が根っこごと添えられた。土からすくう時「こいつがポイントなんだ。」と言っていたサトウさん。それはまるで水の中で水晶から芽を出した植物のようだった。おおまかな土台が出来上がって倒木に添うように絵を立て掛けていた時「ピキーン」という金属のような鋭く大きな音が鳴った。その時、中にいたのは私とサトウさんの二人。「何?今の音。」「凄かったね。」きょろきょろと辺りを見回していたサトウさんが驚いて言った。「あぁーっ!花瓶にヒビが入ってるよー。」「うわぁーっ!ホントだー。」「今まで散々乱暴に扱ってきてもびくともしなかった分厚い花瓶なのにーっ。」「………」さっそく表へ出てMARKにそのことを話すと、実はその花瓶の横に置いていた水晶は先月のタイの旅で出会い、家でお水できれいに洗っていた時にも、急に大きな音がして石に亀裂が入り色が二つに分かれたのだという。つまり同じ現象が起こったのだ。いってみればそれは水と石との単なる科学変化なのかもしれない。でも私には何かのサインとしか受け取れなかった。何のサインかって?ふふふ。それはね。

「始まった。」ってことだよ。


_ 2006.11.05_>>>_ 満月

「チャランケ祭り」

中野で行われたチャランケ祭りに行って来た。「チャランケ」とはアイヌの言葉で「とことん話し合う」って意味で、沖縄でも「チャーランケ」って「消えんなよぉ」という意味があるそうで、アイヌ出身と沖縄出身の二人の男の出会いがきっかけで1994年に生まれ、今年で13回目を迎えるという祭りだった。Emi+Agueに誘われて私達も去年に引き続き2度目の参加となった。アイヌの人々や沖縄の人々に先祖から受け継がれてきた唄や踊りを参加者みんなで分かち合う「チャランケ祭り」。「祭りとは人が生きてゆくために、何とかかわってゆくのかを確認する場。そのことを体を動かしながら楽しく体験できたらと思っています。」とパンフレットには書かれていた。今までは1日だけの開催だったのが、今年は2日間になった。1日目はアイヌの祈り、カムイノミと交流で2日目はアイヌと沖縄の唄と踊りの共演。アイヌの祈りの儀式では祈りの後、集まった人々によって酒宴が行われて、唄や踊りが繰り広げられる。今年のチャランケ祭の1日目がカムイノミと交流になったのは、こうしたアイヌの考え方を尊重しようとの考えからだったそうだ。カムイノミでは、ここでチャランケ祭が行われることをこの地のカムイたちに告げ、北海道、樺太などふるさとを遠く離れて死んでいったアイヌ達への先祖供養が行われた。

今年は伝統的なアイヌの唄と踊りに加え、若い世代のアイヌ達で結成されたグループ「AINU REBELS」が登場した。アイヌの伝統文化を学びながら、今を生きるアイヌの新しい文化を表現していきたい。多くのアイヌが「アイヌに生まれてよかった。」と誇れる社会にしたい。そのためには、カッコよく、エネルギッシュに、そして楽しくアイヌを発信していきたい!彼らの熱い熱い思いがビシビシと伝わってきて、私もたくさん元気をもらった。彼らが作ったTシャツには「チェ・ゲバラ」がアイヌの鉢巻き「マタンプシ」をして、そう遠くない未来に起こるであろう価値観の変換を見据えていた。「AINU REBELS」のグッドバイブスにやられて私は帰りの車の中でずっと唄い続けていた。身体が自然に表現したがったのだ。

先日家賃を払いに行った時のこと。大家のおばあさんが言ってきた。「ゆうべね、人間とはいったい何なのか?という考えが浮かんできて急に眠れなくなってしまったの。」今年の正月、御主人を90才で亡くされ残された彼女は88才。65年間夫婦として連れ添ってきた。兵隊として10年間戦地へ赴き軍の上官の地位について生きて戻ってきてからは、警察官として務め、そこでも最高の位について多くの部下達に見送られ旅立っていった御主人の魂。どこも体に悪いとこもなく、前日まで元気に大好きな畑仕事をしていつもと変わらずに布団に入ってそのまま永遠の眠りについた。老衰。徳の高い人だったのだと思う。「主人がいなくなるということを正直いって死ぬまで考えたことがなかったのよ私。まだ病気がちだったり、入・退院をくり返していたりしたらそれなりに覚悟もできたんでしょうけど、本当に突然だったから。今でもテレビを観ながら、ねぇ。お父さん!と思わず話し掛けてしまうの。それでハッ!と気づくのよ。そうだ。もういないんだってね。それで人間っていったい?と考えてしまったのね。不思議よね。この年になるまでそんなこと考えたこともないのにねぇ。」と言って彼女は笑った。そして御主人のことを想う時はいつも、一緒に過した楽しかったことだけが思い出されるのだという。「だからね。経験上これだけは私にも言えるの。夫婦で楽しい時間をうんとたくさん作っとくべきだって。」「はい。わかりました!」私は答えた。御主人が私に言ってくれた言葉を思い出す。「我々軍人のような者よりも、あんたら芸術家達の方がより広く自由な視野で物事を見通しているとわしは思っとる。芸術はすばらしい。」

家に辿り着き、さっそくNOBUYAがお風呂を沸かした。1年3か月かけてほぼ完成した母屋の生活にもやっと慣れてきた今日この頃。我が家の風呂は離れにある。湯舟に浸かってガラッと古い木枠の窓を開けると、ポッカリと丸いお月さんが顔を出した。ふと目線を降ろせば、眼下に流れる川面にもその姿が映っている。ゆらゆらとゆれる月を愛でながら「あぁ。なんて自分は幸せなんだろう。」そうつくづく思った。

ありがとう。


_ 2006.10.22_>>>_ 新月

「レクイエム」

個展4日目の新月の日。ついこの前のござれ市に来てくれた「江里ちゃん」と「千登勢ちゃん」がやってきた。最初2人は廊下に飾っていた額装の絵を気に入って買おうかどうかを迷っていた。その絵は隣同士に仲良く並んでいた。2人でそれぞれに自分なりの絵の解釈をしながら盛り上がっている様子だったので、私はその場を離れて席に着いた。やがてしばらくしてふと気づくと、江里ちゃんがフライヤーにもなった二対のオオカミの絵の前で、まるで教会で礼拝しているような姿になってとめどなく涙を流していた。彼女は「何故?勝手に涙が出てきてしまう。いったい何なのこれは?」と自分でも説明のつかない状態にかなり動揺したようで「ちょっと表へ出て気持ちを落ち着かせてきます。」と言って出ていった。1Fのカフェでランチを食べて冷静になって戻ってきた彼女は言った。「この絵を買います!」と。そして千登勢ちゃんまでが、以前ひとりごとにも書いた不思議な体験で描きあげた蛇の絵を「私はこっちだったようです!」ときっぱりと言った。

実は今回の個展を私とNOBUYAはある魂に捧げていた。それは前回のひとりごとで初めて名前を挙げた犬。ホワイトシェパードの「ユタ」にである。10月7日にトージバのイベントがあり、カフェ・スローでNOBUYAがDJをやることになったのでnociwをユタのもとに預けた2日後の10月9日。激しい雨の去った後の気持ち良く晴れ上がった午後にユタは家の前で通りすがりの車に跳ねられて死んだのだ。オーナーの「つくし」と「たけし」が庭いじりをしていたつかの間のいつもの光景の中での出来事だった。ユタはまだ7才で見るからに健康そのものだったが、まるで「今日が死ぬのにはもってこいの日」だと言わんばかりのあっけない逝き方だった。

本当に深い愛情を注いでいたユタの突然の死に、悲しみ暮れるつくしとたけしにはかける言葉もなかったが、私とNOBUYAもどうしても信じられなくてしばらくの間放心状態が続いた。間もなく始まる個展を目前にしてのこのタイミングはいったい何なのか?私達がユタから受け取るメッセージとは?その時私達の中に「この個展はユタのために捧げよう。」というゆるぎない気持ちが自然に込み上げてきた。奇しくもメインの絵は二対のオオカミだった。nociwとユタがいつもじゃれあって遊んでいた姿。ホワイトシェパードの故郷はカナダ。nociwの中にはカナダのオオカミの血が流れている。2人は本当によく似ていた。ただ体が真っ白と真っ黒だっただけ。そう。あの陰陽のマークのように。

21日。来るかどうかはわからなかったが、つくしとたけしを誘ってみた。NOBUYAのDJの中でオオカミの遠吠えとたけしの作った曲をミックスした8分間があった。私とNOBUYAとつくしとたけしにしかわからない世界。でもたとえ2人が来なかったとしてもこれだけはやろうと決めていたのだとNOBUYAは言った。私は2Fのギャラリーにいてオオカミの絵から発せられるその遠吠えを聞いていた。彼はDJブースでハンチングを目深に被り、泣いていたそうだ。つくしとたけしも泣いていた。「その時、ユタが駆けて行って、もといた場所へと帰っていく姿を確かに見たんだ。ありがとう。」とたけしは言った。パブリックスペースで起こった魂の昇華。あの時いたお客さんにも無意識にそのエネルギーが伝わっていたのだと思う。本当にみんながキラキラと輝いていたから….。

その翌日に起こったオオカミの絵の前での現象。驚いたのは絵を買った江里ちゃんがなんと高尾の人だったことだ。しかも天皇が眠る墓地のそばだった。ユタとnociw は高尾の地で幾度となく走り回った。ユタの体は高尾の森に眠りこの土地の栄養になっていく。そしてその魂はすべての遍在する意識の中へと溶けていき、再び私達とひとつになったのだ。

ありがとう。ユタ。あなたに会えてよかった。


_ 2006.10.07_>>>_ 満月

「full moon magic」

カフェスローで行われたトージバのイベントでNOBUYAがDJをすることになったので、個展の下見がてら私もついて行くことにした。長丁場になるのでnociwをボーイフレンドのホワイトシェパード「ユタ」のもとに預けることにする。突然の申し出にも関わらずユタのオーナーである「つくし」と「たけし」は快く引き受けてくれた。

朝着いてみると、トージバのタカシが前日の嵐の中収穫したという枝豆が山のように積まれていた。この日のイベントのタイトルは「地大豆カフェvol.2」だったので、日本古来からの在来種の豆の本当のおいしさをみんなに知ってもらうべく、自分達で育てた豆をふるまうために用意されたものだった。カフェの中庭でみんなで輪になって座り、枝から豆をひとつひとつもいでいく。豆に着いた泥が雨の中の収穫の苦労を物語っていた。その時にNOBUYAが流していた音がまた牧歌的で、私たちはみなどこかの異国で農作業をしている仲間達のような気分になり楽しくなった。豆はきれいに洗われ茹でられておいしい枝豆になった。一部は砂糖と和えて「ずんだ」というあんになり、恒例のもちつきのあと、「ずんだもち」として配られた。これがたまらなくおいしかった。

大豆を作る農家さんやお豆腐屋さんの興味深い話が続いたあと、ホーミーと馬頭琴の眠気を誘うような心地よいライブがあった。強烈だったゲストはスウェーデンからやって来た日本人「アキコ・フリッド」さんだ。彼女はグリンピースのメンバーで10年前からずっと「遺伝子組み換え大豆」と戦い続けてきた人だった。そして最近グリーンピースから発行された「トゥルーフード」(食べていませんか?遺伝子組み換え食品)というひと目でわかる安心な商品・メーカーリストのガイドブックを引っさげての登場だった。彼女は初めて「遺伝子組み換え」という言葉を耳にした時から心に強い違和感を覚え「これは絶対によくないことだからやめさせなきゃいけない。誰かがやらなければ。じゃあ私がやる!」と決心し、そのまま真直ぐに自分の信じる道を歩き続けてきていた。私はそんな彼女のひたむきで純粋な心に強く打たれてしまった。今までグリンピースには先入観からか、あまりいいイメージを持っていなかったのだが、こうして一人の表現者として目の当たりにしてみると、「彼女もアーティストなのだ」と思えた。自分と同類。表現の仕方こそ違えど目指すところは一緒だっだ。トークのあと「アキコさん」とパートナーの「まいちゃん」と三人でしばらく話をした。初めて会ったのに異常に意気投合してしまう私達。まいちゃんが十代の頃からしているというロケットペンダントに入っている大好きな両親の写真を見せてくれたのだが、どんなに目を凝らしてみてもインドの神様にしか見えなかった。不思議な感覚。三人でハグしてみる。ぶっ跳びそうになった。(笑)

「あのぉー、個展のフライヤーくださーい」と話しかけてきた子がいた。農業と糸つむぎのワークショップをやっている「なよごん」だった。その友達の「なお」もいた。「友達から∀KIKOさんの絵を見せてもらっててずっと気になってました」初めて会う「なよごん」も「なお」も何の違和感もなくスーッと溶け込んできた。「あ、満月だーっ!」私は叫んだ。まん丸で、でっかくて、美しい月だった。「えっ、どこ、どこぉーっ」月を見るために窓辺にどやどやと集まって来た時のみんなの、くったくのない笑顔がとても印象的だった。私はこういうシーンになぜだかいつも、とてつもなく幸せを感じてしまう。「なよごん」と「なお」を誘って外に出た。大きな月はさらに輝いて見えた。突然「なお」が分厚いカバンの中から「ポイ」を取り出して舞い始めた。「何だか月を見てたらやりたくなっちゃった…」「いいよ」「うん。非常にいい」満月とポイ。とても愛おしい光景だった。「最近ちょっと気分がモヤモヤしていて、今日ここにきたらきっと答えが見つかる気がしたの」と「なお」は言った。「つまり、直感は正しいってことだよね。いつだって!」

この日は小川町で、原料となる素材からこだわって地ビールを作ってる方のビールが飲めるビアパーティーが5時からスタートしていた。そこから終了までの2時間はノンストップで音を流せたのでNOBUYAが一番楽しめた時間帯だったようだ。車で帰るから大好きなビールは昼間で終わりだったけど、ビールで気分が良くなってニコニコしているお客さんをさらに音楽の力でもっといい気分にすることができて、彼はとても幸せそうだった。確かに音楽も、枝豆も、ビールも、みんなを酔わせたけれど、あの後半の会場の中のテンションの異常な盛り上がりはぜったいに満月の仕業だったな….。

個展まであともう少し。「お月さん。見守っててね!」


_ 2006.09.22_>>>_ 新月

「キラキラ星」

近所に住むAgue+Emiファミリーと猛男+優子夫婦。そこにMark+Chikoカップルが加わってみんなでキャンプをしてきた。久々のキャンプだった。

当日の朝、今度の個展に出す新作の最後の一枚が完成した。ここのところ、ずーっと描きっぱなしでぜんぜん休んでなかったので、ほんとうに久しぶりに休日を満喫した一日だった。それも大好きな仲間達とともに。NOBUYAたちは朝から張り切って、まず市場へと出かけた。そこで大きくて新鮮な生鮭を二切れ仕入れて帰ってきたNOBUYAはとっても上機嫌だった。彼が作りたかった料理は「ちゃんちゃん焼き」北海道の漁師たちが食う鮭と野菜の味噌ごった焼きだ。「おでん」が食いたいと言ったAgueは珍しい練り物をたくさん仕入れてきた。Markたちとは現地で合流することにして、ご近所メンバー三組はいざ出発!と勢いよくいきたいところだったが、「アレを忘れた」「コレを忘れた」となかなか出発できない始末。やっとこさっとこ出発したものの、途中でみんな腹が減ってコンビニで腹ごしらえをしだしたら、今度は立ち食いしながらあれやこれやと話が盛り上がり、再び出遅れてしまった。みんな嬉しくて気分が昂揚していたのだ。優子はしっかり、普段は飲まない高級なビールを口にしてその「プレミアムな気分」に酔い知れていた。

やっと到着したもうひとつの我が家。それぞれにテントを張りテーブルを組み立て楽しむための準備に真剣に取り組む。私とNobuyaはnociwを連れてさっそく精霊の滝へ挨拶に行った。「一晩みんなが安全に心ゆくまでリラックスできますように」そして「今度の個展で来た人みんなが気持ち良い時間を過ごせますように」と。精霊の岩はにこやかに笑って迎えてくれた。それまでの雨続きで、川の水は豊かに溢れかえっていた。それなのにこの日はまるで神様から私たちへの贈り物のように、久々にすがすがしく晴れ上がった本当に気持ちいい一日になった。夕暮れ、Nobuyaが火を起こし、Agueが火の神に祈りを捧げた。ちょうどその頃Markたちが登場。Markの犬、ベスとnociwは初顔合わせとなった。家の近くよりもさらに深い森の中に来てRiwka+Kantoの子供達の目がとたんに輝きを増した。

腹ごしらえの時間がきた。「ちゃんちゃん焼き」と「おでん」は狙いどおり大盛況。Nobuyaも満足そうだった。たたでさえ外で食う物は旨く感じるものだが、そこに仲間がいて、子供がいて、犬がいる。それだけで旨さが何倍にも増してしまうから不思議だ。ひととおり腹が満たされると、今度は焚き火を囲んで思い思いの時間を過す。自然に色んな楽器が揃って、それぞれが自由に音を奏で始めた。舞台の袖から猛男がギターを持って登場。みんなのリクエストに答えて唄い出す猛男の横でいい塩梅に出来上がった優子が踊り出した。一同笑いの渦。Emiの先導でアイヌの唄「ウコーク」をみんなで唄った。ウコークとは輪唱のことで私はこのウコークが大好きなのだが、順を追って唄っていくことによって生まれるグルーブ感がたまらなく心地良くてトランス気分になる。しかも人数がこれだけ揃ったらどうなるのか?そう考えただけでワクワクしてぜひやってみたかったのだ。私はみんなで唄うことができたことがとても嬉しかった。火の神様も笑っていた。空には満天の星。子供達と寝そべって星を見ながら「キラキラ星」を合唱した。たまらなく幸せな気分になった。「あーっ。オレ今でっかい流れ星見たーっ!」とAgueが子供の顔になって言った。眠るのがもったいない、そんな素敵な夜だった。

翌日も晴天に恵まれた。優子は夕べ話していた通り、川に冷やしていた白ワインを開け朝日とともに口にしていた。「特別な朝」だ。Nobuyaが再び火を起こす。煮詰まった二日目のおでんの味はやはり最高だった。みんな我慢して取っておいた卵を旨そうに頬ばる。フリスビーをするベス。気に入った草の茂みで寝転がるnociw。「大きな栗の木の下で」を振り付きで唄っているRiwkaとKanto。バトミントンに興じるカップル。ギターを手に唄い出す夫婦。みんなてんでバラバラに遊びの続きを楽しんでお開きの時間がやってきた。「道の駅」で昼飯を食べて温泉に入り、湧き水を汲んで解散となった。といっても道の途中で別れて行ったのはMarkたちだけで、あとの三組は最後まで一緒だったのがなんともおかしかった。普通は友達とキャンプに行って帰ってくると、ちょっぴり淋しい気分になるものだが、それがまったくないのだ。「近すぎるよね。うちら」と言いながら最後に猛男と優子と一応ハグを交わし我が家へと戻った。いつもと同じ一日なのにそれ以上に時間がたっぷりと与えられたような、そんな魔法の一日だった。

みんなありがとう。愛してるぜ!


_ 2006.09.07_>>>_ 満月

「dream story」

MARKがアトリエに来て話をしてたら、夢の話しになった。寝ている時の方の。

そう。私は夢を見る。とても不思議な夢を。だから「パッ」と目が覚めた時は、それが何時であっても起きて今見ていた夢をノートに書き留めることにしている。絵と一緒に。朝、起きた時に書けばいいやと思って寝てしまうと、思い出せないことが多いからだ。それが悔しくて、どうせなら記録しとこうと思って始めたのがこの夢日記だった。かれこれちょうど10年になる。普通の日記はこんなに続いたためしはない。毎日書かなきゃとなるとめんどうで三日坊主になってしまうが、夢日記は夢を見た時だけでいいから続けられた。それも「象徴的な夢」を見た時だけと決めているのでもっと楽だ。でもその時は、興奮して一気に書きなぐるのだが、それ以後ノートを見ることはめったにないし、何年も前に見た夢のことなんかはだいたい忘れてしまっている。だから今回たまたまページをめくってみて「へぇーこんな夢見てたんだー。」と、単純に興味をそそられた。まるで初めて知るお話を読んでいるような気分になってとてもおもしろかったのだ。そんな中でも読み返してみてその時の記憶が鮮明に蘇る夢もあった。

1997年6月13日金曜日。nobuyaと夫婦になった日の夜に見た夢。

真っ白な部屋。親戚一同が皆白い衣装を着て私達の結婚パーティーに集まっている。と、nobuyaのお兄さんが突然、部屋のまん中に歩いてきて大の字のまま、うつ伏せに「バタン!」と倒れた。全員が中央に注目する。すると真っ白なスーツの丁度お尻のあたりから真っ赤な鮮血が流れ出し、床に「寿」という見事な大文字を描いた。

私は夢の中で真っ赤な寿がプルプルと躍動している様を見て「あぁ。私達の結婚は天に祝福されている。」と直感し道は正しかったのだと悟った。そして翌朝目覚めると、私達は余市から妹夫婦と車で夕張方面へとあてどもないドライブに出かけた。田舎道を走ってる時、急に喉が渇いてきた。でも自動販売機が見当たらない。コンビニもない。どこかにお店があったらそこで飲み物を買おうと決める。しばらく走るとやっと一軒、商店らしきものが見えてきた。車を止め外に出て店を見上げ仰天した。真っ白に塗られた壁の上に真っ赤な文字ででっかく「寿」と書いてあったのだ。そこは「スーパー寿」だった。私は一人鳥肌を立たせながら「ありがとうございます。」と手を合わせた。そしてこれは余談だが、nobuyaにその夢を話すと「えぇっ!その通りだ!実は今、兄ちゃん痔なんだよ!」と驚いていた。確かに「寿」と「痔」ってよく似ている。だからお兄ちゃんは体を張った大役に抜てきされたにちがいない…….。(笑)

そして私の夢物語りは続く。


_ 2006.08.23_>>>_ 新月

「return to the earth」

まんなかへ どんどんすすむ

そこは そと
そこは なか

それは あなた
それは わたし

まんなかへ どんどんすすむ

そこは うみ
そこは そら

それは あなた
それは わたし

うれしい時も かなしい時も
おだやかな時も はげしい時も

いつだって つながれる場所

自分自身のまんなかへ

母なる地球の まんなかへ


_ 2006.08.09_>>>_ 満月

「beyond the infinity」

蛇を葬った。

蛇を葬ったのはこれが二度目だ。一度目は高尾の森をnociwと二人で散歩していた時。今回は山梨の昔よく通っていた森に通じる道の途中だった。毒のなさそうな縦じまの入った大きな蛇だった。めったに車が通らない道ではあるが、そのまま通り過ぎることがどうしてもできなくて土に埋めようと思ったのだ。まだ死んで間もないようで体温も残っていた。最初しっぽを片手で持つと、くねくねと蛇が生きている時のような動きをした。「なるほどこれが蛇腹の仕組みか。」と妙に関心する。土を掘って埋める準備が整うと、今度は両手で抱きかかえて、しっぽの方からじょじょにとぐろを巻いていき、最後に頭をちょこんとその上にのせると威厳に満ちた蛇の姿になった。「うん。これがふさわしい。」土をかぶせ、塩と米と酒を供えセージを焚き、フルートを奏で、手を合わせた。そうすると気持ちがとてもスーッとした。

この日、久しぶりに昔なじみの森を訪れたのは、私達が「精霊の滝」と呼ぶ場所へ行くためだった。前日にNOBUYAがnociwと森を散歩していた時、いつものように川べりで小石を投げるのをジャンプしてキャッチするというnociwの大好きな遊びをしていて、過って石が目に当り、片方がつぶったままになってしまったのだ。病院へ行くという方法もあったが、それよりもエネルギーの高い場所に身を置いて、自身の自己治癒力で癒すという方が今回の場合は自然だろうということで私達の意見は一致した。nociwに備わる野生の力を信じることにしたのだ。私達は滝の前に自然に設えられた石の祭壇のもとに腰掛け、今日来た理由を述べ祈った。全身すっぽりと滝に入り身を清めると、とてもすがすがしい気分になり心が洗われた。ひょっこり顔を出したこの滝の住人であるヒキガエルにもちゃんと挨拶をした。何度かここを訪れているnociwも気持ちよさそうにもう片方の目もつぶってほとばしる水の力を感じていた。蛇に会ったのはそのあとだった。

蛇は龍と同じく水の神とされている。もともとは田畑や川の神であった弁財天と同一とされることも多い。水は命の源だからそれだけ人々にとっても昔から重要な存在だったのだ。私達の故郷「余市」はアイヌ語で「蛇がたくさん棲むところ」という意味を持つということを知った時、とても納得できたし嬉しかった。今まで自分が経験してきたことが一本の糸で繋がった気がしたからだ。そして今、私は十月の個展に向けて製作の真只中なのだが、今回のことは、まさに次は「蛇」を描こう!と直感で決めていた矢先の出来事だった。私は蛇の屍を抱きかかえながら、不謹慎にもその体をくまなく観察し「ホーッ!」と感動の声を漏らしてしまった。それはあまりにも美しかったから。「ほんとうにこの世界はうまいことできているな。」とつくづく思う今日この頃。人間も動物も自然も姿は違えどみんなひとつ。みんなどこかで互いにつながっているのだ。そしてその安心感が私という一人の人間を幸せにしてくれているというのもまた事実。この感覚を味わったあとには、とにかく「ありがとう。」と言いたくなってしまう。誰に?そう、私を含めたひとつの存在に。

次の日。nociwの目に再び光が戻ってきた。


_ 2006.07.25_>>>_ 新月

「江ノ島弁財天」

登山家の由美子のファミリーとともに江ノ島参りに行ってきた。この場所には2004年以来、毎年参拝に訪れている。初めて行ったきっかけは、ここの裸弁財天が夢にでてきたからで、去年と一昨年は一人で参拝したが今年は初めてNOBUYA+nociwも含めてみんなでお参りする運びとなった。ここはカップルで参拝すると別れるというジンクスがあるので夫婦別々のw参拝にしたのである。いつも「NOBUYAも来たらいいのにな。」と思っていた私は嬉しかった。しかもnociwも一緒なのだ。「今年は今までとはまたひとつ何かが大きく変わる年なんだなぁ。」そんなことを感じながら入口の大きな鳥居をくぐると、すぐ左にある「えびすや旅館」が目に止まった。私はとても懐かしい気分になった。最初にここを訪れた時に味わったあの奇妙な体験を思い出したのだ。

弁財天の夢を見た日。ギャラリーnociwで雑誌の取材を受けてからそのまま江ノ島に向うと、辺りはもう薄暗く初めて来た私にはどっちへ行けばいいのかさっぱりわからなかった。すると、立ち往生している私の前を若いカップルが通り過ぎようとしてこちらをちらっと見て止まり「あのぉ。どちらへ行かれるんですか?」と声を掛けてきた。「江ノ島神社です。」と私。「実は僕たちもこれから向うとこなんです。よかったら一緒にどうです?」カップルの邪魔をするようで悪いなとは思いながらもついて行った私は彼らと一緒に参拝することになった。

江ノ島はこの小さな島自体が御神体で、前、中、奥と弁財天社だけでも三つある。この時は一番手前でお参りした時点ですっかり暗くなってしまった。せっかく来たのにこんな触り程度で帰りたくはないなと思った私は急きょ「今日はどこかの宿で一泊して、明日の朝もう一度出直そう。」そう心に決めた。石段を降りながらカップルにそのことを告げると「実は僕達すぐそこのえびすや旅館に宿を取ってあるんです。どうせだったらそこの旅館で部屋を取ったらどうですか?」と言ってきた。「そうだね。近いしいいや。」と思った私は二人に連れられて旅館の門をくぐった。フロントで一人部屋の空きはあるかと聞いてみると「恐れ入りますが当旅館では当日の受け付けは致しておりませんし、あいにくお部屋も空いておりません。」と丁寧に断わられてしまった。「仕方ないや。他を当たろう。」そう思い「わかりました。」と言って帰ろうとした私を遮って二人は何と「僕達の部屋に彼女を泊めることはできませんか?どうかお願いします。」そう言ったのである。私の頭の中は?でいっぱいになった。「変じゃない?このカップル!」受け付けの女性も心とは裏腹に冷静を装って「そういうことでしたら特別にお泊めしてもいいでしょう。ただし一名様は正規の料金を頂きますし、本日お食事の用意はできません。それでもよろしければ。」と付け加えた。「食事は僕達のを三人で分ければいいよね。二人分でも多分豪華な食事だろうから十分足りるだろうし。」「ぜひぜひ。そうしてください!」仲居さんの後について部屋に通された我ら三人。どういうわけだか初めて会った見ず知らずのまだ名前も聞いていないカップルと一夜を共にすることになってしまったのである。

ひと段落して、まずは彼女と一緒にお風呂に行った。彼は七つ年下で二人ともアパレル業界。デパートのそれぞれ違うショップで働いていて休憩室が一緒なのでそこで知り合い意気投合したというようなことを、彼女はとつとつと私に話して聞かせた。彼はとても優しくて少年のような心を持った人だと。部屋に戻るとテーブルいっぱいに本当に豪華な御馳走が並んでいた。「遠慮なくバクバク食べてくださいね。僕らだけじゃ食べ切れないから。」「そう。私けっこう食べられないもの多いんです。」「なんていい奴らなんだろう!」私は心から感動した。そして初めて会ったとは思えないくらい大笑いしながら家族みたいに食事をつつきあった。私が絵を描いていると言うと、彼の方が特に興味を示し、実は自分もアートが好きで本当はそっちの道に行きたいのだと言った。食事が下げられ、今度は仲居さんが布団を引きにきた。「あのぉ。お布団はどのようにお引きしたらよろしいでしょうか?」「川の字に並べちゃってください。」と彼。布団が引かれた後二人は散歩に行ってくると言って出ていった。私も誘われたのだが断ったのだ。ひとりになって改めて川の字に並んだ布団を見下ろし、不思議な感覚に襲われた。「二人が泊まるためにわざわざ取った宿の部屋で、なんで私が川の字なの?」そして無い智恵を絞ってここはとっとと早く寝るべきだと思い、一枚を端っこに引っ張って壁にくっつけ二人との間隔をあけ布団に潜り込んた。けれども、寝れっこなかった。妙な緊張感が全身を走って全然眠くないのである。布団の中でジタバタする私。

と、そのうちに二人が帰ってきてしまった。「あれっ。もう寝ちゃったみたい。」「そっかぁー。じゃあ飲む?」「う、うん。」冷蔵庫を開けて瓶ビールを取り出す音。「乾杯!」聞きたくなくても聞こえてきてしまう声。その音をざっと整理すると、どうりで二人は訳ありだった。彼女には結婚を控えた同棲中の彼がいて、この日は友達と旅行に行ってくると言って出てきたのだ。彼はそのことに少し後ろめたさを感じていた。本当に自分とのことが本気ならまず同棲中の彼にそのことを伝えるべきで、自分とはその後だと言う彼。同棲中の彼の悪口をいう彼女。「ようするにこれって、あのマリッジブルーってやつ???」布団の中で出るに出られず悶々とする私。かなり酔ってきた彼女。二本目が空く。彼がふと言った。「今日∀KIKOさんに会って思ったんだ。また絵を描きたいなって。」「ギクッ!」「出会えて本当によかったよ。」「クソーッ。泣かせるじゃないかーっ。」そして三本目が空いたころ、「すっかり空も明るくなってきちゃったね。もう寝ようか。」となったのである。「ふーっ。やっと寝るかー。」と胸を撫で下ろしたのもつかの間、今度は彼女が大胆にも彼に迫っている様子なのだ。最初は拒んでいた彼もやはり男。しかも若い。酔っていたということもあり、まんざらでもなさげな状態になってきた。その時、私の心の中には「人間とは何か?」という問いかけの言葉が浮かんだ。そして、ある若者の現実というものをこうして垣間見ている自分の状況を思った。「弁財天は何故、今日夢に現われこの場所へ自分を導いたのだろうか。…」さて、今にも何かが起こりそうな気配は進行している。でも私にはそれを黙って聞いている趣味は毛頭ないし、第一この状態にはもう耐えられないというところまできていた。そこで私のとった策は…..

おもむろにガバッと起き上がり「あーのど渇いたーっ。」と言って堂々と水を飲みに行ったのである。二人はといえば、まるで何ごともなかったかのようにそれぞれの寝床に素早く戻り、「グーグー」といびきまでかいてぐっすり眠っていましたとさ。

おしまい。


_ 2006.07.11_>>>_ 満月

「水行」

暑い。北の旅から戻ってきてみたら東京は真夏だった。それにこの蒸し暑さといったら…。でもここは東京のはずれの山の麓なので都心に比べたらまだましな方だ。現に家にはクーラーも扇風機もない。先日用があって新宿の街を歩いたら、その暑さと息苦しさで胸が詰まりそうになった。頭の中がクラクラして足下がおぼつかない。まるでパニック状態のようになってしまったのである。自分でも驚きだった。東京生活も長いというのに何たること!情けない。たぶん山に引っ越してきて、すっかり体がこっちに馴染んでしまったからなのだろう。それでも山は山なりに暑い。そんな日々の暑さしのぎに今私達がハマっていること。それは水行だ。

水行といっても単に素っ裸になって川に入り身を浄めるだけのことなのだが、これがたまらなく気持ちがいいのである。夏といっても川の水は冷たい。が、その冷たさを我慢してエィッと肩まで入り、更に頭まですっぽりと入って目をあける。するとそこには川底のクールな世界が広がっているのだ。一旦入ってしまえばこっちのもので、あとは体がしびれて我慢できなくなるまでいればよい。流れの急な箇所に頭を突っ込み「あああああああ」と声の出るままに任せるのもいいだろう。そうして陸に上がってみると、もうそこは別天地だ。体が冷えに冷え、あまりの爽快感に笑いが止まらなくなる。吹く風の心地よさに気持ちがどんどん和らいでいく。これを毎日続けていると、どんなことがあっても、この水行ですべてがリセットされることに私達は気づいた。体だけでなく心もクールダウンさせてくれていたのだ。水って不思議だな。

神妙な面持ちで川に入る私達とはいつも距離をおいて、nociwも当たり前のように川に入って水と戯れている。きっと「人間っておもしろい生き物!」と思っているんだろうな。川に入るにも「あーだ。こーだ。」と大袈裟になっちゃって。nociwはいいよな。服も靴も脱がなくていいから面倒がなくてさ。あ、でも毛皮を年中着てるから夏はしんどいんだね。お気の毒に…。だから今日も行くぞ!クールダウン。クールダウン。

すべてを水に流すために。


_ 2006.06.26_>>>_ 新月

「浄化の旅」

富士山での平和の祈りWPPDを終えたあと、そのまま北を目指して旅に出た。NOBUYAとnociwと3人でポンコツ車での3500キロの旅。夏至の日に集まった人々とひとつの輪になり祈りを捧げ、その思いを胸に私達の故郷である「北海道」へと向った。飛行機ではあっという間に着いてしまう、ふるさとの遠さをゆっくり時間をかけて味わってみたい。気になった所でキャンプをして温泉に入り、体と心を癒しながら。何より愛するnociwに私達が生まれ育った大地を見せたいという思いもあった。WPPDに集った仲間たち。MARKとAgue+りうか、たえこ、かっちゃん+ちえちゃん、JUNE+しょうちゃんに別れを告げいざ旅立った。まずは青森へ。青森にはnociwの姉妹「セロン」がいる。5匹生まれた子犬の中で唯一真っ白に生まれたセロン。とても繊細で美しいセロン。3月7日の子犬たちの誕生会に、彼らの故里で初めて会ったセロンの飼い主の「たかしさん」と「やよいちゃん」が北海道へ行く時には、行きも帰りも是非寄ってってね!という言葉をかけてくれたことを間に受けて、まずは彼らのところへと向った。二日前に突然電話したにも関わらず二人は快く私達を迎えてくれた。

久しぶりに再会したセロンとnociwは、最初牽制し合ってたもののすぐに仲良くなり、まだ親元で共にじゃれあって遊んでいた頃に戻っていつまでも夢中になってプロレスをしていた。そんな彼らの姿を微笑ましく見守りながら人間たちも再会を喜び合った。次の日はみんなでキャンプをして、あくる朝船で海を渡ることに。翌日、まずは恐山へ。日本三大霊山のひとつとされる恐山には一度訪れてみたかった。辿り着いたとたん、何ともいえない空気が全身を覆った。それは怖いとかそういうものではなく、お腹のあたりにどっしりとした感覚を味わうものだった。私達は三途の川を渡り、様々な地獄をくぐり抜け、極楽へと辿り着いた。そこは本当に美しく、まるで沖縄かどこかの南の島の白浜のビーチにいるかのようだった。映画「コンタクト」で娘が死んだ父親と宇宙で再会する場面を思い出した。この日のキャンプは恐山から程近い海辺の岩浜だった。地元では海で命を落とした人が亡骸となって辿り着く場所とも言われているらしく、ここでキャンプをする人間はそう多くはいないそうだ。案の定そこは私達だけの貸しきりの海となった。岩の上の森には熊も棲むらしいがセロンとnociwがいることで怖くはなかった。浜辺へ降りる途中、大きな岩を御神体として祭る祠を見つけた。

WPPDの北山耕平さんのトークの中で、神社やお寺以前に古代の人々が信仰していたものは、山や大きな岩であったという話しがあった。私もそうであったろうと思う。美しい山や巨大な岩を見ると理屈抜きで畏敬の念に打たれてしまう。滝もしかり。そして日本でそういった信仰に出会えるのは東北が多いと北山さんは言っていた。その話を聞いた時、私達の北へと向う旅の意味がおぼろげながら見えてきたような気がした。これは「浄化の旅」なのだと。

海に着くと、みんなで薪集めにとりかかった。二匹のオオカミ犬はさっそく試合開始。ある程度の流木が集まってNOBUYAが火を起こす準備を始めた。火が降りてきて器にお酒を注ぎ火の神への祈りを捧げると、それまで遊んでいた二匹が火を挟んで対角線上に座り事の次第を見守り始めた。まるでこま犬のように。白と黒の獣が炎に映えて、気持ちが正しくなる瞬間だった。その夜は落っこちてきそうな満天の星の中、火を囲み「お互いまだ出会って二度目とはとても思えないね」と言って笑い合った。これが縁なんだねと。

翌日。下北半島の先端でいい温泉に入ったあと、北海道へと海を渡った。私達の故郷「余市」へ向う前に途中気になった場所でキャンプをすることに。しばらく道を走っていると「ピリカ」という土地に出くわした。私達はピンときた。なぜならNOBUYAがかつてやっていた美容室の名前が「PIRIKA」だったからである。ピリカはアイヌ語で「美しい」とか「可愛い」という意味。ひとまず温泉に入ってから、テントを張れる場所を探すことにした。言葉のとおりそこには美しい川が流れていたので、私達はその側で一夜を過すことにした。薪になりそうな木が見当たらなかったので、焚き火はせずにセージを焚いて場を清め、塩を供えインディアンフルートを吹き「今晩無事に過させてください」と祈った。すると川の方から唄が聞こえてきた。久しぶりに聞く精霊の唄だった。しかも私の吹くフルートの音色を真似て唄っている。NOBUYAもすぐに感じ取り、再びセージに火をつけ円を描き始めた。だんだんと声が大きくなる。と、nociwがいきなり車に飛び乗り体を丸くした。超敏感な彼女には初めての感覚だったのかもしれない。火のない夜もまたいいものだと思った。近くの岩に「熊の滑り台」と書かれた標識があったことを思い出すまでは…。

家を出発して五日目に故郷に着いた。お互いの先祖の墓参りを済ませ、気持ちがすっきりする。今回の旅のひとつの目的を果たし、私達は安堵感に包まれた。ここが折り返し地点。翌日には再び我が家を目指し旅に出るのだ。途中北海道でもう一泊キャンプをすることにした。私の妹「フミ」とダンナの「ヒロさん」も一緒に行ってくれることになった。キャンプ場へ向かう道すがらヒロさんが「歌才」という土地にあるブナの原生林を案内してくれた。nociwがいきなりはしゃぎ出す。やっぱり野生が好きなんだな。結構雨が降っていたが、雨の森もまた一段と美しく力強かった。私達は初めてブナを見るようにその逞しさに圧倒されてしまった。そして互いに顔を見合わせ思った。「そうだ。白神にいこう」と。キャンプ場に辿り着いた頃には雨も上がっていた。しかも、またもや私達だけの貸し切り。それはnociwにとっても嬉しいこと。思う存分自由に走り回れるから。この時も美しく、シャンティな夜だった。私達はいつまでも火を見つめ続けた。ヒロさんはこの灰をビブーティだと言った。

あくる日。函館を目指し船に乗り気付くと再び私達は青森にいた。四日前、海岸でキャンプをした時にセロンのえさ皿を間違って持ってきてしまい結局、たかしさん+やよいちゃんの家に立ち寄ることになった。「きっとまたセロンとnociwが会えるように神様がえさ皿をそっと忍ばせてくれたんだね」と二人とも喜んで歓迎してくれた。二人がこの地に住んでいてくれたことに心から感謝する。翌日、白神を目指して出発したのだが途中、八甲田山を通った時に、あまりにもいい所だったので温泉に入ることにした。その温泉がまたとっても良かったので本当は白神でキャンプをする予定だったが、ここでキャンプをしよう!ということになった。時間ができたので三内丸山遺跡を見に行くことにした。縄文の頃の生活に思いを馳せながら歩く遺跡は本当に興味深かった。子供たちだけを埋葬する墓から壷に入った骨とともに、握りこぶし大の石が二個から三個出てきたというくだりが何故だかとても気になった。復元された縄文のティピーのような家の中に入るとなんだかとても落ち着いて、時の経つのも忘れてしまいそうだった。一日中でもいたかったが、明るい内に八甲田山に帰ってテントを張らなくちゃと思いその場をあとにした。ここは勝手に張るにはちょっと緊張する場所だったので私達はキャンプ場を探した。中学生の頃、修学旅行で八甲田山の麓の古い宿に泊まった時、渡り廊下を昔の兵隊さんがぞろぞろ歩いていく姿を見たことがあったからだ。キャンプ場の受け付けに行くと「お宅さまが本日、最初で最後のお客様でございます」と言われ、またしても貸しきりだった。nociwを見ると「当然よ!」と言わんばかり我がもの顔をしている。これまた眼下に広がる日本海に黄金色の夕日が沈み、信じられないくらい美しかった。私達は旅も終盤に差し掛かったことを知り、「美しいものをたくさん見せてもらった旅だったね」とその夕日をしみじみと眺めていた。その晩もいい夜で三人で小さな山に登り散歩をした。初々しい新月がひょっこり顔を出し、流れ星が落ちていった。

晴天の朝を迎え白神へと旅立つ。たかしさんが言っていた。「世界遺産に登録される前は白神は大好きな所だったけれど、今はガードが厳しくなっちゃって核心に触れられないから足が向かない」と。確かに行ってみて分かった。いわゆる観光化されている所ではやたらと人が多くてnociwを連れて遊歩道を歩こうとしたら「ダメダメ!犬は立ち入り禁止。動物は自然を荒らすから!」とオヤジに言われたのだ。「ちょっと待った!自然を唯一荒らしているのが人間なんじゃなくて?」と喉元まで出かかったが、そこはぐっと押さえてもっと人のいない場所を探すことにした。私達は人間を見にきたのではなくブナを見に来たのだ。「もっと上に行ってみよう。上なら人間も面倒くさがって多くは登ってこないだろうから」とNOBUYAが言ったので、私達は車で山に登り、途中「林道につき立ち入り禁止」という札の下がった道の前に車を止め、歩いて白神の懐へと入ってみた。するとなんとそこはとても美しく、穏やかでピュアなバイブレーションに満ちていた。nociwが最もそのことを感じていたに違いない。この旅で初めて自ら姿を消したのだ。吸い込まれるように豊かなブナの森の中に。私達も思いっきり息を吸い込んで原生林のエネルギーを味わった。ブナの樹は雨水を多量に貯めるシステムを体内に持っていることから「マザーツリー」と呼ばれているらしい。私達はマザーツリーに抱きついてここまで呼んでくれたことのお礼を言った。どっしりとしていて本当にお母さんのような樹だった。この白神に「黒熊の滝」というのがあることを知り行ってみることにした。でこぼこの山道をドンドン車で走って更に奥へと歩いていったところにその滝は現われた。本当に黒熊が立ち上がって雄叫びを上げている姿をしていて今にも歩き出しそうな滝だった。思わず手を合わせ祈る。当然ここにも熊はいるだろうな。滝の手前に大きな石を三つ祭った祠を見つけた。

11日振りに我が家へと帰ってみるとWPPDのきさらさんからメールが届いていた。あの夏至の日なんと山中湖に熊が来ていたんだそうだ。前日、NOBUYAとMARKと三人でまだ人気のないキャンプ場から歩いて道路を渡って山中湖に行き、しばらく水面を見て佇んでいたことを思い出した。当日やってきたAgueは「イナウ」といってアイヌが使う柳の木を削った御幣のようなものを作って持ってきてくれた。アート展示をすることになっていた私の絵の側に飾ってくれと言って。妻のEmiがOKIとともにフランス公演に行ってしまったので、Emiのいとこのアイヌのたえこが、彼らの娘りうかの子守り役として一緒に来ていた。全てのセレモニーが終わったあと、参加者全員が手渡されたセージを一人一人サークルの中心に降りた聖なる火の中へ祈りとともにくべていった。私達は火起こし人の許可を得てこのイナウを最後にくべさせてもらうことにした。Agueが司るアイヌ式の祈りに乗って火の神とアイヌにとって最も重要とされる熊の神に祈りを捧げたのである


_ 2006.06.11_>>>_ 満月

「WPPD」

夏至に富士山で開催されるイベント「World Peace & Prayer Day」のフライヤーのARTWORKをやった。色んな縁が繋がって実現したことだった。

あれは2003年。ギャラリー「nociw」がまだ溝ノ口にあった時、「きさらさん」という一人の女性がnociwに現われた。会うなり彼女は初対面の私に向って、今度ネイティブの知恵を分かち合うためのイベントが開催されることになって自分はその実行委員に選ばれてしまったのだと言った。それまでネイティブについては、全くというほど知らなかったので急にそんなことになって戸惑っていると。しかしその宣告の時に「あなたにはできる。あなたはネイティブの知恵を広める掛け橋になる人だから…。」と言われ、とても不思議な気分になったのだそうだ。そして彼女は「∀KIKOさん。あなたとお会いしたことも偶然ではないような気がします。いつかご一緒することになるのかもしれませんね。∀KIKOさんの今日の服装もなんだかその事を予期してるみたい。」と言った。自分の姿を見下ろしてみると、全身が「赤・白・黒・黄」の4色でコーディネイトされていた。この日は何故かそんな気分だったのである……。

そんな出来事もすっかり忘れていた2004年の1月31日の私の誕生日。「アリエルダイナー」で開催していた個展の最終日でもあったので、ちょっと早めにアリエルに着いてみると、いつもとは違った凄い熱気で店内がごった返していた。お店の子にいったいなんの騒ぎなのか聞いてみると「WPPDの第1回目のミーティングだそうです。」とのこと。「WPPDって?」「えっと。ワールドピースなんとかっていう…。」話を聞いていると、「∀KIKOさん。お久しぶり!」と背後から声を掛けられた。きさらさんだった。「これがあの時話してたイベントの…..。」「そうなの。私もビックリして。来てみたら∀KIKOさんの絵に迎えられて、まさかこの日に再会できるなんて思ってもみなかったから嬉しい!時間があったら是非来て下さいね。」と言われた。「へぇー。そーだったのかー。」と思い、いったいどんな連中が集まってるんだろうと店内を見回してみると、1人の男と目があった。「candle JUNE」だった。JUNEともかなり久しぶりの再会だった。「せっかくだからご飯でも一緒にどうですか?」と誘われ席に着いた。「2人でこんなにゆっくり話しをするのも出会った頃以来だね。何年ぶりだろう?」「はい。自分も久しぶりに∀KIKOさんの画集3册をまじまじと今日、改めて見直してしまいました。」なんて話しているうちに「今度一緒にコラボレーションしよう!」ということになり、実現したのが2005年の「kunne poru」となったのだった。この時、偶然会っていなければありえなかったことかもしれない。

第1回目のWPPDは物凄い雨だった。私はたまたまこの日は生理で、生理中の女性だけで作る輪「ムーンサークル」の中にいた。ムーンサークルだけは屋内で行われ、その輪の中心にいたネイティブの女性は「私達の輪から外で濡れながら輪を作っている人々にパワーを送ります。そして外で輪を作る人達はさらにその外側へとどんどんどんどん祈りの輪を広げていくのです。」と言った。当たり前だけど、その空間にいたのは全員女性で、私は女性のエネルギーというものを、初めて客観的に感じられた気がした。それはとても「あたたかくて愛に溢れている。」という印象だった。ひとたび外へ出てみると、人々はずぶ濡れになりながら輪となって大地に佇んでいた。もう霧で顔も見えないが個々がひとつの存在としてそこに立っているという感じを受けた。「人間てなんて美しいんだろ。」そう思えた瞬間だった。

あれから2年。きさらさんから今年のWPPDのフライヤーに私の絵を使わせて欲しいとの依頼があった。第1回目の開催では様々な反省点もあったらしく、昨年は身内のみで行い、今年は公にはするが、もっと規模の小さなものにして、その代わり質を高めていこうということになったらしい。テーマは「祈りのかたち」。デザインを担当するドリス(彼女とも縁があって再び繋がったのだが…)からは「今存在する絵の中から∀KIKOにインスピレーションで選んでもらうことが大きな鍵になる気がします。」と言われ、受話器を切ったとたん、すぐに一枚の絵が浮かんできたのでその絵をさっそく送ったのだった。物事が動く時、そこに関わる全ての存在の、どんな微細なエネルギーでさえ、互いに影響を与え合うことになる。「自分に正直であるか?」それは私という人間の生き方の基準。じゃあ私にとっての「祈りのかたち」とは?

それは毎日の生活。ライフスタイルそのものでありたいな。


_ 2006.05.27_>>>_ 新月

「WOLF」

二頭の森林オオカミに会ってきた。動物園での話だが…。

我が家には「nociw」というオオカミ犬がいる。一緒に暮していて彼女の中に流れる野生の血を意識せずにいられる日はない。「オオカミの血が入っている。」と知り、私が意識し過ぎているのかもしれないが、色んな場面でnociwは「オオカミの顔」を垣間見せる。茂みの中に獲物を見つけて両方の前足で同時に飛びかかる仕種。垂直に高く飛ぶ図場抜けたジャンプ力。ついこの間までは土を掘って掘って掘りまくってモグラを引っ張り出す遊びに熱中していた。そしてここにきて最近、森に入っている時に、度々私達の前から姿を消すようになった。初めての時は正直焦った。何者かが森の中で動くのを見つけ、凄い勢いで追い掛けて行ってしまったのだ。今までもキジやテンやサルなどを追って走っていったが、呼べばすぐに戻って来た。なのにいきなり私達のことなど忘れてしまったかのように、どんどんどんどん山の中へと入って行くようになったのである。私は名前を呼び続けた。「ひょっとしてこのままいなくなってしまったらどうしよう?」「まさか!そんなバカな!」泣きそうになりながら名前を呼び続けていたら15分程経ってnociwは自分から戻ってきた。息を以上に切らしながら申し訳なさそうな顔をして…。

「きっと自信がついてきたんだね。」「大人になった証拠だよ。」私達は話し合った。「でも自分から戻ってきてくれて本当に良かった。」「うん。そうだね。」これからもこういうことが起こっていくという前兆だと思ったが、私達はnociwを信じることにした。今日もnobuyaが一人でnociwを連れて散歩に行った時、野ウサギを見つけて後を追い掛けていってしまったそうだ。その時今まで見た事もないくらいおもしろい跳び方をしたらしい。それはウサギと格好もテンポもまったく一緒の跳び方だったという。そのままウサギと一緒にぴょんぴょんと森へ消えたが今回も15分くらいで戻ってきたそうだ。nobuyaはその間倒木に腰掛けてゆっくりとパイプをくゆらしていたんだとか。動物園の二頭のオオカミは体はnociwの3倍くらいあったけど、仕種や顔はとてもnociwによく似ていた。優しくて賢こそうな澄んだ目も。「散歩はしてるのかな?」「二人にこの空間は狭すぎるよなぁ。」「でも今日二人に会えてよかった。」色んな思いが胸をよぎった….。

10月19日から23日まで「カフェ・スロー」にて私の個展「RED DATA ANIMALS 002」をやることが決定した。nociwが来てからというもの私の世界は加速的に変化した。彼女がいることで自然と自分との距離が縮まり、他の生き物に対しても新しい発見をするようになったのだ。「RED DATA ANIMALS」このテーマは私のライフワークの一つでもあるが、前回とはまた違った感覚で絵に集中することができる気がしている。たとえ絶滅危惧種に直接は会いに行けなくても獣としてのnociwの存在が私を強力にサポートしてくれるようだ。そのために彼女が私の元へやってきてくれたことを知り心から感謝する。

雨の動物園は私達以外お客さんは誰もいなかった。ただ獣達の匂いがそこらじゅうに漂っていただけ。檻に入っているのは実は私達の方で向こうからこっちを見られているような気さえした。閉園間近になって突然二頭のオオカミが立ち上がり目の前で遠吠えを始めた。オオカミは群れに遠吠えで自分達の居場所を知らせる。私は誇り高いオオカミの叫び声を聞いた。

「何処にいようとも私達はこの地球上で繋がっている。」


_ 2006.05.13_>>>_ 満月

「インディアンフルート」

ギャラリー「nociw」の最後の個展に初めて訪れたお客さんでフルート吹きの人がいた。彼のカバンの中には友人のナバホインディアンが作ってくれたというインディアンフルートが大切にしまわれていた。以前からインディアンフルートの音色に何故かとても惹かれるものを感じていたと私が言うと、彼は「ちょっと触ってみる?」とそのフルートを持たせてくれた。生まれて初めて触れる「NAVAHO J.T」という彫りが入ったそのインディアンフルートはレッドパインのいい香りがした。「音を出してみれば?」と言われるままにそっと吹いてみると、とても素朴で暖かいそしてどこか懐かしい音がした。先端に木で作られたオブジェのようなものが付いている。「これはバッファローで持つ者に知恵と栄光を授けると言われているんだ。」「素敵ですね。」そう言ってフルートを返そうとした時、彼は「このフルートが君のもとへ来るために作られたことを今知ったからここに置いていくよ。」そうさりげなく言った。「吹き方はその時その時の気持ちをフィーリングで音にするだけでいい。君にピッタリだと思う。」信じられないことが目の前で起こったという感じだった。彼とは出会ってまだ数分しかたっていないのに…。でも私はこの出来事を神様からのギフトだと素直に感謝しありがたく受け取ることにした。神様はサプライズが好きなのだと。しかもその人は初めて私の絵を見たのに絵を購入し、絵からインスピレーションで浮かんできたという詩を残してくれた。

「幸せの薪をくべよう 魂の炎を燃やそう 命の踊りを踊ろう 母なる大地の上で」

その時からこのフルートは私の宝物になり、散歩の時に一緒に森へ行って気のむくままに吹いてきた。インディアンフルートの成り立ちはその昔インディアンが狩りに出た時、この音色を聴きその音がどこから来るのか辿ってみると一本の木の枝が虫に喰われ空洞になっていて、そこに風が通り音を出していたのが始まりだそうだ。だからインディアンフルートは風の声なのである。ある時我が家のオオカミ犬「nociw」のふるさとのお山にかっちゃん、ちえちゃんらと登っていた時、ふと見るとフルートのバッファローが消えていることに気付いた。私はショックだった。山の地面は枯れ葉に覆われどこを見ても同じに見える。しかもどの辺りで落としたのかさっぱり検討がつかない。バッファローも木でできているので全てが保護色だ。いったいどうやって見つけられるのか途方に暮れた。でもかっちゃん、ちえちゃんは「みんなで手分けして来た道を戻りながら探そう!」と言ってくれた。皆バラバラになって探し始めたが私はなかなか見つけられずに泣きそうになっていた。すると「あったーっ!」と下の方でちえちゃんの声がした。「えっ!まさか本当に?」という思いで急いで駆け降りるとちえちゃんの手の平には確かにバッファローが眠っていた。「この葉っぱの下にあったんだよ。」と指さした場所は辺り一面同じような感じだったので、私は信じられないという思いでどうしてここが分かったのか聞いてみるとちえちゃんは一言「風が教えてくれたの。」と言った。

それ以来フルートを持ち歩く度にバッファローの存在を常に気にするようになった私は、このフルートを包む素敵な袋があったらいいなぁーと思うようになった。「肩から下げていつも持ち歩けるようなものでそれは鹿皮でできていて….。」とイメージを膨らませた。そんなことを考えていた一年前。新潟のツアーで知り合ったヤスが彼女のキョウコを連れて遊びに来た時、彼女が手作りしたというカバンを見て私はすぐにピン!ときた。フルートを守る袋の作り手は彼女だと。キョウコにさっそく作ってもらえるかどうか聞いてみると「嬉しい!すごく緊張するけどぜひ作ってみたい。」と言ってくれたので私はお気に入りの鹿皮を一枚と簡単なラフスケッチを描いて彼女に託した。そして先日ヤスから「突然なんだけど今、千葉の親戚の所にいるからこれから会いにいってもいい?キョウコも一緒だよ。」と電話をもらった。次々にお土産を広げる二人。最後に「はい。これは∀KIKOさんに。」と言ってキョウコから緊張した面持ちで渡された可愛らしくラッピングされたその包みを紐とくと、なんとフルートの衣が現われたのである。それはまるでイメージ通りだった。夢が現実になったのだ。本当にカッコ良くてとても気に入ってしまった。キョウコはこれを作るにあたって、ずっと鹿皮にハサミを入れることができなかったという。自分に何かが降りてくるまでは決して切れないと思っていたんだそうだ。そしてようやく今年の二月にその何かが彼女のもとに降りてきて「今日だ!」という日が突然訪れたのだという。それから縫う糸や飾りのビーズやボタンなどに天然素材を使うことにこだわり、試行錯誤しながら一生懸命作ってくれたという。その思いは出来上がったこの作品にすべて詰まっていて、彼女の愛のエネルギーが伝わり涙が湧き上がってきた。翌朝からさっそくその袋にフルートを入れて背負い、nociwと森へ出かけた。もうバッファローも迷子になる心配もなく安心してフルートのそばにいられるだろう。キョウコありがとう。神様ありがとう。私は本当に幸せ者です。

そして今日もまた、気のむくまま心のままに風のメロディーを奏でる私です。


_ 2006.04.27_>>>_ 新月

「Community」

私達の仲間。AgueとEmiのファミリーが引っ越してきた。それも「いきなり」である。もちろん前々から引っ越すとしたら近くに住みたいとは言っていたが、あくせく物件を捜しまわっていたわけではなく、私達も近所の空家を気にしてはいたがなかなか「これっ!」というのは見つけられずに、お互い「まぁ。その内見つかるといいねぇー」ぐらいの呑気さでいたのだ。ところがアトリエの大家さんに家賃を払いに行った時、「そうだ!ここの大家さんに聞いてみよう!」と急に思い立ったので「貸してる家で今空いてるところないですか?」と結構期待して尋ねてみたら「全部埋まっているのよね。」とあっさり言われた。「なんだ。がっくり。….」と思いながら家を出てみると大家さんの家の裏にある2軒長屋が目に留まった。その内の1軒が空いていたのだ。「あれっ?ここ空家だったっけ?今まで全然気づかなかったな…」と思いながらその家に何故か吸い込まれるように近づいていく自分がいた。私は瞬間「ここだ!」と思い、AgueやEmiの家族がここで笑いながら楽しく生活している様をありありと思い描いた。さっそく仕事から帰ってきたNOBUYAにそのことを伝えて「じゃあ。まずは大家さんを探してコンタクトをとらなきゃね。」という話しをしていたら、近所に住む「いくちゃん」が真夜中に、珍しく、本当に3ヵ月ぶりくらいにいきなりやってきた。このいくちゃんは実はアトリエの大家さんと知り合いで共通の友達「かっちゃん、ちえちゃん」を通して私と大家さんを結び付けてくれた重要人物である。「このタイミングは?」と思った私はさっそくいくちゃんにそのことを話してみた。すると「あぁ。ボクそこの大家さん知ってっから貸してるかどうか聞いといてあげんよ。その2軒長屋の隣が大家さんの家なんだ。じゃっ。おやすみっ。」と言って去っていった。「ありがとーいくちゃん!でもいつでもいいからね。無理しないでねーっ。おやすみーっ!」

次の朝。雨戸を激しく叩く音で目が覚めるとそこにいくちゃんが立っていた。「おはよー!ほら!あそこんとこの大家さんに聞いてきたよ。はい。これ。」と言って渡された紙には「住所・電話・氏名・年令・職業」と書かれてあった。展開が早い…。「ありがとう。いくちゃん。さっそく友達に聞いてみるね!」こんな風に物件のことでAgueたちにメールをするのも初めてだったが、いきなりこんなことを言われても彼らも戸惑うかもしれないな。とも思いつつ、どういうわけだかいてもたってもいられずに、すぐにEmiにメールをしてnociwと朝の散歩に出かけた。何となく気になったので再び例の空家を見に行ってみた。昨日よりももっと近くにいって家の周りを一周した。裏庭の正面を氏神様である神明神社が見守っていた。大家さんの家を覗くと表札に「峰尾」と書いてあった。同じ敷地に大家さんと2軒長屋。共通の広い庭には井戸がある。都会のクールな暮しを心地よく感じている人にとっては「絶対に住みたくない!」環境かもしれないが、今の彼らにとってはいいことだと思った。仲間が身近にいることで子育てももっとおおらかにできる筈…。大家さんもお隣さんも絶対いい人に決まってる!」そんなことを思いながらまた想像してしまったが、まずはメールの返事を待とうとその場を立ち去った。やがてしばらく歩いていると向こうから一人のおばさんが歩いて来た。そんな光景は別に珍しくもなんともないのだが、私の中ではひとつの確信のようなものが沸き上がり、すれ違い様に「あのー。2軒長屋の大家さんの峰尾さんですか?」と聞いてみると、「えっ!そうですけど….」と答えが返ってきた。「かくかくしかじかで。」と事情を説明すると「あなたが絵描きさん?」とやっと内容を理解してくれ、思わず「中を見せてもらえませんか?」と聞いてみると大家さんは快くオッケーしてくれた。3月に前の住人が出たばかりでほんとにいいタイミングだったという。私はEmiの目になって、一通り部屋をチェックしたあと縁側に座って中庭に足を降ろした。目の前の山々がサクラ色に染まり、まるで彼らを祝福しているかのようだった。「うん。やっぱりここだ。まちがいない。」アトリエに戻るとますます、いてもたってもいられなくなり今度はAgueに電話してみた。が、留守電だったので「とにかく今一人で盛り上がってるんだけど、どうか前向きに検討してみて!」というようなことを残しておいた。NOBUYAが仕事から帰ってきて、今日のことを話すと「あとはAgue、Emi次第だな。」ということになり私は興奮したまま眠りについた。

そして3日目の朝。電話のベルで起こされた。Emiだった。「おはよう∀KIKOさん。メールや電話をありがとう。ゆうべAgueとそのことでずっと話しあっててさ。実はね、今住んでるアパートの更新をするかしないかを決定しなきゃならない日が今日までだったんだ。それで私達もこのタイミングは何なんだろう?と思ってさ。もしかしてこれは引っ越せ!ということかもしれないから、とにかく今から二人でその家を見に行くね!」「わーい!やったぁーっ!」間もなくして二人は本当に現われNOBUYAも交えて大家さんの話しを聞いていた。私は昨日と同じように縁側に座りながら一人ほくそ笑んでいた…。「うん。いい感じ。いい感じ。」二人をそこに残して私達は先にアトリエに戻った。「あとは二人が決めることだね。」「うん。」しばらく経って二人が帰ってきた。「どうだった?」「引っ越すことにしたよ。」「バンザーイ!!」「ワハハハハ」私達は大喜び。4月7日。吉日。この日はNOBUYAの誕生日だった。

引っ越しは24日に決定した。その日NOBUYAは彼らが住んでいた中野まで車で助っ人にむかい、私はこっちで引っ越し屋さんが着くまで電話で待機をすることになった。が、いつまでたっても電話がこない。日も暮れてきたのでおかしいと思い、nociwを連れて新居へ行ってみると真っ暗だった。きつねにつままれたような気持ちでアトリエに戻るとやっとNOBUYAが電話を掛けてきた。「ごめん。遅くなって。引っ越し屋さんが日にちを間違えていて今日は無しになったんだ。あさってになったよ。」「……………。」Emiは子供達を預けていたAgueの実家へと向かい、AgueはNOBUYAと一緒に帰ってきた。私達はふいに現われたぽっかりと空いた時間の不思議の中に漂っていた。これは本当にこの地に移り住む前に今一度、気持ちの整理をさせるために神様がAgueに与えてくれた貴重な時間だったようだ……。二日後の26日。とうとう彼らは引っ越してきた。まるで夢を見ているようだった。そしてなんだかできすぎているような気もした。NOBUYAと顔を見合わせては何度も大笑いした。翌日、近くに住む優子と猛男も誘って引っ越し祝いのジンギスカンをした。改めてそれぞれを紹介し合い、ご近所さんになったことを喜びあった。子供達はもうすっかりnociwと仲良しだ。犬がいて子供がいて大人がいる。困った時は助け合い、嬉しい時は喜び合う。同じ土地の上で共に学び、共に遊ぶ。私達は今という時を互いに成長し合いながら生きるコミュニティであり、同志である。合い言葉は、

「そうさ。みんなちがってみんないい!」


_ 2006.04.13_>>>_ 満月

「セブンティーン」

17才になったばかりの友達「モモ」にあった。初めて会ったのはモモが9才の時。8年前「ござれ市」を始めてすぐに声をかけてきた業者のオヤジ「志郎さん」がモモのお父さんだった。見た目は普通のちょっとエロそうなオヤジだったが、彼の奥さんを見て彼を見る目が変わった。見た目がアフリカ人でかなりオシャレな人だったからだ。「啓さん」である。志郎さんと啓さんがござれ市でキスをしているのを見たことがある。「ステキだな」と思った。そんな啓さんがオープンしたギャラリー「somoan」で個展「sion」を開催した。空間を造り自分の世界を表現したという点においてはこれがはじめての個展といえるかもしれない。

その個展でモモと出会った。彼女は見るからに風変わりな子供だった。開催中、毎日のように顔を見せるようになり最終日には私の印象の色だと言って「きれいなブルーのコップ」をプレゼントしてくれた。別れ際「富士山の近くの西湖に別荘があるから絶対来て!」と誘われたのでモモが大好きになった私達はさっそくその別荘を訪ねてみた。その別荘はおよそ世間一般の別荘のイメージとは大きくかけ離れていて、啓さんと志郎さんが手作りで仕上げたおもちゃ箱のような遊び場だった。庭に作られた五右衛門風呂に入りながら星空を見上げた時「あぁ。ここは天国だな」と思った。モモはすっぽんぽんになって私達の前を走り抜け風呂へ飛び込む。本当に野生児という言葉がぴったりのサルのようなやつだった。あくる日3人で森の中に秘密基地を作りに行った。この時のことは今でも度々、不思議な記憶として蘇ってくることがある。枝を探してきて骨組みを作り、その上に草をかぶせて屋根を作った。地面には枯れ葉を敷き詰めフカフカにしてその上に寝っ転がって持ってきたおやつを食べた。モモはその時、終始「アァアー」とか「ウゥウー」とか動物のような奇妙な声を発していた。それは今この瞬間が、楽しくて楽しくて思わず体の中から勝手に漏れてしまったというような野生の音だった。私はこれまでに感じたことのないような感覚に包まれた。純粋な存在に触れて胸の奥にあたたかな雫が流れ落ちた。モモは抱きしめるといつも森の匂いがした。

次のござれ市からモモは毎回顔を見せるようになった。志郎さんが業者だったから一緒に乗っかってくるのだが家業の手伝いなんていっさいせず、最初から最後まで私のところに入り浸った。二人で何をしているかといえば、絵を描く、詩を書く、マンガ本を読む、ウォークマンで音楽を聴くなどだった。そんな月いちのデートはモモが14才になるまで続いたが、そのうち同世代の友達と遊ぶ方が楽しくなりござれ市にはぱたりと現れなくなった。思春期というやつである。最後に口癖だった言葉が「あーオトコ欲しー」だったから、相当そっちの方に興味をそそられていたんだろう。ござれ市には来なくなっても毎年私の誕生日には連絡をくれ、プレゼントを用意していてくれた。3月31日のモモの誕生日会には必ず招待され、モモが自分のために焼いたケーキをふるまってくれた。そして1月31日が誕生日だった私に「∀KIKO 誕生日おめでとー」と言ってみんなの前でプレゼントをくれるのだった。

そんな誕生会の知らせも今年はこなかった。でも私の誕生日にはお祝のメールが入っていたので、モモの誕生日には突然電話をしてやろうと思った。その日いろいろとバタバタとしていたら気がつくと3月31日があと7分で終わろうとしていた。「わっ。いけない」と思い電話すると誰も出ない。「そりゃそうだよなー夜中だし」と思って切ろうとしたら「もしもし?」と志郎さんの声がした。「モモいる?」「えっ?いるけど寝てるよ」「じゃ起こして!」「えぇっ?起こすの?あぁっ。そっか….」と言って受話器を持ってモモの部屋に行った。「モモ!モモ!アキコから電話だよ!」「アキコからデ・ン・ワ!」しばらくの沈黙ののちガサゴソと音がして受話器の向こうから「もしもし?」と超寝ぼけているであろうモモの声が聞こえた。「誕生日オメデトウ!」「ア、アリガトウ…」「ごめんね。起こしちゃって」「あ。うん。お父さんが当々頭おかしくなっちゃったのかと思ってビックリしたよ….」「ハハハハ…..」「ねぇ。これって夢?」「ふふっ。夢じゃないよ」

そして先日啓さんに用があって家へ行くとモモがいた。去年の誕生日会以来約1年振りの再会だ。こんなに会わずにいたのは出会ってから初めてのことだった。17才のモモはおっぱいもふくらんで、眉も細くなって、ネイルをしているキュートな女の子になっていた。念願のアルバイトも経験してそこで出会った二つ年上の男の子と恋に落ちたけど2ヶ月で別れたらしい。「どうだった?」「何が?」「初めて男の子と付き合ってみた感想は?」「ふん。べつに….」話題を変えよう!「モモはどんな仕事がしたいの?」「私は縫い物が好きだから何かを作っていたい。でも新しく洋服を作ることには全然興味がなくて、古着を自分らしくリメイクして作り変える方が好きかな?ゴミはなるべく出したくないからさ。」やっぱりモモは変わっていなかった。

昔からモモの口癖は「私らしくなきゃ!」だった。そういうところが「同志よ!」と思わせる大切な部分だったが、そういう人間らしい人間を育てたのは志郎さんと啓さんの深い愛と遊び心満載の家庭環境だったことはいうまでもない。そしてあの森の私達だけの秘密基地は心の中に今でも存在し続けている。私達はいつだってあの時に帰ることができるのだ…。この日突然行ったにもかかわらずモモと目と目が合ったとたん「誕生日おめでとう!」といきなりプレゼントを渡された。小さな包みとバースデイカード。中を開けると可愛いシルバーのカエルのペンダントヘッドが現われた。そう。最近散歩していてよく見かける光景。カエルたちのランデブー。あっちでもこっちでも愛をささやき合う音が風に乗って響いてくる。私はカエルが大好きなのだ。

「ありがとう。モモ!」春だね…..


_ 2006.03.29_>>>_ 新月

今回の新月は

1年でもっともパワーのある新月だったので

願いごとを紙に2個から10個

夜中の3時までに書くと叶うという日だった

その日は山梨に棲む

ミュージシャンのバースディパーティー

どこからともなく

音楽が生まれ踊りが生まれた

ほとんどの人は初対面だったが

そんなことはどうでもよく

誰もがそこいらへんにあった楽器を手にし

思い思いに音を奏でた

宴もたけなわになった頃

願いごとを書く紙が回ってきた

わたしは10個願いごとを書いてみた

ふと隣を見ると

パートナーはぐっすり眠っている

彼になったつもりで彼の分も書いてみた

するとほとんど同じになった

そりゃそうだよね 家族だもん

わたしたちの幸せ

わたしたちの喜び

昨日 今日 明日

本当に好きなことをして生きる

ただそれだけ


ただそれだけのこと


_ 2006.03.15_>>>_ 満月

「ハンニャハラミツ」

長野へ座禅断食をしに行ってきた。

年末に自主的にやった断食は本を見ながらだったので、その本を書いたお坊さんが実際に指導する断食を体験してみたくて行ったのである。それが座禅を取り入れた断食だった。ただ断食を行うよりも座禅を組み合わせることでよりいっそうの効果があり、明けたあとのリバウンドが少ないのだそうだ。それは座禅を組むことで自律神経が整い、精神が安定して断食中の空腹感をあまり感じずにすむということと、明けたあとも自制がききやすく心と体のバランスを取りやすいということだった。「合掌行」という行もやった。これは手をひたいの前に合わせ「般若心経」を20分間声を出して唱えるというもので、日本古来より僧侶の間で秘儀として1300年以上も続けられているものらしい。何処から始まったのかは定かではないが、いつしかその合掌した手で人に触れると病が癒えることがわかり「癒しの手」ができる不思議な行として伝え守られてきた。そして近年その現象が科学的に分析され、合掌した手と手の間に放射線が測定され、このエネルギーが体を癒すのだろうということが解明されたそうだ。

「般若心経」は10年前から毎朝唱えることを日課としてきたが、いつしかその言葉の音だけを覚えて文字の意味をすっかり忘れていた自分がいた。しかし「般若心経」は一文字一文字を心に浮かべながら唱える方が良いのだということを教わった。それができるようになるとある時ある文字がパッと光る瞬間があるそうで、それがその時の自分に必要な部分であり、そしてたまにフッと忘れてしまう文字もあるが、それはその時の自分に足りない部分なのだそうだ。これを聞いた時は目から鱗が落ちた。それほどに奥深いものだったのだ。「般若心経」を改めて調べてみると「この宇宙はすべてのものがバラバラに分かれて存在しながらも同時に深いところでつながっていて、ひとつの大きな生命の大海を形作っているという不思議なあり方で存在している」ということを唱っていたのだった….。

この断食の最大の目標は宿便を出すことだ。「宿便」とは今まで食べてきたものが外に排泄されずに残り腸壁に長い間こびりついている便のカスのことで、そのカスの腐敗が毒素を出し健康な細胞を蝕むのが原因で様々な肉体的・精神的な病気を引き起こすということが医学的にも分かってきているそうだ。どうして腸内に残ったままかというと用は食べ過ぎているということで、消化能力を超える量の食物が流れ込んでくるため腸のパイプが渋滞になり詰まってしまうということらしい。だからせっかく食べた食物の栄養が体内に吸収されずにそのまま押し出されるか途中で詰まってカスとして残るのだ。

また特に腸と脳には密接な関係があるらしく腸の健康が脳の健康に直結しているという。食べ過ぎるとボーッとして頭がよく働かなくなるというのもその一例だ。腸の処理能力を超えてしまい消化されずに残った食べ物がどんどん溜まっていき宿便となる。だから一度リセットさせるために断食なのである。でも断食が明けるとまた以前と同じ食生活に戻ってしまっては意味がないので座禅で自律神経を整え、食べる質と量を見極めて健康でいようということなのだ。予防の医学である。実際、断食明けのあとは胃も委縮しているので少量で満足感が味わえ舌についていた垢も取れて細胞が生まれ変わるので味覚も変化する。今まで丁度いい塩加減だと思っていたものが急にしょっぱく感じてしまうのだ。添加物にも敏感になる。この時に薄味に慣れることができれば体質改善がなされてその後の健康が作られていく。だいたい成人で約2キロKgの宿便があるそうだ。1回ですべてが剥がれるわけではないのであと2回は行くことになりそうだが、それが今から楽しみでならない。断食がライフスタイルの一部になっているという人が言っていた「断食明けのこの爽快感がたまらない。見える景色が今までよりもうんときれいに見えて、食べるものがよりおいしくなって、人と出会うのが楽しくなる。あー私は生きている!って感じるんです。」と。出すものを出し切ったあとは理屈抜きでみんな「ガハハハーッ」と笑っていた。自分自身の力で誰にでもできて幸せになるコツ。私もその場にいて単純に思った。

「うん。これでいーのだ!」


_ 2006.02.28_>>>_ 新月

「First trip」

山形へ行ってきた。

「黒川能」を観るためだった。ギャラリー「nociw」のお客さんであった「想月坊」と「淳」の親子に誘われたのである。この親子は「能」好きで、しょっ中「能」を観にあちこち出かけているが、その中でも「黒川能」は別格なのでぜひ見て欲しいと前から言われていた。「黒川能」とは山形県櫛引にある春日神社の神事として農民である氏子たちの手によって伝えられてきたもので、世阿弥が大成した能の流れを汲みながらも、どんな流儀にも属さずに独自の伝承を続けてきた希有な能だ。少なくとも五百年以上前の室町末期に発祥したものらしい。人々の信仰心と能楽への愛着によって幾多の困難を乗り越えながらも今日に至り国の重要無形文化財に指定された。「黒川能」はもともとは農民が神様に畑の豊作を祈願するために奉納したものだ。だからたんに芸能としてだけではなく神と祭りが一体となって五百年もの間そのままの形で守り伝えられてきた。

能は今までに四度観たことがあったが、今回のように地方でそして神社の中で、祭られている神様と同じ空間で観るのは初めてだった。だからこれまで観てきたものとはまったく異質なものに感じた。「見せるための能ではなく神と一体になるための能…」神域で観ているという緊張感と土地の人々の素朴なあたたかさが妙に心地よかった。「能は幽玄の世界」というが確かに不気味で怪しい…。能面をじっと見ていると面の筈なのに声と動きによって命が吹き込まれ色んな表情を見せ始める。そして音。ひな人形の五人囃子のような楽師たちの演奏がよりいっそう異界へと誘ってくれる。舞台に意識を集中していると、ふと自分が五百年前の人間になって同じ舞台を観ているような不思議な錯覚に襲われた。そして人間とはなんて美しいのだろうと思った。

今回が家族三人の初めての旅。最初の旅が「能」からスタートしたことは意味深だ。

さすがに神社の中には入れなかった我が家のオオカミ犬nociwだが、神社の林に積もっている雪の上をズボズボ埋まりながら歩く感触がおもしろいらしく、はしゃぎ廻って喜んでいた。彼女は彼女で聖域に漂う気配を存分に満喫していたようだ。観終わったあと、三人で誰もいないだだっ広い庄内平野の農道を歩いた。気持ちよかった。見上げると空には満天の星が瞬いていた。あくる日。nociwに海を見せてあげたかったので、ゆっくり新潟経由で帰ることにした。nociwは海を見るのが初めてだった。砂浜に降り立つと鼻をクンクンさせて波打ち際へ駆け出して行った。海辺には色んなものが落ちていて宝の山だ。nociwとnobuyaは先へ先へと行ってしまいついに見えなくなった。私は流木で砂にnociwの絵を描いた。「よし。これで完成!」と思い最後にnociwと砂に書くと遙か彼方からnociwが猛スピードで走ってきた。口には大事そうに何かをくわえている。見るとなんとトゲだらけのフグの死骸だった….。気がつくとどしゃぶりの雨。三人とも海を見てあまりの嬉しさに時間も忘れて楽しんでしまったのだ。びしょ濡れになったし、そのままノンストップで帰るのもドライバーのnobuyaが大変なので群馬に寄って温泉に入ることにした。出るともうすっかり暗くなっていたので道の駅の駐車場で一泊することに。辺りはまっくらで誰もいなそうだったのでnociwのリードを外し遊ばせていたら、同じように車で寝ていた人がいて、その女性がトイレに行きがけにnociwに出くわしてしまい「うっうぎゃぁーっ!!」と尋常でない悲鳴を上げた。隣が警察だったのでひやひやした。まるで暗闇から突然野獣が現れたかのような叫びだった。「驚かせちゃってごめんなさい」とnociwも頭をペコリと下げた。いやそれにしても人間はとっさの時にはもの凄いエネルギーを放出するものなのだと思った…。車の中で寝袋にくるまって三人で川の字になって寝る。そんな小さなことがたまらなく幸せだった。朝、目覚めてすぐに真っ白な川原へ散歩に行き、もう一度温泉に入り最後に出会った神社へみんなでお礼参りをして無事家路へと着いた。

三人で行った初めての旅は導きの旅だった。これからも我らの珍道中は続く…..。


_ 2006.02.13_>>>_ 満月

「地大豆」

先日「カフェスロー」にて開催された「地大豆カフェvol.01」に行ってきた。友達である尚が代表を務めるNPO「トージバ」が主催すると聞いたからである。

このイベントは地大豆がつなげる人と地域。食と農のネットワークを広げる目的を持っている。「地大豆」とは古来よりその地域で育てられてきた大豆のことで「在来大豆」ともいい、日本全国で300種類以上あるといわれている。味噌、醤油、豆腐、納豆、枝豆…..など日本人にとって1年中欠かすことのできない大豆だが現在日本ではその自給率がなんと5%しかないそうだ。昔は100%国産でまかなわれていたのに何故なのか?その影には海外からの遺伝子組み換え大豆の普及があった。海外産の安い遺伝子組み換えの大豆が輸入されるにつれ国産の大豆農家が食べて行けなくなってしまったのである。そもそもなんで遺伝子組み換えの大豆がこれほどまで世にはばかるようになったのか?それは地球の将来の食料不足を危惧して生まれたというのが表向きの概念らしい。が、大豆農家さんは言っていた。「大豆は非常に生命力の強い作物。変な話、土のあるところにパラパラと播くだけでたいていは自力で芽を出してくれる。遺伝子を組み換えなくとも立派に育ち恩恵を与え続けてくれる稀な作物です」と。マウスによる実験もされていた。遺伝子組み換えの作物を餌として与え続けたマウスに起きた体の異変。でもそういうことは一般庶民には決して知らされない。マウスに異常が起きても人間には大丈夫なのか?それは未来にならなければ誰にもわからないことなのである。驚いたのはよく食品のパッケージに「遺伝子組み換えでない」と記されているのを目にするが、5%までなら遺伝子組み換えであっても「組み換えでない」と表示していいことになっているという事実だった。そうなってくるともうわけがわからない。「遺伝子組み換えいらないキャンペーン」を10年間続けてきたという方が言っていた。「この10年の間、国や色んな機関に訴えてきましたが実際は何も変わりませんでした。でも自分の孫やまたその孫たち…と考えるとこの活動を止めるわけにはいきません。それに今ここに集まっている若い人達が地大豆に関心を持っているということが何よりの希望です」と。

そう。この日は実際に地大豆を作っている農家さんとその大豆で豆腐を作っている豆腐屋さんが来て話しを聞かせてくれた。様々な圧力にも負けず信念を曲げずにやり続けてきた50代60代の農業家についで20代30代の若い農業家の顔がそこにはあった。みんなものすごくいい顔をしていた。そしてとても楽しそうだった。彼らを見ているだけで「うん。これからの日本の農業は大丈夫!」そう思えるほどの輝きを放っていた。農業家というアーティスト。その生き方は本当にカッコイイ!と思う。話しの後、彼らの作品である豆腐の試食もあった。様々な地大豆から作った豆腐の食べくらべ。「うまい!」の一言が腹の底から沸き上がってくる味だった。作り手の顔を見て食べたからなおさらだったかもしれない。「食べ物は直球です。宗教よりも説得力があるから」と尚が言っていたが、本当にその通りだと思う。入ってきた食物に対して体は素直に反応する。食後の感覚として答えが返ってくるのだ。感情で物を食べても体は体の仕事をするだけ。健康な食べ物は健康な体を作り健康な精神を宿す。この、いたってシンプルな仕組みは昔も今も変わらない。

私とNOBUYAは年末に体と心をクリアにするために断食をしてみた。「食べない」ことは「食べる」ことを教えてもくれた。「何を食べるべきか」を。断食明けの食事で摂った味付けなしの本当の野菜の味。本当の旨さ。久しぶりに食べ物を口にして体の中からフツフツと喜びのエネルギーが湧いてきた時、命を繋ぐ者として初めて本気で体は本当に大切なんだと思った。魂の住処としても居心地がいいにこしたことはない。快適な環境はいい発想を生み出すからだ。だから食と農は地球の未来にとってとても重要な鍵を握ると思う。物食う者としてはもう無知ではいられなくなってきた。会場でチケットと一緒に渡された地大豆のつぶ。春になったらアトリエの庭にパラパラと播いてみよう。自力で出てくる芽との出会いを楽しみに待ちながら…。


_ 2006.01.29_>>>_ 新月

「再生」

アリエルダイナーで開催していたnaoによるギャラリー「nociw」の写真展での28日のイベントには、たくさんのnociwつながりの人々がいて感激した。そこにはnociwに来たことのある人も来たことのない人も共にいて、あちこちで交流が生まれていた。アリエルダイナー最後のクロージングパーティーも兼ねていたのでアリエルのスタッフも色々な思いを胸にホールで厨房で一生懸命に働いていた。店長の阿部さんの特別の許しを得てフロアに出ていた我が家のオオカミ犬nociwも仲間達が代わる代わる交代で面倒を見てくれていたお陰で、片隅でいい子にしていてくれてとても助かった。みんなのエネルギーが穏やかだったから彼女も安心したのだろう。何だか「nociwの写真展にnociwがいること」がとても不思議でならなかった。

私としてはギャラリー「nociw」はオオカミ犬「nociw」に姿を替えただけだと思っている。「姿は変わってもそのスピリットはずーっと生き続けているんだなぁー」と、みんなを見てそう思った。そして何より輝いている子供たち。個展やイベントの度にこうして成長していく子供たちの姿を見るのは本当に嬉しいことだ。いつものように来ている人たちが口々に言う。「いやーまるで親戚の集まりみたいだね」と。確かにこの日は旧正月の前日だから大晦日にあたる。その特別な日に親戚が一同に会したようだっだ。DJブースのnobuyaもいつものようにとても楽しそうだった。今回の彼の中のテーマは「NEW LIFE」だったが、ニコニコ顔の大人と子供と犬がひとつの空間にいてお互いの表現を交わしあっている光景は確かに未来を予感させた。ひとりひとりがアーティストだった。アリエルが掲げていた「ORGANIC LIFE&STYLE」のスピリットはアリエルがなくなっても、そこに関わった多くの人々によって外の世界へと確実に拡がっていくと思う。ギャラリーnociwがなくなってもこうしてみんなの中で「ARTSPIRIT」が育っているように….。

naoの今回の写真展のテーマ「kanna an」はアイヌ語で「再生」という意味だった。翌日、新月と旧正月が重なったこの日。かつてnociwが存在したフィオーレの森のお茶室「真樹庵」にて、水琴窟がある庭を見ながら仏陀が弟子たちに説いたという講話のテープを聴く機会を得た。そこにはくり返し「この世のすべては縁によって成り立っている」と説かれていた。人も動物も自然も。死と再生も。あらゆるものが網の目のように互いにつながっている…。私は前夜の光景を思い浮かべながら目を閉じてその言葉を噛みしめていた。するとテープの声はさらに最も大切なことは「信じること」だと言った。疑いからは何も生まれない。信じることからすべては生まれると。私は子供の頃から信じることだけは誰にも負けないくらい得意だった。そして20代の半ばに「自信とは自分を信じることだ」と「ハッ」と気づいた時から生き方そのものが変わったのである。今は本当に絵を描く時も、森を歩く時もごはんを作る時も「ワァーッ」と幸せが波のように押し寄せてくる。そして毎日の祈り。太陽や月に思わず手を合わせてしまう時にも等しくその感覚は訪れるのだ。こういう自分でいられることはすべて縁のお陰だと今は素直に思うことができる。そしてこの縁に心から感謝しています。

ありがとう。あなたにもたくさんの幸せが訪れますように!


_ 2006.01.14_>>>_ 満月

「SINGIN IN THE RAIN」

今、登戸のオーガニックカフェ「アリエルダイナー」でギャラリー「nociw」の写真展が行われているので、猛男と優子とnobuyaと4人でランチを食べに行ってきた。壁一面に貼られたnociwの写真たちを眺めていると一気に懐かしさが込み上げてきた。そこに写ってるものは確かに存在したという証しなのに、nociwをやっていた4年間はまるで夢のようで不思議の連続だったから…。この写真を撮ったnaoのコメントを読むと、彼女がどれ程深くnociwを愛してくれていたかが改めて伝わってきた。写真を通して見るnaoの目線は常に暖かな愛に包まれている。今回がnaoにとっても初の個展でもあるが、こうしてnociwをきっかけに自分の表現を解放していることが何より嬉しい。

アリエルダイナーとの縁もnociwのお客さんが「∀KIKOさん是非行ってみて」と教えてくれたのがきっかけだった。行ってみるとそこにはまた別のnociwのお客さんがホールで働いていて….という具合にここは最初から何かを感じさせる場所だった。次第にアリエルのスタッフがみんなnociwに遊びに来るようになって、私も何度かアリエルで個展を開いたりnobuyaもDJパーティーをやったりして、おおいに楽しませてもらった。そんなアリエルダイナーも突然、今月いっぱいでクローズになるという。オーナーの都合らしいが年明けにいきなり告げられたスタッフはとても落ち込んでいた。それでも「アリエル最後の展示がnociwの写真展で終わることが嬉しかった。これは偶然じゃあないと思う」とみんなが口々に言ってくれた。「これもスタッフみんなにとってのタイミングだから前向きに考えて最後まで頑張るよ。nociwの写真を見てると元気が出るから!」と。そう終わりは始まりなのだ。

外に出ると雨が降っていた。最近nobuyaと何度も見ている映画がある。それはジーン・ケリーの「雨に唄えば」この日もまた無償に見たくなって、猛男と優子の家で見ることになった。TVがない我が家はビデオをいつもi Macの小さな画面に食らいつきながら見ているのだが、2人のお陰でたまにこうして大きな画面で見せてもらえるのが何よりの楽しみになっている。この作品は1952年公開のミュージカル映画の集大成ともいえる名作だが、サイレントからトーキーへと移行する映画史にとっても劇的な変化を迎える時代が背景で映画に携わる人々にとっても様々な苦悩や葛藤があるが、それでもやっぱり前向きに今という時を楽しんで生きようとするメッセージが素晴らしい唄とダンスによって繰り広げられていて、人としてアーティストとして自信と勇気を貰える作品だ。映画鑑賞をすっかり満喫して猛男と優子の家を後にした。外はまだ雨が降っていた。心地いい雨だった。私達は思わず「シンギーン~インザレーイン~♪」と唄いながら幸せな気分で家に着いた。

雨に濡れながら笑った今年最初の満月の夜だった。