「鹿の頭骨」

私のアトリエに長いこと飾っていた鹿の頭骨を出会った森に返してきた。

今から20年ほど前に私はその森でこの鹿と出会った。NOBUYAと毎週のように通い続けた秘密の森。そこに通って10年が経とうとしていた頃だった。
いつものように森に入ると大きな岩の上に鹿の生首がでんと置かれていたのだ。猟期だったため猟師が射止めた鹿を頭の部分はいらないからと置いていったものだった。その首は角を持ち上げて切断面からしたたる血を見なければ、まだ生きているかのように美しかった。私達は土を掘ってその頭をいったん森に埋めて半年後に取り出すことにした。その間に土中の微生物が掃除をしていてきれいに白骨化した頭骨が土の中から現れた。それを家に持って帰ってアトリエに飾ってから、私は憑かれたように鹿を描き始めた。画集「wor un nociw-水の星-」はその後にこの森を舞台にして創作したものである。この画集には水の音のCDが付いているが、それはNOBUYAが10年間この森のあちこちで採取した水の音たちだった。

アトリエに鹿の頭骨がきてから20年あまり、私はいつもそのもの言わぬ鹿に挨拶していた。ただそこにあるだけでなんだか見守られているような気がして心が落ち着いた。長い間そこにあるのが当たり前のような感覚になり別段気にとめることもなく歳月は過ぎて行った。ところが今年、初めて出会ったとある方から「あなたのアトリエにある鹿をもう返してもいいんじゃない?」という言葉が出てきたのだ。私はハッとした。そして思った。「そうだ。あの鹿は20年前の自分には必要だと感じ、欲しいと思ったものだったが、果たして今の自分にはどうなのか?」と。そして「そうだよな。もうここに執着する必要はないよな」と素直に思えたのである。そう心に決めてからは毎日鹿に「今までありがとう」と声をかけた。久しく行っていないかつてのあの秘密の森にNOBUYAが気が向いた時に連れて行ってほしいと彼に伝えた。

「よし、今日森に返しに行こう」とNOBUYAが言ってくれたその日、私はきれいにその骨を洗いセージで清めた。そして丁重に布に包んでもと居た森へと運んだ。久しぶりに来てみると、そこは長い間人が入っていない様子で私達が通っていた頃よりも鬱蒼としていてかえって豊かな森になっていた。
私は最後の挨拶をして手を合わせた。「今までたくさんのインスピレーションをありがとう」鹿はなんだか嬉しそうに見えた。やはり森の中にいるのが一番似合う。美しいものに心をこめてインディアンフルートの音色を捧げた。空にはかつて私達が森に入る時にはいつもそうだったように、鷹が旋回しながらサインを送っていた。帰ってみるとアトリエはとても軽くなっていて、あたたかく私を迎えてくれた。それは私の心の鏡でもあるのだろう。今はゆっくりと落ち着いて新たな創作にいそしむ毎日である。

幸せをかみしめながら…。