母の介護のために故郷の北海道余市に帰省している。
昨年の9月末に脳卒中で倒れ、入院していたが今年の2月に退院し、今は自宅で生活している母。入院中の11月に父が突然他界したため一人暮らしとなった。近くに住む妹が退院後、毎日通っているが、半年が過ぎ「そろそろ私もリフレッシュ休暇が必要!」ということで代わりに私が帰ることになったのだ。退院はできたものの、失語症の後遺症が残り、家事全般が不可能になったため介護が必要となったのだった。母との二人暮らしは人生初のことである。ましてや以前とは全く変わってしまった母と接しながら、自分自身を改めて知る機会を与えられ、学びの日々を過ごしている。
私は生まれ落ちた瞬間から家庭不和の環境で育った。両親は喧嘩が絶えず、母はいつもノイローゼの状態で、3つ下の妹が生まれてからは、母の妹と私に対する区別がハッキリとしていて、私に対しては言葉と態度の両方において、いつもイライラの吐け口になっている感があった。オネショをすると箒の棒で叩かれ、外に遊びに行って帰って来ると鍵がかけられていた。泣きながら入れてくれと懇願して、しばらくすると父がこっそりと中へ入れてくれた。家族で買い物に行って綺麗な手袋を眺めている時に、私を置いて帰ってしまったということもあった。何故かそういう記憶というものはハッキリと覚えていたりする。だから私は幼稚園に上がる前からしょっちゅう家出を繰り返していた。嵐の日には決まって外へ出て強風に体を預け「どうか、私を誰も知らない国に運んでください!」と神様にお願いした。でも何度やっても知らない国に行くことはできなかった。そこで思いついたのは道路を走るバスだった。「あの乗り物に乗れば知らない国へ行けるかもしれない…」私はバス停に行って停まったバスに乗り込み、一番後ろの座席に蹲って遠い所へ運ばれることを祈った。だが、それも終点で必ず車掌さんに見つけられ、警察へ届けられ家へ返され体罰を受けるという顛末だった。
そこで幼稚園に上がる頃には、子供ながらのありったけの反抗心を込めてクレヨンで家の壁に「おにばばあー」と書き、その「ー」をずーっと壁づたいにどこまでも伸ばしたりした(笑)。その後は再び何倍にもなって自分の身に返って来るのだが、私の衝動は収まらなかった。
そうして8才になった時、学校に行こうとしたら突然、原因不明の腹痛に襲われ、余市の病院では対処できず、そのまま札幌の病院に搬送され、そこから親元を離れ5年間の入院生活を送ることになった。体は激しい痛みでとても苦しかったが、運ばれる車の中で「あぁ、これでやっと家から離れられる…。」と安堵感を得たことを今でも覚えている。が、それから母は急に変わったのだ。毎月、見舞いに来てくれる母はとても優しくて、まるで別人のようで私には母の姿をした天使のように映った。そして面会に来てくれる日を「お母さんに会いたい!」と心から待ち遠しく思えるほどになったのである。その入院中に母は離婚して別の男性と付き合い始め、その方が面会に一緒に来るようになり昨年他界した父となったのだった。
私とNOBUYAが高校を卒業して一緒に上京し、同棲をした後、結婚するということになった頃、初めて母は東京の私達が暮らす家へとやって来た。NOBUYAが留守で2人切りになった時、私は思い切って長年心の底にしまい込んでいた気持ちを母に打ち明けた。私の中の何かがそうせずにはいられなかったのだ。「お母さん、お母さんはなぜ、あの頃、私だけに対して、ああいう態度を取っていたの?」母は思いも寄らぬ私の問いに一瞬「ハッ」とした顔をし、しばらく沈黙したのち、深妙な顔をして語り出した。母が結婚した父には以前から付き合っている女性がいて、結婚後もなお、それは変わることがなかったのだと…。父を愛していた純粋な母にはその現実が耐え難く、その吐け口を私にぶつけることしかできなかったのだと、ハッキリとそう認めたのだった。「そうだったんだ…」結婚を目前にした、あの頃よりは少しは大人になっていた私には、母のその辛さがどれ程のものだったかを想像することができた。「お母さんも、傷ついていたんだね…」そしてその時、初めて母を1人の女として捉えることができ、素直に母を許すことができたのである。私は自分の人生が始まって以来、溜まっていたシコリのようなものが溶け出していくのを感じていた。
そうなのだ。誰のせいでもなく、過去のことは私と母の因果なのだと今の私には理解できる。人生の終盤にさしかかった母を前にして思うことは、ただただ感謝しかない。なぜなら今、私は今回の生を本当に楽しみ、幸せを感じているからだ。だからこそ、今しかできない母との貴重な時間を慈しんでいきたいと、心からそう思う。そう思える自分になれたことがとても嬉しい。
お母さん、産んでくれてありがとう。心から愛しています。